第58話 とある初夏の種明かし

 ひどく口の中が渇いて、俺はぐっとカップを煽った。ぬるくなったコーヒーが一気に流れ込んでくる。けれど、潤ったのは一瞬だけのこと。


 斎川の言葉は依然として、頭の中をぐるぐると駆け巡っている。でもそれだけだ。思考は少しも前へと進まない。

 色々あった今日の中で、最大級の衝撃。そのくせ、相手は澄ました雰囲気を崩さない。ますます混乱は深まるばかり。


 カップが空なことを確かめてから、改めて椅子に座り直す。静かにひと呼吸してみるも、期待してた効果は表れず。

 

「気づいてたって、まさか相手の方もか?」

「ううん、先輩は違うと思う。周りを見る余裕なんてなさそうだったから」


 そう語る斎川はかなり落ち着いている。仮にも自分が告白されたときの話なのに、微動だにしない。


 思い返してみても、あの時のことは朧げだ。渡り廊下で斎川たちを見かけた。それで、反射的に身を隠した。

 斎川が気づいていたかどうかなんてよくわからなかったのが本当のところ。ましてや、3年の方なんかなおさら。


「まあでも、気づいてたら告白なんてしないでしょ。見せつけたかったのなら別だけど。そこまで親しくないから何とも言えないわね」

「……だろうな」

「あんまり納得いってない感じ?」

「いや、そのことはもういい」


 疑問は確かに解決していた。けれど、状況は何も変わっていない。得られた情報は無価値。

 結局は訊くべきことを誤った。したのは自分だけど。

 問題点ははっきりしてる。誰がなんてどうでもいいこと。他でもない斎川が、俺の存在に気づいていた、それが意味するのは——


「わかってて、素を出したのか。あの独り言は演技……」

「うん。そもそも、あたしがそんな迂闊に見える?」


 しげしげと、相手はこちらの顔を覗き込んでくる。よほど自信があるらしく、その目とても力強い。


 実際、そこそこ抜けているとこあると思うが。たぶん、いつもならこう返していた。勉強の合間の雑談時とか。

 しかし、今は違う。それに自分を偽るという点に関しては、斎川瑠実奈は徹底している。これまで見てきてよくわかっている。


 店の雑踏の中、視線だけがぶつかり合う。俺たちの周囲だけ、異質な空気が流れている。


 平行な2本の直線は意図的に曲げられていた。偶然だと思っていたことは必然だった。すべての前提がひっくり返った。


 だというのに、俺はあまり驚いていない。心は至極冷静で、さっきまでの動揺もすっかり収まっている。突如明かされた真実は、すんなり耳に入っていた。

 あるいは、心のどこかでそうだったらいいのに、と思っていたのかもしれない。、少し前の相手の言葉を思い出す。当然、あの昂揚感も一緒に。


 しかし、それはまやかしだ。俺にだけ一方的に見えているもの。


「どうしてだ。なんでそんなことを。だって、お前は本当の自分をずっと隠してきたんじゃないのか?」

「興味があったからよ、國木頼仁という人間に。目立たなく地味な生徒。交友関係もすごく狭い。誰とも仲良くしたがらない、って誰かが言ってたな」


 思い出そうとするかのような目の動き。トントン、リズミカルに細い指が机を叩く。


 こちらとしては、気が気でない。向こうが真面目な雰囲気で話しているのは俺のこと。もはや拷問に近い。


「一方で、世話になったみたいな話もよく聞いた。矛盾してるけど、どちらもアンタの本質なんでしょう。そのギャップも気になったけど、やっぱりあたしが強く惹かれたのはあの朝のことだった」

「……どうしても、受験の日のことに戻るんだな」

「うん。だって高校受験よ。人生のすべてが懸かってるとは言わないけど、それなりに大事なもの。國木にとっては、島を出られるかにもかかわってたんじゃないの」

「それは……まあ一応滑り止めは受けてたし。街のどっかの高校には通えてたさ」

「だとしても、よ。それなりに大切なものを、見知らぬ他人のために犠牲にしようとした」


 いつの間にか、斎川の口調にも熱が籠っていた。勉強や料理のときとはまた違う方向性。どこか切羽詰まっているような。


 それでも、俺は奴の言うことは大げさすぎると思う。あの時の俺にそんなつもりは少しもなかった。ただ考えなしなだけ。呆れられはしても、一目置かれることじゃ絶対にない。


「身を削って他人に手を伸ばす。あたしには、いまいちピンとこない感覚だった。だから、呟いてみた。ベンチの裏に、アンタがいることを期待して」


 言い終えて、斎川は口元を緩めた。久しぶりに見た微笑み。憑き物が落ちたみたいに穏やかで、儚げな視線にちょっとドキっとしてしまう。

 右耳近くの髪を払ってから、そっと斎川はカップの液体を口に含む。どうやら、話したいことは全部吐き出し終えたらしい。


「そうか。何かわかったか?」

「全然。ちっとも、理解できてない。でも、楽しくはあった。誰かの近くにこんなにいるなんてこと、久しくなかったから」

「……そんなの、俺も同じだっての」

「へ?」

「お前のその二面性に惹かれて、もっと知りたいって思った。でも、いまだ知らない顔が見えてくる。今日誘ったのだって、昨日で終わりにしたくなかったから」


 ここまできて、ようやく答えがわかった。俺はただ斎川との距離をもっと縮めたかっただけなんだ。認めてしまえば、いきなり気恥ずかしさがやってきた。


「悪い、変なこと言った」

「ううん、そんなことないでしょ。――そっか、國木もあたしのこと知りたいんだ」


 独り言のような小さな呟き。ややはにかんだ後、斎川は静かに立ち上がった。


「そろそろ帰りましょうか」

「……ああ」


 一呼吸おいて、先に歩いていた斎川をゆっくりと追いかける。テスト以上に、どっとくたびれた。早く自室のベッドに飛び込みたい。


 言葉を交わさず、微妙な距離感を保ったまま、1階まで下りる。すっかり陽が沈んだ時間帯、通行人の数も最高潮を迎えていた。


 駅との境目なところで、俺は斎川と向かい合った。何を言えばいいのかわからない。正直、脳はキャパシティオーバー。勢い任せに口にしたことがつい蘇っては、一層喋る気をなくなってしまう。


 気まずさに立ち尽くしていると、相手の方がぐっと距離を縮めてきた。あっという間に、すぐ近くまであいつの顔が迫ってくる。


「また明日。いつもの場所で、ね」


 耳元で囁くと、すぐに斎川は人ごみの中へと消えていった。一切の余韻は残さず、清々しいまでに思い切りよく。


 あいつが見えなくなっても、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。何かが変わった気がする。その実感をかすかに感じながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る