第12話 密会は壁を溶かす

 沈黙が痛い。呼吸が浅くなり口の中が乾いていく。机上のペットボトルは封がされたまま。とても手が伸ばせる状況ではない。

 自信はあった。すらすらとペンが走った。でも、それらは全部遠い昔のことに思えた。今俺の心にあるのは不安感だけ。


 斎川はある一枚のプリントをじっと睨んでいた。時折、手に持った赤色ボールペンがせわしなく動く。それが円の軌跡を描くのは稀。

 彼女に丸つけしてもらうだけなら昨日も経験した。だが、題目が違えば同じように構えることは難しい。


 悲しいことに、緊張とはあんまり縁のない生活を送ってきた。この程度の空気感すら、過度に受け取ってしまう。

 テスト開始前、伏せられた問題用紙を前にしたような感覚。いや、この場合だと真逆か。だって、答案用紙はとっくに回収済みだ。

 採点が目の前で行われそれを待つのがこんなに苦しいとは……。今になって、経験不足を痛感させられる。


 結局、この落ち着きのなさを飼いならすことはできなかった。天井を見上げていたとき、視界の端でが顔を上げたのがわかった。


「はい、終わったよ」

「……おう。ありがとう」


 スライドしてきた我が愛しの答案用紙をおずおずと受け取る。白紙の面が存在しないこのプリントは、どれだけ手のひらで覆っても丸つけの痕跡が目に入ってしまう。


 いまいち結果を見る踏ん切りがつかないでいると、斎川がちょっと目を細めてきた。そのまま肩ひじをテーブルについて、その上に顔を載せる。


「緊張してるんだ」

「いや、まあ」

「もっと冷静な人だと思ってた、國木君のこと」

「だってさ、せっかく教えてもらったのに全然できてませんでした、じゃ斎川……さんに悪すぎる」


 そんな申し訳なさとともにもう一つ。単純に恥をかきたくないというのもある。相手が誰でも、できない自分を見られるのは恥ずかしい。

 もっとも、もう結果はでているわけで。しかもほかでもない彼女の手によって。今更どうこうしたところで意味はない。どこぞの箱の中の猫の話とは違うんだ。


 何かが斎川の気に障ったのか。向こうのすまし顔がやや曇る。形のいい眉の間に、不似合いな皺ができた。


「昨日から思ってたんだけど、無理してさん付けしなくてもいいよ。好きに呼んで。あたしもそうするから――國木。うん、こっちの方がしっくりくる」


 言った後、頬杖をやめた斎川は嬉しそうに頷いた。何度も何度も、まるでその響きの自然さを味わうように。


 脈絡のない発言に、俺は戸惑いを隠せないでいた。つい表情が歪んでしまう。

 でも、呼ばれて確かに嫌な感じはしない。こちらとしても、しないで済むなら気が楽だと思う。けど――


「いきなりなにかと思ったぞ。怖い顔するもんだから」

「そこまでじゃないでしょ。ちょーっとふざけ気味にしかめっ面を作っただけ」

「どこがだ。あそびなんか一切ない。むしろ凄みしかなかった」

「ほう。言うわね、國木」


 口角を不自然に曲げる斎川。一見すると涼しげな微笑だが、目の奥は全く笑ってない。はっきりと、下敷きにされた怒りが見て取れる。


 2度目の呼び捨ては、俺の中に漠然とあった遠慮を粉砕した。平穏な言い方をすれば、ようやく斎川瑠実奈に慣れてきた。


「そういうとこだぞ、斎川」

「むっ……ぷっ、ふふふ。はぁ、なんかおかしくなってきちゃった。ほら、さっさと捲ったら、ビビリの國木君?」


 なぜ笑い出したのか。どこにおかしさがあったのか。疑問はあるが、悪くは感じない。


 煽りに乗っかって、俺は採点済みの答案に目を通し始める。ざっと見て、綺麗な丸はひとつだけ。問題番号的に表面な方、その右上には完璧な形の28という数字が。


「なんかその、ビミョーだな」

「そう? よく頑張ったと思うけど。少なくともしっかり復習はした――でしょう?」

「まあそりゃあ」

「だったらいい。そもそも今までわからなかったのに、1回や2回でできるようになるわけないじゃない。教えてる方もプロじゃないんだし」


 最後の方は斎川流の慰め、なんだろうか。ちょっと気まずそうに顔を逸らしたのが、印象に残った。


「でも、できる奴だっているだろ」

「まあそれはそれ。これはこれ、よ。ともかく、それさっさと解きなおししましょ。まずはね――」


 身を乗り出すクラスメイトに、今度こそはと密かに闘志を燃やすのだった。




        ※




「——そういうこと。よかった、気にはなっていたんだ。昼休みのお出かけにしては長かったから」

「約束が破られたんじゃないかって?」

「ううん。丸林って、結構鋭いとこありそうだから」


 勉強の合間の小休止。人のほとんどいない閲覧スペースで、小声で言葉を交わす。


 話題は今日の昼間のこと。斎川、俺たちがどこかへ行ったのをめざとく確認してたらしい。そんな素振り、なかった気はするが。

 ともかく、隠すようなことじゃないので全部打ち明けた。慣れたとはいえ、まだ軽快な雑談は難しい。


「斎川も屋敷先輩のこと知ってんのか?」

「もちろん。ここの主人様あるじさまだし、よく話すわよ」

「なあ、なんで座敷童、なんだ? 苗字から、いや名前との合わせ技——」

「ひどいこと言う人もいるよねー。あんなに可愛らしくて素敵な先輩は他にいないのに!」


 少し大きめな明るい声が、俺の言葉を遮った。女神様モードへと突入だ。唐突すぎる……


 しかしなぜ。そんな疑問は次の瞬間には跡形もなくなっていた。


「あらるみるみちゃん。こんにちは」

「こんにちはです、屋敷先輩!」

「今日も頑張ってますね〜。あら、そこにいるのは、ライジンさんね」


 後ろから声がしたと思って振り返ると、曰く図書室の主人様がそこにはいた。肩口で切り揃えた黒髪に、優しげな丸顔、校則を再現した制服の着こなし。


はっきり言って、全く気がつかなかった。恐るべきほどの身のこなし。神出鬼没、ってこういうとき使えばいいのか。


「どうもです。あのライジンじゃあ——」

「お二人とも、なんの話をしていたんですか?」


 にっこり、とかなり威圧的な笑み。もしかすると、斎川の以上に迫力がある。


 さらに脇腹を隣の人物に小突かれた。ここまでくれば、おおよその察しはつく。そもそも、昼休みの一悶着を見ているわけで。


「ただの世間話っす。とてもくだらない」

「そうなんですね。ずいぶんと楽しそうだったけれど」

「あの! それで屋敷先輩。こんなところになんて珍しいですね」

「あっ。そうなんです、そうなんです! お二人——いえ、利用者に少し協力してほしいことがあって」


 困り顔で手を合わされると、なんだか受け入れざるを得なくなってくるのだった。

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