第57話 とある早春のニアミス
斎川に誘われるままに、近くのカフェへと入った。店内はやや混んでいた。お互い飲み物だけ注文して、何とか見つけた空席へと腰を下ろす。
「入試の日の朝、國木を見かけたわ。もちろん、あの時はホントに赤の他人だったわけだけど」
座るなり、いきなり話を切り出してくる斎川。少しだけ口元を歪ませると、自分の飲み物に口をつける。そしてほっとしたように、顔を緩ませた。
いきなりだな、とは思ったがこちらにそこまでの驚きはない。ちょっとだけ姿勢を正しながら、言葉を返す。
「まあやっぱり目立ってたよな」
「少しは人の目を気にしてたんだ。まあ、大泣きした男子小学生と中学生なんて、事件性の香りしかないもの」
「……あのな、あの子が泣いてたのは俺が原因じゃ」
「知ってるわよ、もちろん」
大勢の受験生に混ざって、俺は受験会場へと向かっていた。3月だというのに、大雪が降った翌日のこと。道の除雪はあまり間に合っていなくて、歩くのに苦労した覚えがある。
その道中だ。泣きじゃくる小学生の男の子を見つけたのは。道の端っこに立って、声を殺して泣いていた。
堪らず、心配になって声をかけた。こんなに取り乱すなんて、なにかよほどの事情があるのかもしれない。そう思ったのはほぼ同時のこと。
落とし物をした、とその子は言った。お気に入りのキーホルダー。どんなものだったかは、さすがに忘れたけれど。
「あたしは反対側の道にいた。あの子のことに気づいて、立ち止まって見てたわ」
「そうだったのか。まあ、周りに結構受験生いたもんな」
「でも誰もあの子に声をかけなかった。ただ気づかないふりして、先を急ぐだけ。でも、あたしはもっと質が悪いけどね。だって、じっと観察してたんですもの」
斎川にしては珍しく、自虐的な笑みを浮かべた。またカップを持ち上げると、遅れて細く白い喉がごくりと動く。
もしかしたら、その時のことを恥じているのかもしれない。伏し目がちに、奴は遠くをどこか遠くを見ているかのよう。
「別に、悪いことじゃないだろ。気づいたからって、声をかける義務なんてない。ましてや、大事な試験が控えてるんだから、誰だって厄介ごとは避けたいさ」
「でも國木はそうじゃなかった、でしょう?」
「まあ、それは、その……」
「謙遜しなくてもいいわ。そっちはたぶん当たり前のことをしただけだと思ってる。それに、國木じゃなくたって、そのうちほかの誰かが声掛けしたかもしれない」
斎川が優しい顔で述べたことは、見事に俺の考えてを射抜いていた。それでますます、身体が強張る。
事実、俺の周りはかなりざわついていた。誰かがあの子の話を聞きにいこうとする気配もあった。
だからあれはたまたま俺が先んじただけ。連れ合いもいなく、ひとりだったから身軽だった。それくらいしか、アドバンテージはない。
「でもね」
少し沈黙が続いたあと、斎川が小さく唇をなめる。あの吸い込まれそうなほど強い瞳がこちらを向く。
「あの時のあたしには、アンタのことが特別に見えた」
特別、その言葉を聞いてやや気持ちが逸る。早くなった鼓動をコーヒーを飲んで誤魔化した。ホットにしたのは失敗だったかもしれない。身体は変に火照ったままだ。
「だからそんな大したものじゃないって」
「それだけならそうかもね。でも、そのまま見てたら驚いたわ。2人して、来た道を戻っていくんだもの。なんだったの、あれ」
「なんか大切なものを落としたとかでさ。それで探しに行こうかと」
「また時間のかかりそうなことを」
呆れたように、斎川は眉をひそめた。脱力しながら、少しだけ背もたれに寄りかかる。
そんな反応をされると、こちらとしてもひどく愚かしい気持ちになってきた。つい顔が強張ってしまう。
「とっさに思いついたんだよ。ちゃんと見つかったし、まあよかったよ」
「入室時間ギリギリだったけどね」
「……なんで知ってるんだ」
「あたしもいたのよ、あの教室に。気づきようはなかったでしょうけど」
ふふんと、くすぐるように相手は笑った。こちらを煽ってくるような表情で。
あの情けない姿を目撃されていたとは。さすがにこれには驚かされた。
絶望的なまでに静まり返った教室。教壇から注がれる痛い視線。その時の緊張感は今でもはっきり思い出せる。
果たして、こいつはどの辺りにいたのか。残念ながら、脳裏に浮かぶのは人の頭がきれいに並ぶ画だけ。
苦い気分を味わっていると、斎川がまた顔を引き締めた。
「でも、それは結果論だわ。あとちょっとで試験受けられなかったところなのよ」
「さすがにテキトーなところで切り上げるつもりだったって。あの子も、学校あるわけだし」
「どうだか」
鼻で笑われてしまった。どうやら、よほど信用されていないらしい。
ギリギリまで粘ってたのは事実だからな。雪の上を疾走したせいで、足元もかなり濡れてたし。その姿からすると、今の言葉は白々しいだろう。
「あたしには不思議だった。どうしてそんなに自分を犠牲にできるんだろうって。それで入学後、その奇妙な受験生を探すことにしたわ」
「……なんか複雑な気分だ。そんな前から知られてたとはな」
「ふふっ、そうでしょうね。すぐに國木のことはわかった。隣のクラスだったわけだし――覚えてる? 2年生に上がるちょっと前に、少しだけ話したの」
「当たり前だろ。いきなり話しかけられたからおかしいと思ったんだよ」
「みたいね。あの時の國木、とても挙動不審だったから」
「……そんなにか」
「そんなによ。ふふ、思い出したらおかしくなってきた」
斎川は小さく笑い始めた。口元に手を当ててあくまでも控えめにだが、はっきりとわかるように。
そんなに面白かったのだろうか、あの時の俺は。正直、自分じゃよくわからない。ともかく、気恥しいのと共に少しだけ腹立たしい。
「で、同じクラスになった。もっとも、ろくに話すことはなかったけど」
「まー、席も離れてたし、係とか委員も別だしな」
「うん。でも、ある日いい機会が訪れた。あたしはひとつ、お芝居をしてみることにした」
どくん。大きく心臓が跳ねる。中心部で血流が激しくなる一方、手指にうまく力が入らない。
対して、相手の顔はどこまでも平然としている。なんなら、楽しい世間話をしているように気安げだ。
はっきり言われたわけじゃない。でも、何のことなのかはすぐに脳裏に浮かんだ。
「中庭に國木がいるの、気づいてたのよねー」
斎川は一気に顔を綻ばせた。
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