最後の五分間

 病院のベッドに横たわるその老人は、衰弱しきっていた。歳がもう高齢であることもその要因ではあったが、苦労人であることも大きな要因だった。

 彼は仕事漬けの人生を送ってきた。しかし四十歳で転機が訪れた。恋に落ちたのだ。その年齢では愛と言った方が適切かもしれない。とにかく、一人の女性に夢中になった。そして、強烈なアプローチの末、交際し、結婚した。やがて彼女のお腹の中に子を授かり、幸せの絶頂に彼はいたが、彼女は男女の双子を出産したと同時に息絶えた。男は底知れぬ絶望、人生で最も大きな絶望を味わった。

 老人は男手ひとつで子育てしてきた。しかし、仕事しか能のなかった彼にとって、子育ては大変なものだった。しっかりしなければならないといった意識が、彼に子供に対して厳しい教育をさせた。彼は子供に対していつも怒ってばかりだったが、それは愛情と恐怖の裏返しであった。また同時に、最愛の妻を失った怒りの矛先でもあった。

 今にも息絶えそうな老人のベッドの横に座っているのは、彼の娘ただひとりだった。娘は自分に酷く接してきた父に対して、深い哀れみを抱いていた。ずっと憎んできたが、今こうして衰弱している父を見ると、そんな気持ちは消え去り、感謝すら覚えるのだった。

 老人の息子は、十七歳の時に家を出てから、今日にいたるまで老人の元に戻ってくることはなかった。あの日、老人にとってはいつもと変わらぬ喧嘩だった。娘に対しては、あんなやつほっとけと澄ましてきたが、心の奥底では、老人はいつも息子のことを考え、涙さえこぼしそうになることもあった。

 娘は今、父にこう話しかけた。

「お父さん、ありがとね」

 老人は表情一つ動かさない。彼女は続けて言う。

「恭平、会えなかったね」

 恭平とは、老人の息子の名前だった。老人はその名を聞き、目をゆっくり開いた。そして、かすれた声で呟くように言った。

「いや、わしは最後に恭平に会う。夢の中で」

「どういうことです」

 彼女がその言葉を言い終わるのと同時に、病室にスーツを着た男たちが入ってきた。彼女は椅子から思わず落ち、腰を抜かした。

「あなたたちは誰です」

「我々は走馬灯提供会社の者です。依頼主の寿命が残り五分となったので、ご依頼通り伺いました」

 彼女は茫然とすることしかできなかった。そんな彼女に目も向けず、ひとりの男が老人に近づくと、ためらうことなく注射を打った。彼女はその注射の中身を悟った。注射を男から奪い取ろうとする。

「人殺し。やめなさい」

「離してください」

 その時、彼女と男の目が合った。そして、気づいた。彼は恭平だった。歳をとり、姿格好は変わっても、彼だとはっきり分かった。

 恭平も彼女に気づいたらしく、目を丸くした。そして、今注射を打った相手を確認した。それは、年老いた父だった。

 老人の目がうつろになり、やがてゆっくりと閉じられた。

 老人の目から、一筋の涙がこぼれた。

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