第17話 気まぐれ返し

 こんなにも集中したのはずいぶんと久しぶりだ。それこそ、受験勉強まで遡るかもしれない。……定期テストや模試のことは忘れた。


 一息ついてふと顔を上げると、周りの席はだいぶスカスカになっていた。当たり前か、窓から見える風景はすっかり夕闇に包まれている。


 片隅に放置していたスマホを手に取った。時間を確認するつもりだったが、同時に姉からのメッセに気が付いた。


『お帰りはなんじ?』


 送信時間は一時間ほど前。ちょうど捗り盛りの時間帯だったので、意図せず無視した形になってしまった。

 姉の内心に思いを馳せつつ、『もうそろ』と素早く返信しておく。閉館時間的に、あと一問くらい挑戦するつもりだった。


 短く息を吐いて、改めて問題集に向かい直す。気合を胸に、シャーペンを握りなおすが――


「ここまで気づかれないと、さすがにちょっと傷つくな~」


 隣から高い女性の声が聞こえてきた。かわいらしい響きの中に、どこかいじけたところを感じる。


 横を向くと、ややふくれっ面の女神様と視線が合った。いきなりどうしたんだろう。ほかに、学校の人間でも見つけたか。


「……いたのか、斎川」

「うん、少し前からね。國木君は、ぜーんぜん気づかなかったみたいだけど」


 そのまま明るい調子で続ける斎川。この状態だと、表情のバリエーションに加えて身振り手振りも増える。

 こちらとしては、微妙な気持ちで受け止めるしかない。もう一度周りを見渡してみたが、学校関係者と思しき姿はなさそうだ。


 そんな俺の反応が気に食わなかったのか。唐突に、女神様はがらりとその雰囲気を変える。


「それとも、あえての無視とか?」

「まさかそんなわけないだろ。そっちこそ、心当たりでもあるのか」

「さあ、どうでしょう。さっきのが気に食わなかった、とか」


 斎川は腕を組んで意味ありげに微笑む。どこか挑発するような雰囲気。瞳の奥に、ありありと勝気な色が見て取れる


 本棚でのことを言っているのか。あの告白をしたあと、彼女はすぐに去っていった。ただ一言、「そろそろ戻らないと」と残して。


 確かに、いささか拍子抜けしたのは事実だ。具体的に何かを期待したわけじゃない。それでも、少しくらい反応があると思ってた。


 でも後から考えてみると、俺自身不思議だった。どうしてあんなことを言ったのか。特に考えもせず、衝動のままに口にしてしまった。

 寄り添うため、理解するため、ある種の仲間意識から――その衝動の正体はわからずじまい。その迷いを振り払うように、作業に打ち込んだ。


「斎川は明日もここに来るのか?」

「どうして気になるの?」

「……質問に質問で返すなよ」

「じゃあ答えてから改めて質問するわね」


 こちらの魂胆はバレバレってことらしい。すぐに逃げ道を塞がれた。まあすぐに消える、か細いものだったが。


 理由なんてない。ただ聞いただけだ。その答えに想像がついていながら、やはり何かにつき動かされた。


「家にいたくないってのは昨日今日の話じゃないからね。國木ならわかってくれるんでしょ?」


 ここぞとばかりのダメ押し。完全に向こうの手玉に取られている。さっきから、彼女が生き生きとして見えて仕方がない。


 答えに窮して黙り込む。この女、まさかここまでそこ意地が悪かったとは……女神じゃなくて悪魔だろ、これは。


 追い打ちは来ない。情けか、あるいは十分だと思ったか。それとも、無言の重圧をかけているのかもしれない。なんにせよ、相変わらず斎川ペース。


 だが、沈黙はそれを作った張本人によって打ち破られた。


「まあ図書館は明日休みなんだけど」

「……そうなのか」


 生きた心地がしない。さっきから心拍数が上がり続けている。いっそのこと、トドメを差してほしいくらいの気持ち。

 一方で、その答えを残念に思う自分がいた。別に、こいつに会いにここに来ようと思っていたわけではないのに。


「じゃあどうするんだ? そのほかのところとか」

「それは考え中。テキトーに街でもブラつこっかな」

「……じゃあさ、うちで一緒に勉強しないか?」


 ああ、本当に。

 今日の俺はどうかしている――




        ※




 夕食後、皿洗いをしながらソファで寛ぐ姉の様子を観察する。寝そべってスマホ弄り。完全なダラダラモードだ。


「明日なんだけどさ、人呼んでいい?」

「なあにあらたまって。どうせ丸ちゃんでしょ」

「いや違う」

「あ、そうなんだー」


 気のない返事。視線は下を向いたまま。全く興味はなさそうだ。


 まあそっちの方が都合がいい。ヘタに詮索されると面倒くさいことはわかってる。女子を呼ぶなんて知ったら、果たして姉はどんな反応をしたものかわかったもんじゃない。


 しかし、改めて考えると変な感じだ。斎川のやつ、普通に乗ってくるとは思わなかった。こちらとしては、完全な勢いだったのに。

 こうなると、短慮だった自分を殴り倒したくなってくる。自分のことながら、あまりにも意味不明すぎだ。


 まあすべては後の祭りか。実際、勉強を教わりたい気持ちは本当だ。今日だけでわからないところは結構たまった。

 よく考えれば、昨日も二人だけで居残り勉強してたわけだし。


「で、結局呼んでいいわけ?」

「うん、もちろん。ただ、アタシいるからね」

「それはいいよ。気にしない」


 予想通りオーケーをもらって一安心だ。ダメだったら、あいつに申し訳ないし、連絡するのが面倒くさい。


 ともかく、一つの関門をクリアした。だというのに、気持ちは全く落ち着かない。


「……あ、これさっき洗ったやつだ」


 初めてしたミスに、自分の愚かさをひたすらに呪うのだった。

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