教会
その男は、およそ十年前から毎朝教会に行くことが習慣となっていた。男は毎朝、一日もかかすことなく車を走らせ、教会に通い続けた。しかし、男は自分でもなぜ教会にこれほど通いつめるのかわからなかった。男は仏教に入信していたし、その仏教すらも信じていなかった。男は神の存在を信じていなかった。それでも、毎朝教会にいかないと心が落ち着かないのだ。
この日も男は仕事前に車を走らせ、教会のいつもの席に腰をおろした。そして、スタンドガラスから漏れる暖かい光を見つめながら呆然と時間を過ごした。そんなとき、男に声をかける者がいた。
「とても信仰心のあるお方ですね」
杖をついた七十くらいの老人だった。男はこの老人知っていた。何しろ、十年前にここに通い始めてから、教会にこの老人を見かけなかったことがなかったのだから。しかし、話したことは今まで一度もなかった。この老人と話すことなどないと思っていた。老人は続けて「隣いいでしょうか」と尋ねてきたので、男は急いで頷いた。
「私は毎朝来ているが、あなたを見かけなかったことがない。素晴らしいことです」
老人は同じ高さになった顔の皺を深くし、優しい声で言った。
男は笑って会釈した。返す言葉が見つからなかった。男は、信仰心の欠片も持ち合わせていないのだ。自分でも、なぜこう毎日来ているのか、わからないのだ。
沈黙が続き、少し気まずくなる。男は老人に話しかける。
「あなたも毎朝ここに来ていますよね」
老人は目だけを男に向けた。
「ええ」
「何か祈りでもしているんですか」
老人は口をきつく結んだ。そして、少しうつむいてから、口を開いた。
「ええ、祈っています」
「いったい何を祈っているんです」
老人は困ったように手を揉み合わせた。そして、少し考えた様子を見せたあと言った。
「恥ずかしい話です。盗まれたお金を戻ってくるように祈っています」
「恥ずかしい話などではありませんよ。いくら盗まれたんです」
「大体、一千万円です」
男は目を丸くした。
「それは大金ですね。世の中にはひどい人がいるものです」
「いいえ、私が悪いのです。この話はもうやめましょう」
この老人、とっさに嘘をついた。この老人は金を盗まれてなどいない。むしろ、盗んだのだ。老人が神に求めるのは許しだった。十年前、金に目がくらみ人を殺して一千万円を奪った。犯行は恐ろしく完璧だった。証拠は何一つ残らなかった。しかし、罪の意識が老人を襲った。老人は盗んだ金が入ったバックを道に捨て、その場を離れた。
そして、今その老人の隣に座っている男、この男は、そのバックを拾った幸運な者だった。しかし、今はその事を記憶喪失によってすっかり忘れてしまっている。その一千万円を手に入れた幸運からギャンブルにはまり、借金を重ねついには人を殺めて金を盗んでしまった。それでも足りず、十年前、この教会の金庫に大金があることを聞きつけ、爆薬をつめたバックを持って深夜教会に潜りこんだ。そこで、なんと間抜けなことに足を滑らせ頭を椅子に強打し、爆薬を入れたバックは椅子の下に。そうして男は記憶喪失となった。それから男が教会に通ってしまうのは、無意識に爆薬を回収しようとしているのか、はたまた彼もまた許しを求めるのか。
今、男と老人が座る長椅子の下には、かつて男が持ち込んだ爆薬の入った黒いバックが息を潜めている。そして、長い年月を経て、あと数秒でまったくの偶然から爆発を起こす。神の仕業か、教会にはこの二人だけ。
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