Reminiscence 7

気がつけば、時計の針は昼を過ぎていた。

青年はその針を見て、自らの家族がどうなっているのかをやっと想像することが出来た。何分夜中に衝動的に窓から飛び出したから、今頃は相当驚いているはずだ。青年は此処に残ろうか、家族のところへ帰ろうかと迷っていた。家族が心配だったが、それ以上に奥方の妹が心配でたまらなかったし、ずうっとここにいたいとさえ思っていた。

「そろそろ帰ったほうがよろしいのではないかしら。お洋服も乾いたのではなくて?」と先に切り出したのは奥方の妹だ。椅子に腰かけながら、彼女は寂し気に微笑む。「きっと、あの人たち心配しているでしょう?あなたのご家族って、全員あなたのことが大好きだもの。きっと涙で屋敷が沈んじゃうわ!だから、そろそろ帰ってあげて」その言葉を聞いた青年は、頭の中で何回も考え、何十回も迷い、何百回ほど思考して、そして、奥方の妹の言葉に甘えることにした。流石に何も連絡しないで家を出てしまったのは反省しなくてはならない。


「では、一旦帰ることにします」


青年は名残惜しそうに告げ、青年は椅子から立ち上がった。奥方の妹も椅子から立ち上がる。しかし「病人なんだからベッドで休んでてくださいっ!わたしがお見送りいたしますから、ああ、お客様。お洋服持ってきますね。少しばかりお待ちください」という使用人は奥方の妹を軽く叱咤をすると、先に玄関へと向かう。奥方の妹は病人扱いされたことに腹が立ったのか、むくれたように顔を膨らませる。青年は思わずふ、と微笑んでしまった。奥方の妹は青年の表情を見て、彼女も釣られたように笑う。「これぐらいは大丈夫よ」といって、結局そのまま二人で玄関へと向かうことになった。玄関の木製の扉は、深夜と違って今は少し明るい色に見えた。

扉を静かに開ける。扉の外には、緑豊かで美しい森が映っていた。使用人が、自分の着ていた服を丁寧に回収しているのが見える。二人の視線に気がつくと、使用人はこちらへと駆け寄り「どうぞ。すっかり乾いていますよ!」と微笑んだ。「ありがとうございます」と礼を告げた青年は、そのまま服を受け取った。ふと、森の奥を眺めていると、強い寂しさを覚えた。次はいつ会えるだろうか。そう考えると、玄関先のドアマットから出られず、青年の足は竦んだ。青年が動きを止めた数秒後に、とん、背中を軽く押された。押された衝撃で、ドアマットからはみ出した片足が草木を踏みしめる。背後を振り向けば、奥方の妹が悪戯めいた笑みを浮かべていた。青年はその悪戯のお返しをするかのように、片手で服を抱えたまま、余っている方の手で奥方の妹の腕を自分の方に引き寄せた。そして、彼女の前髪を手でかきあげると、そのまま彼女の額に唇を軽く当てた。使用人の小さな声が耳に届く。唇を離して、彼女の表情を確認すると、奥方の妹は目を軽く開いたまま、熟れた林檎のように顔を赤くして、硬直していた。プシュー、と音が聞こえそうなぐらいに、奥方の妹はショートしているようだった。


「仲がよろしいのですね。素晴らしい事ですわ」


一連の流れを見ていた使用人がくすりと微笑みながら、青年の方に顔を向ける。幼子を見つめるような瞳に、青年は気恥ずかしくなって目を逸らした。

「あら、ふふ。すみません。お渡ししたいものがあるんです。こちらをどうぞ」

そう言って、使用人は一枚の紙を取り出した。青年は受け取り確認すると、そこには電話番号らしい数字の列と、この家の住所が書かれていた。微笑んだままで使用人は続ける。


「この家の電話番号と、住所です。もしもご入用がありましたら、こちらの番号を交換手にお伝えくださいませ」


その紙に書かれている内容をしっかりと記憶すると、紙を小さく折り畳み、何処にも飛ばないように荷物の中へと放り込む。荷物に入れた事をしっかりと確認した後、青年もそれに答えるように、青年の個人用の電話番号を使用人に伝えた。使用人は深く頷き、電話番号をメモしていた。「突然訪問してすみませんでした。次はしっかりと服装を整えて伺います。とても、良い時間でした。では、これで」別れの挨拶を告げ、ゆっくりと二人から背を向ける。来た道に足を進めようと足を踏み出した直後、背後から「まって!」と焦ったような声が聞こえた。振り向くと、顔を赤らめたままの奥方の妹が、あわあわとした表情でこちらを見ている。

「おねがい、きょう起きたことは誰にもいわないで、また、また是非ともあいにきてね!わたしとあなただけの約束よっ」

そんな我儘に、青年は困ったように微笑んだ。「判りました。誰にも言いません。またここにきます」その言葉を区切りに、今度こそ青年は二人に背を向けた。帰り道の森から小鳥のさえずりが歌のように聞こえてくる。青年は、その歌に合わせる様に小さな声で歌を口ずさみながら、帰路に辿り着いた。



洋館に辿り着く頃には夕焼けが世界を照らしていた。

家の玄関ではなく裏口から入ると、長男が裏口に立っていた。青年は思わず家に入ろうとする動きが止まる。「おかえりなさい」と自分と全く同じ声で告げる長男はにこやかに微笑み、腕を組んでいる。しかし、その一見穏やかな表情からは怒りがありありと現れている。青年は知っている。こういう時の長男は心から激怒していることを。そして普段怒らない長男が怒ると、かなり恐ろしいことを。一緒に生まれてきて、家族の中では長く一番共に時間を過ごした。だから長男についてはそれなりに理解をしているつもりだった。そこまで思考が回ったところで、青年はさあ、と顔が青くなった。

言い訳できる様子ではないことは明白だったために、言葉も一切見つからないし、深夜勝手に洋館から出て、この時間までどことも知らぬ場所に行って帰ってきたことは疑いようのない事実である。

どうみても家族に一切伝えずに家を出て行った青年に非があるのだから、おとなしく素直に謝るしかないだろうし、むしろそれ以外の発想が青年の頭には浮かんでこなかった。青年は「すみませんでした」と、心の底から謝罪の言葉を告げる。長男はため息をつくと、青年を抱きしめた。青年は突然の行動に驚き、体の動きを奪われたような感覚に陥った。自分が話しかけているのかと錯覚するほどに、似ている声が囁く。

「頼むから次からはちゃんと外に出るぐらいは言ってよ。心配したんだよ。君は昔から、ふらっと消えてしまいそうなんだから」

感情を抑えたような、震えた声で言い終えると、長男は青年から離れた。

「……はい、次からは出来る限りはそうします」目を逸らしたままで告げると、長男は軽く笑った。

「とにかく、今は休んでね。夕食には呼ぶから」と言って、長男は時計を確認した後に階段へと向かおうとしたが、青年は彼を引き留めた。

彼はくるりと青年に顔を向ける。その瞳には光が灯っていた。

「どうしたの?」という声と共に、長男は青年の言葉を待つ。

青年は、なにげなく青年に訊ねた。


「妹たちは何処ですか?」


青年はいつもは賑やかな洋館が人の気配が一切ないことに気がついていた。

二階の廊下から音が一切しないというのはかなり珍しかった。普段は毎日のように長女や末娘が廊下を歩いていて、その歩く音がロビーにまで響いてくるからだ。その音がしないということは、少なくとも妹たちはこの洋館の中には居ないのだろうと推察できた。


「妹たちはお母様と一緒に、昼頃にはクリステア家へと行ったよ。きっと、お母様の妹の病気をより詳しく知るためだろうね。夕食の時間には帰ってくるそうだよ……。お父様は部屋に籠りっきりだ。ただ、ちらりと見たのだけど……医療関係の研究機関のリストアップされている書類を見えたから…お母様の妹関係で動いているのだと思う。お母様の妹の病気が治ったらいいけれど……。ああ、ごめんね。仕事がたくさん残っていて。僕は先に戻るよ」


手伝いましょうか。と青年は声をかけたが、長男は青年の申し出を心から申し訳なさそうに断った。

「今はゆっくりと休んで」

彼は青年に微笑んだ後に、彼はくるりと青年に背を向ける。一度だけ青年に顔を振り返った後、階段をとんとんと靴音を立てて上っていった。

青年は、いっきに暗い現実に引き戻されたような気がして、大きく大きくため息をついた後に、三階へと足を運んだ。

三階にある大きな部屋に入り、荷物を籠の中にいれると、ベッドに腰かけそのまま後ろに倒れた。布団の柔らかさを感じながら、青年は昨夜から昼までの出来事を、何処か夢を見ているような心地で思い返す。あの出来事をずっと忘れないように。夢ではない、れっきとした現実だと認識するために、何度も何度も振り返る。はじめは穏やかな気持ちだったが、振り返っていくうちに、徐々に感情が沈んでいくのにそう時間は掛からなかった。愛しい彼女の姿を思い返す度に、「病気」という言葉が生々しく鮮明に青年の脳に響いて鳴りやまない。

彼女が激しい痛みの中で苦しみながら死んでしまうことを、青年は知ってしまっていた。しかも、本人の口からだ。彼女が痛みに苛まれ、苦悶に涙を流し、地獄を味わいながら死ぬなんて、青年は考えたくもなかった。けれども近い将来そうなるのだという事実を突きつけられるたびに、己の無力感に苛まれる。どうして自分は何もできないのだろうと、自分を縊り殺したい気持ちが支配していく。現代ではどうしようもない不治の病。その道のプロである医者さえ匙を投げるのだから、無学な自分に出来ることなんてあるわけがないのだ。彼女の傍に居ることしか出来ないのだろうかと、青年は他に出来ることを探そうと必死に思考を回す。

底なし沼にずぶずぶと落ちていくように、青年の意識は消えていった。

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