愛しき半身

ここに戻ってくるのは久しぶりだった。

3階は長い廊下と一つの広い部屋しかない簡単な構造となっている。元々は此処にある部屋で、歴代当主が様々な業務をこなしてきた。現当主であった父親は家族の傍に居たいという気持ちから、なかなか声が届かない3階よりも、家族が主に過ごす場所となる二階に用意されていた私室を仕事場代わりにしていると彼から聞いたことがある。父親が全く使わないことを良い事に、静寂を好んでいた青年は幼少期からこの部屋で生活し、暇さえあれば楽譜を読み込んで歌っていた。ここなら、いくら歌っても家族に聞こえることはなかったから。廊下が長く広い作りになっているから、長男とここで駆けっこしたのは良い思い出だ。


(懐かしい)


狭くなった廊下に立ちつくす。

この洋館は変わらない。100年間経っても、青年の思い出の中の洋館と全くそのままで、未だに悪夢を見ているのかと思うほどだ。家族が次々と命を落としていく夢なんて、たとえ夢だろうが見たくはなかったけれど。ああ、と青年はそこまで考えて息を吐いた。

実際に、この洋館は夢幻なのかもしれない。

今は確かにここで息づいているとしても、所詮は魔術によって生かされている偽りの空間でしかない。

魔術によって洋館の全てが成り立っているのなら、魔術が完成すれば、何もかもが幻へと変わることだろう。

洋館も、家族も、魔術によって不老不死を得た青年も含めて。例外なく。あるべき姿へと戻りゆくのかもしれない。

魔術を完成すれば、この惨劇は終わる。

やるべきことは簡単だった。けれど、青年はその選択を取るか迷い続けていた。

だって、それは少女をまた再び一人にしてしまうことでもあったから。

自分がいなくなったら、少女はどうなってしまうのだろう?どうしても、そう考えてしまう。

彼女は一人でも生きていけるだろうか?彼女はまた家族を失うことになる。そうすれば、今度こそ彼女は立ち直れなくなってしまうかもしれない。それがあまりに怖くて、恐ろしくて、青年は長男の刃から逃げ続け、ここまで来てしまった。

それは、自分の迷いの証明でもあったし、同時に長男に罪を重ねてほしくないという想いもあった。

迷う気持ちを抱えたまま、長い廊下を半ば渡った頃のことだった。


青年の背後から足音が聞こえた。


「ここにきてしまったんだね」


振り返る。

そこには、ナイフを持ったままの長男がいた。

彼の表情は変わらない。無邪気なほほえみを浮かべたまま。

心の底から嬉しそうに、幸せそうに。自分に心から微笑みかけている。

青年は、彼を見て泣き出しそうになった。

こんな状態にさせてしまった原因を作ってしまったのは、そもそもに自分だというのに。

どうしてこんなに嬉しそうな表情をするのだろう?

今更、本当に今更__100年前に抱いた疑問と、あの日の長男の視線を思い出していた。


彼の鮮やかに色づいた柘榴の瞳は、今でも変わっていない。

変わらないまま、自分をじっと見つめている。


あの時、青年は強い罪悪感を覚えた。

縋るような、祈るような、焦がれるような、求めているような視線。

何故罪悪感を覚えたのか、当時は判らなかった。

その理由を最初からわかろうとしなかったのか、あるいは理解をするのを拒んでいたのか。もはやどれが正しいのかわからない。その感情を抱くことを考えにも浮かばなかったのかもしれない。青年はようやっと、彼が抱く感情の一端に触れることが出来たような気がした。100年の時間も、無駄ではなかったのだろう。

それに気がつくのは、あまりにも遅すぎたけれど。


「僕は、ずっと幼いままで居たかった」


柘榴の瞳が、揺れる。


「あの頃は、君も僕も一つだった。君が僕の振りをしても、僕が君の真似をしても、誰もがそれで納得していたでしょう?まるで一つの存在のようで、僕は嬉しかったんだよ。少しでも君の一部になれたような気がして。あはは、気持ちが悪いでしょう。けど、本当に幸せだった。すぐにその幸せも全部消えてしまったけれど。僕が次期当主として注目されてから、君が楽譜を初めて読んだ時から、お互いに別人として進むようになってしまった……。君が眼鏡をかけ始めた時、僕はとても寂しかったんだ。君がどんどん、遠くに行ってしまうような気がして」


彼は、縋るような手を伸ばした。


「本当に、君は遠い存在になってしまった。100年間、君を想わない日はなかった。ずっと君が帰ってくるのを待っていた。やっと、やっと帰ってきてくれた……。君の存在が、今回の僕をここまで生かしてくれた……」


彼は、笑っていた。

涙をぽろぽろと流しながら、心から愛おしそうに。


「僕たちはずっと、ここにいた。ここにいたんだ……」


青年は、一歩も動かなかった。

逃げるなんてことは、考えられなかった。

いっそここで殺されてもいいと、思っていた。


「ありがとう。君が生まれた時から。僕は__僕たちは、この日まで、心の底からずうっと君を愛していたよ」


青年の頬に、彼の手が触れようとした。

その、直前のことだった。


長男の身体から、いっきに大量の血液が噴き出した。


首から、目から、鼻から、全身の皮膚から、あらゆるところに刺し傷が出来たように、血が踊るように溢れ出る。

倒れていく長男を、青年は床に転がり落ちないように受け止めた。ナイフが床に落ちる音がからんと響く。

受け止めたまではいいものの、青年はどうすれば彼が助かるのか全く浮かばなかった。刺し傷を手当てすることも、その余裕も、時間もない。こうしている間も、長男の身体からは熱が奪われているのだ。彼を抱きかかえている青年の両腕が、彼から溢れ出る血液で染まっていく。

止まることもなく。流れるままに。

青年は否応なしに理解してしまう。

自分の片割れがこの魔術によって命を奪われようとしていることを。

そして、自分にはこの死を止められる手段などなく、長男が死ぬしか道が残されていないということも。

認めたく、なかった。

青年は長男の名前を強く呼ぶ。出来る限り彼の命を長らえさせるために。

この世界に引き止めるために必死に彼の魂を掴もうと、冷たくなっていく彼の身体を声と共に抱いた。


「……ああ」

長男の声が、青年の耳元で零れていく。

血の涙を流す彼の表情は、これまでの孕んだ狂気は一切感じられなかった。

虚ろに消えゆく瞳には、ただ穏やかな安寧が広がっている。

青年は首を子供のように横に振り、何回も名前を呼んだ。100年という時間で朧に消えかけていた兄弟の絆を取り返すように。彼の名前を呼び続けた。呼び続けても、どうしても彼の命だけは引き留めることは出来ないことを知りながら。

青年の顔を見つめて笑う彼の姿は、今までの記憶の中で、一番優しかった。

「手を、出して」

青年は、彼の言葉に素直に従った。

片手に長男の頭を乗せて抱きかかえるように体勢を整えた後、改めて手を、長男の前に差し出した。

長男は、今にも力の抜けそうな腕を動かし、己の胸ポケットに血まみれの指を入れる。震えた手で取りだしたのは、一つの小さな鍵だ。玄関の鍵とぴったりと合うサイズで、青年は僅かに目を開く。けれど今はどうでもよかった。ただただ唇を一文字に結び、血に落ちゆく彼を見つめた。

長男はそれを青年の手のひらの上に置き、青年の手を力なく手を乗せた。

応えるように、指を絡める。

結んだままで、青年は口を開いた。


きっとこれで最期だ。

だから、言わなければ。


「貴方はいつまでも、俺にとっては唯一の半身です。一緒に生まれてきたのが貴方でよかったと、心からそう思います。今までよく頑張りましたね。疲れたでしょう。もう、休んでもいいのです。後は俺に任せてください。さようなら、愛しい人」



長男は、ふ、と笑った。その笑みには、充足感に満ち溢れている。

涙をこらえている青年を見た彼は、血だらけの唇を動かした。

だだをごねる弟に世話を焼く兄のように、彼は弱々しく、けれども優しく穏やかに、青年に告げる。


「出て行って……あの子と一緒に、どうか、生きて……」


その言葉を最期に、彼は全く動かなくなった。

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