為すべきこと

はっと、青年は顔を上げる。気がつけば意識を失っていたらしい。

地下書庫は相も変わらず埃臭くてたまったものではない。

しかし、今は青年の意識はそれどころではなかった。青年にとって、この場に居るべき人物がいないのだ。こんなところで閉じこもっている場合ではない。

青年は急いで立ち上がると、1階へと続く階段の方へと駆け出した。靴音を立てて1階のロビーへと出ると、青年は息を呑む。


ロビーには、血の海に沈む執事が倒れていた。


急いで執事に駆け寄り、脈を確認するが、命の音は感じられなかった。執事の首は切り裂かれており、そこから血が大量に噴き出している。執事の肌を確認すると、まだ完全には冷え切っていないことから、そこまで時間は経っていないことはわかる。階段の方へと見ると、見覚えのある後ろ姿が末娘の部屋に入っていくのが見えた。執事の死に顔は、何かを託したように穏やかだ。彼の姉であるメイドの安否も確認したいが、おそらく現時点ではそんな余裕はない。まずは少女の救助が先だ。青年は敢えて大きく足音を立てながら、階段を2段飛ばしで駆け上がる。この音は部屋にいる二人にも届いているだろう。彼は必ず気がつくはずだし、気になってしまったら一度は確認しないと気が済まない生真面目な気質を持っていた。

だから、この音には必ず釣られてくる。

青年の考え通りにことは進む。

末娘の部屋を通り過ぎようとする時に、彼女の過ごしていた部屋から、誰かが出てきた。

「ああ!」

現れたのは、とても嬉しそうに笑う血まみれの双子の兄弟の姿だった。血の匂いに、青年は顔をしかめそうになるが、どうにか堪えた。彼は無邪気な子供のような笑顔を輝かせながら、青年に近づいた。

「あの子から先に殺そうと思ったけれど、君から傍にいてくれるなら、いいかな」

彼の声は明るかった。まるで自分と青年以外の存在は小石以下とでも言っているようだ。

煮えたぎるほどの憤怒が青年の身体を満たしていく。あまりの怒りに全身が沸騰して、そのまま破裂してしまいそうなほどだ。

一瞬でも、たとえフリだとしても少女を殺そうという発想が浮かんだ時点で、許せない。

この場で、長男の顔を殴り飛ばしたい衝動に駆られるが、必死に腕に力を入れて抑える。こんなところで喧嘩をしている暇はない。近くに少女がいるのだ。今は少しでも長男を少女から引き剥がす。洋館自体の構造はシンプルに作られているが、とにかく広い。もっとも少女から遠い場所で、彼を迎え撃つ。洋館のことは青年も良く判っている。合鍵の秘密の隠し場所を知っているぐらいには。幼い時はこの洋館を長男と一緒に駆け回ったのだ。負けてはいない。

青年は長男にくるりと背を向け、廊下から一直線に走る。背後からねえ!という声が、青年に飛んでくる。

声は遠くなっていないから、ちゃんと追いかけてきているはずだ。

どちらかの体力が尽きるかまでの勝負。


走れ、走れ、走れ、走れ!

あの時みたいに!


まずは1階のロビーに繋がる右側の階段を、すべるように降りた。ロビーに跳ねるように着地すると、長男が追いかけてくるのが視界に映る。執事の遺体が横たわっていた場所には、男性の遺体ではなく白骨化した遺体が転がっていた。青年は目を見開いて驚愕し、思わず足を止めてしまった。止めるべきではないというのに。

こんなに早く腐敗することなんてありえない。

まるで末娘が亡くなった時のようだった。末娘もどんどんと腐り落ちて、最期は白骨した頭蓋さえも塵に消えた。白骨化した遺体には、姉弟でお揃いの古ぼけた琥珀のブローチだけが残されていた。どうしようもない後悔に全身を打ち砕れながら、青年はそのブローチを手に取った。背後から足音が聞こえ、追いかけてきているだろう長男を確認する。長男はとても楽しそうにこちらへと歩み寄ってきているが、何故か走る様子は見つからない。青年は、メイドが無事か確認しようと浴場を見に行こうとした。浴場は廊下の突き当りにあり、今から行くのははっきりいってかなり危険だ。逃げ場が一つしかない状況で、必ず長男と鉢合わせすることになる。

けれど。

今、このタイミングしか行ける機会がないようなきがした。洋館をこうして駆け回るのも、家族の姿を確認するのも、もうこの先は出来ないだろうという、漠然とした予感を感じていた。長男に殺されるからではない、もっと別の理由で、青年は自らの死を感じていた。

しばらく思考し、そして青年はメイドを遺体を確認するために、浴場へと駆けた。


背後から変わらず気配が迫ってくる。


脱衣室に入った時点で、血の匂いがこちらまでも漂ってきた。青年は思わず呻く。脱衣室の扉を開くのがあまりにも恐ろしい。

けれどこんなところで狼狽する時間はない。今にも長男が現れるかもしれない状態なのだ。

青年はガラっと勢いよく扉を開ける。その先の光景に、青年は絶句するほかなかった。


血の池地獄というのは、まさにこのことを言うのだろうか?

夥しい量の血液が、湯船で満たされている。

広い浴槽には一人の女性が仰向けになって浮かんでいた。

トレードマークだったメイド服も、鼠色の髪も、青白い肌も、全てが赤に侵されている。

メイドは死んでいた。どうしようもなく。誰が見ても間違いなく。ここで命を落としていた。


心より先に体が動き、青年はメイドを血の池から引き上げた。自分の腕の中で息絶えるメイドは執事と同じように頸動脈を切られており、そこから血が溢れ出ている。オレンジ色の虚ろな瞳が青年を覗いていた。青年は優しくメイドの瞳を閉ざし、その場で静かに黙祷をささげる。彼女の弟である執事と共に二度とこんな苦しみを味わうことが無い様に祈った。

再び目を開けた時、メイドが何か持っていることに気がついた。それは執事と同じ琥珀のブローチだ。

青年がブローチを手に取ると、メイドの手がそのまま滑り落ちる。それはまるで、青年にブローチを託しているようにも思えた。

最後の最後まで、この姉弟はお互いを想いやっていたことが痛いほどに伝わって、青年は唇を噛みしめた。


「お姉さん、勘が鋭くてね。僕がこうすることを直感で判ってたみたい」


すぐ後ろから、声が聞こえる。


「優しいね。自分が死ぬかもしれないっていうのに、まだ誰かのことを想えるなんて」


青年は、メイドを床におろして、背後に振り向いた。

長男は、変わらず笑みを浮かべている。その微笑みを見て、青年の中にさまざまな感情が溢れ出てくる。家族や少女を傷つけた怒りに、彼が罪を犯した悲しみに、何故、こんなことをしたというのかという戸惑い。それらの3つな感情が体中を駆け巡って膨張し続けている。何故ここまでのことをして、笑っていることが出来るのだろう。

彼は心から洋館にいる人たちを愛していた。

家族は勿論、ずっと世話をしてくれたメイドと執事にも、一人の良き友人として接していた。

その彼が、どうして。


鋭い声と共に、長男を殴るように言葉を吐きだす。


「自分が何をしたのか判っているのですか?」


自分の中で湧き出る感情を抑えるのに必死で、表情を取り繕う暇などない。

長男は首を横に振った。全てを諦めたような微笑みで、青年に優しく語りかける。


「本当は、こんなことするべきじゃないってわかってたんだよ。けど、だって、他にどうしたらいいのかわからなかったんだ。ねえ、君はずっと僕たちが生きているなんて、思っていなかったでしょう?この100年の間、君もきっとたくさんの事を経験してきたと思う。僕たちのことを置き去りにしたまま。僕たちがどんな目に遭っているかも知らないまま。僕が、どんな気持ちでここに立ってると思ってるの?けど、もういいんだ。怒ってもいないし、憎んでもいない。君が戻ってきてくれた。ずっと、このまま戻ってこないって思ってたから」


青年は、その場で沈黙した。長男の言葉に何も言うことが出来ない。

なんとなく。本当になんとなく程度だが、彼だとは思っていた。

この洋館にいる間、長男は昏いものを漂わせていた。

家族の誰にも分らなかったとしても。青年だけは彼に何かしらの違和感を抱いていた。朗らかな表情の奥には、絶望と悲哀が隠されているように思えてならなかった。けれど、魔術の実情を知った今、その絶望に納得してしまう。これから家族が死ぬということを知りながら、自分は何も出来ない。それで絶望しない者はそこまで多くはないだろう。


自分と同じ顔をした男が立っている。

写し鏡のようにそっくりな彼を、青年は煮え切らない表情で眺めている。

長男とは何もかもが同じだった。顔立ちも、声も、背丈も、全てが同一。

一卵性双生児だからと言えばそれまでだが、けれど言葉を知らなかったほどの小さな頃は、二人で一人のようにずっと思い込んでいた。まるで自分自身がもう一人隣で笑いかけているようだったし、長男といる時間は心地が良かった。幼い頃はどちらが青年でどちらか彼など、家族ですら誰も見分けつかなかったし、服装や部屋を入れ替えて遊んだりもしていた。形見のアクセサリーを入れ替えて父親に怒られたこともある。

けれど、今はこんなにも違う。

あれだけそっくりだった青年も長男も、様々な経験や知識を身に着けていく中で二人で一つの存在ではなく、個人の存在へと変化していった。二人は決して一つの存在なんかではなく。はじめから別の存在で、お互いが自分自身だと勘違いしていただけと気がついたのは、一体いつのことだっただろう?きっかけはなんだっただろう?何もなく、突然に気がついたのかもしれない。ただ、青年はもう思い出すことが出来なかった。あまりに昔の事過ぎて。何もかもが懐かしく思えた。

全く別の存在だとわかったとしても、長男の違和感を気づくことが出来たのは、双子故のテレパシーみたいなものだろうか?

長男は、まるで100年間の溜まってきた感情を破裂させるように、青年に語りかけている。

一歩一歩距離を縮めながら。確実に青年を仕留めるために。青年は、ちらりと長男の背後に立つこの浴場唯一の扉を見た。この部屋にはあそこのしか出入り口がない。どうにか長男に隙を与えれば、この場から脱出することは出来る。片割れの様子を伺いながらも、青年はどうすればいいのかと思考を巡らせていた。


長男はドス黒い瞳を青年に向けたまま、笑みに裂かれた口を開く。


「知らない女の子と来たのは予想外だった。ねえ。あの子は一体誰だったの?お母様の妹とそっくりで、驚いたよ。きっと、彼女はとっくに老衰でなくなっているだろうけど……あの子は、君にとっての何なの?」


彼女が、自分にとってどんな存在なのか。

青年は、彼女の姿を思い浮かべた。薄いブラウンの髪に、桜色の瞳を持つ少女。身体が弱くて、甘えん坊で、少しばかり幼くて、本を読むのが好きで、寂しがりで、そして、重い病気に負けることなく打ち克てることの出来る強い心を持つ少女。

彼女の姿を目に映すだけで、この世界はこんなにも色づいて見える。


だから答えは、既に決まっている。

青年は、長男の瞳をじっと見つめたまま。淀みなく、まっすぐに答えた。


「あの子は、俺にとって何よりも大切で、愛おしい存在です。大切な人を傷つけるというのあれは、俺も容赦しませんよ。たとえ一緒に生まれてきた半身だとしても、俺は貴方を許すことは出来ません」


例え。

共に生まれ、育ち、誰よりも近かった家族だったとしても。少女の笑顔を奪うのだけは許さない。


「あはは」



瞬間、彼の瞳から光が全く失われた。

彼の変化に背筋から何かが這い上がっていく感覚に襲われる。

彼の笑い声が、青年の耳に届く。叫ぶように笑いだしているわけでもないし、涙を流しているわけでもない。ただ、普段のように小さく微笑んでいるだけだ。しかし彼の挙動のひとつひとつに、巨大な憎悪と殺意が滲み出てきているのが青年でもわかる。この洋館内を覆いつくしてしまいそうなほどの重苦しさに、青年の身体はキリキリと緊張していく。



青年は、長男の行動に意識を集中させる。

何をしてくるのかを見極めるために。


「僕はもう、そこには戻れないんだね」


青年はこぶしを握り締める。

心臓の音がこちらまで聞こえて、うるさくて仕方がない。緊張と恐怖で身体が締め付けられるようにこばわり、全身から汗が流れ出す。青年は、長男を深く深く観察した。一瞬でも見逃してはならないと、食い入るように見つめる。彼の表情、手足の動き、髪飾りとしてつけている一族の象徴、彼を構成する全てを注視し、変化が起きるのを待った。


そして、いよいよその時が訪れる。


長男がナイフを握り締めた瞬間に、同時に彼の横をすり抜けるように足を踏み出した。

そして、拳に力を込めると、長男の顔を思いっきり殴り飛ばした。

頬を殴られた長男は、ぶたれた場所を抑えて痛みに呻いている。怯んでいる隙に、青年はその勢いのまま全力で駆け出す。長男が「まって!」という声を一切無視し、浴場の扉を乱暴に閉めた後、脱衣場も通り抜けるように抜け出す。息をつく間もなく廊下を走りロビーへと再び戻ると、青年は階段へと走りだした。背後からも走る音が遠くから聞こえた。長男が追いかけてくる音だ。

全力で距離を離す。出来る限り遠く遠く。


二階の階段を上り、末娘の部屋まで行くと、青年は入らずに扉の奥にいるだろう少女に呼びかけた。

「聞こえますか。俺です」

すると、すぐに「おじさん?」という声が、扉の向こうから青年の耳に届いた。

ああ、よかった。生きている。彼女がまだ、ここで息をしている!それだけで青年は心強く感じられた。

彼女の小さな足音がこちらに近づくのが分かる。

扉を開けて彼女を抱きしめたい感情を抑え、青年は出来る限り冷静に振舞って少女に告げた。

「扉を開けないでください。鍵を閉めて、この部屋に隠れていてください」

「俺が迎えに来るまでここにいてください。俺の声が聞こえても、絶対に開けないで。いいですね?」

一瞬の沈黙が、扉で分かたれている二人を支配する。先に沈黙を取り払ったのは少女だ。

「けど、おじさんはどうするの?一緒に隠れた方がいいんじゃ……」

少女の声は困惑した様子だった。青年は、その提案には頷かずに話を続ける。

「気持ちは有難いですが、いずれは隠れているのがバレるでしょう。彼をどうにかしないことには安全とは言えません。なので、俺が彼と話をつけにいきます。俺が行った方がいいでしょうから。大丈夫。貴女のことは絶対に守ります。だから、信じてください」

青年は、木製の扉に手を触れた。

扉の向こうで震えているだろう少女の頭を撫でるように。


「うん。わかった。おじさん、絶対かえってきてね。ここでまってるから」

少女の声をしっかりと受け止めた青年は、しばらくその場から動けなかったが、扉から手を離す。

ふと、遠くから足音が聞こえた。

足音の正体を確認すると、1階のロビーで、長男走ってきているのが見えた。左手にあるナイフを強く握りしめたまま。

青年は、少女の言葉と共にそのまま3階へ続く階段へと向かう。長男を、大切な家族を迎えるために。

もうすぐ全てが終わる。

規則正しく時を刻む針のように、かつん、かつんという靴音が洋館に響く。


青年は、自分のするべきことを理解し始めていた。

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