願い
青年は、長男の亡骸を丁寧に床へと下ろす。
柔らかな笑みで眠る片割れは、その場ですぐに骸骨へと姿を変えていき、足先から塵へと変わっていく。
青年はもはやそれに驚くことはなかった。それ以上の悲しみに沈んでいて、目の前で起きる異常も気に留めない。骨だけになった長男の手を、彼の全てが消えるまで握り締めていた。
青年は先に逝ってしまった家族に手を引かれていく幼い頃の彼の姿を幻視した。
瞳の中で微笑む長男は宝物を手にしたような愛らしい笑顔で、嬉しそうに他の家族に話していた。それらを、妹たちが笑顔で聞いていて、母親も父親も子供たちの頭を優しく撫でながら耳を傾けていて、使用人とメイドは遠くから微笑ましく眺めている。けれど、その光景のどこにも自分の姿は映っていない。再び瞬きした時には、そんな優しい情景は広がる大量の血で塗りつぶされていた。
長男の姿も、もう何処にもいない。
血で染まり切った己の両手を見る。それはまるで、青年の抱えてきた100年の罪を象徴しているかのよう。
家族を、地獄にこの手で突き落としてきた。
けれど、地獄に突き落とした以上に唾棄すべき事は、自らが作ってきた地獄を見捨てたことだ。
青年は洋館の中で何が起きているのかを知るのが怖くて、末娘に追い出された日以降は一度も戻ることはなかった。
洋館に戻ることはいつだって出来た。けど、あえてそれをしなかった。もっと別の場所に解決法があるかもしれないとか、仕事で忙しいとか、くだらない理由で洋館に帰るのを避け続けてきた。何よりも許されないのは洋館に帰らない言い訳を作るために、少女との日々を望んだ自分自身だ。何よりも大切な存在を利用してしまった自分が許せなくて憎らしくてたまらなかった。
少女が形見のアクセサリーについてもっと知りたいといった時、青年は内心でほっとしていた。
ようやく、自分の罪と向き合うことが出来ると。
青年は、静かに片手を床に置いた。洋館そのものに宿る家族の記憶を知るために。
不老不死になってから芽生えたこの力も、一体何のために青年に与えられたのだろうと思っていた。
物の記憶に読み取る力など、普段日常を過ごしていくうちには何のメリットもないし、疲れるだけで何もないものだと思っていた。いや、何もないわけではない。この能力があってよかったことと言えば、少女と過ごした記憶を物を通して見れることぐらいだ。皿の記憶には、少女がお気に入りのシュトゥルーデルを乗せてテーブルに持っていく記憶を見た時は、思わず笑みをこぼしてしまったのは記憶に新しい。テーブルに置き忘れていた彼女のお気に入りの小説を間違えて素手で触った時には、少女が本の中の登場人物に感情移入して盛り上がっている記憶を覗いたこともある。彼女は、将来物書きになりたいと言っていたなと、今更になって少女の日々を思い返していた。
あまりにも幸福に満ち溢れた暮らしを、青年は遠いまなざしで追想する。
忘れがたき大切な思い出。青年にとっての拠り所。
彼女と過ごした日々が、遠い思い出に変わることはもうないのだろう。
青年は、この力を得た理由をようやく理解出来た気がした。
人間は二度死ぬとはよく聞く話だ。
一度は肉体的な死、二度目は誰からも忘れ去られた時だ。
『自分たちはここにいた』
それを伝えたくて、家族が魔術を通してこの力を青年に与えたのだろうと。
己の歪んだ生を清算する時が来た。
100年背負ってきた罪を贖うために、血の海の中心で祈るように青年は歌を紡ぎ始める。
この洋館で暮らしていた愛しい人へと送る鎮魂歌を。
愛する彼らの記憶と共に。
贖罪の歌声が、洋館へと響いていく。
■
少女は、末娘の部屋で青年を待ち続けていた。
最後に青年が去ってから、一時間以上は経つ。少女の心は不安と心配でいっぱいだった。
長男の様子から見て、スムーズに事が終わったとは思えない。もしかしたら青年は既に長男の手によって殺されているかもしれない。少女はどうしたらいいのか考え続けていた。廊下に人の気配は全く感じられない。静寂の中で、少女の緊張はとっくに限界を超えていた。青年に対する気持ちが少女の中で募っていく。青年のことは信じている。けれど__。
このまま、自分は何もせず、青年を待つばかりでいいのか?
そう思ったら、少女の手が勝手に動いていた。
少女はクローゼットをゆっくりと開き、誰もいないことを確認した後、ゆっくりと怪我をしないように床に降り、クローゼットの戸を閉じる。クローゼットに背を向け、少女は扉へと向かう。木製の扉にはしっかりと鍵がかかっていて、扉を破壊しない限り誰も入れそうにない。このまま部屋に隠れていれば安全だろう。それは判っている。
少女は、青年に助けられてばかりだった。
それは、洋館の事だけではない。10年前のあの日から、少女は青年に救われ続けていた。過酷な病気と闘えたのも、ありふれた日常を過ごせたのも、感情を取り戻せたのも、両親を失った悲しみを取り払ってくれたのも、何もかもが彼のおかげだった。青年のことを信じていないわけではない。信じているからこそ、確かめに行きたかった。
__ほら、早く行って!行くべきよ!
鈴のような愛らしい声。
少女ははっとなってあたりを見渡した。勿論、彼女の姿などあるわけがない。もう、この世から去ってしまったのだから。これは都合のいい幻聴なのだろうか?それとも魔術に、自分も当てられてしまったのだろうか。
いずれにせよ、少女はその言葉で決心がついた。
扉に取り付けられた鍵を開けて、少女は部屋の外から一歩を踏み出す。
誰よりも大切な彼と共に居るために。
静寂が広がる廊下は、まるで少女しか生きていないかのように寒々しかった。
たくさんの部屋も、今はもう誰も使うことはない。ここで暮らしていた人たちは、全員死へと連れ去られて行った。
正当な対価を支払わなかった彼らを、魔術は許さなかった。その罰に、彼らは永遠にめぐり続けている。
死ぬことも出来ないまま、過去にも未来からも切り離され、永遠に死を繰り返し続ける地獄へと取り残された。
そしてそれを終わらせるには、魔術に完全な代償を捧げなければいけない。
長い廊下を一歩一歩、確かめるように踏みしめる。
少女は知っている。
今は一人しかいないこの廊下も、かつてはたくさんの笑顔で満ち溢れていたことを。
彼らが生きていたことを。
彼らがここにいたことを。
そしてそれを覚えていられるのは、少女と青年しかいないということを。
青年が死ななくても済むような方法を、ずっと考え続けた。
けれど、この屋敷では見つけられそうにない。地下書庫で羊皮紙を探している時に、それ以外の魔術も確認した。けれどそれらしい解呪の魔術は見つからなかった。見つかったのは天気を変える魔術とか、噴火を人為的に引き起こす魔術とか、人を操る魔術とか、そんな突飛で物騒なものばかりだ。
それは、もしかしたら。
この屋敷には無くて、外の世界を探せばあるかもしれないと考え始めていた。
100年の旅をしても、魔術に対する解決策を青年は見つけられなかったと言っていた。
100年は長い。けれど100年ぽっちで世界中を全て歩けているとは思えない。
世界は広いのだ。きっと、少女が思う以上に。
なら、青年が行ったことがないような場所にあるかもしれない。
この屋敷から出ることが出来たら、青年に魔術を探しに一緒に旅に出ようと言ってみよう。
少女は、縋るような瞳で前を向いた。
本当は判っていた。
そんな考えは、甘い夢のようなものだと。
判っていたけれど、どうしても、受け入れることが出来なかった。
静寂が少女を沈めている。
ふと、少女は一つだけ扉が開いていることに気がついた。
たしか、あの扉は青年の部屋だと思い出す。
もしかしたらこの部屋にいるのかもしれないと思って、少女は期待した瞳で部屋をのぞき込んだが、青年の姿は何処にも見つからなかった。少女は肩を落とす。彼は一体どこにいるのだろうか。心は寂しさでひび割れそうになっていて、息が詰まりそうだった。その寂しさを紛らわそうと、少女は改めてその部屋をぼんやりと眺めた。
相変わらず殺風景な部屋だ。最低限暮らせる程度の家具しか揃っていない。この世には最低限のものだけで暮らすライフスタイルが存在しているらしいが、そういう人がこんな感じの部屋を使うのだろうか?棚に、机に、ベッドしかない簡単な部屋は、全く生活感が感じられなかった。少女がこの部屋にすむとしたら、真っ先に新しい装飾棚や写真を購入して部屋の彩に花を添えようとするだろう。
そういえば、青年はこの部屋をあまり使ってないと言っていた。かつてはこの部屋ではなく、上の三階の部屋で過ごしていたという。
隣にいない青年の言葉を脳裏に浮かべながら、きょろ、と視線を動かしていた。
そして少女は、一つのものに目を留める。
床に、一枚の写真が落ちていた。
誰が落としたのだろう?と思考を巡らし、そしてすぐに答えに至った。
きっと少女と青年はこの部屋に一度入ったから、そのタイミングで青年が落としたのだろう。
奥方の妹への手紙を見せた時、青年は明らかに焦っていたから、写真を落としたことに気がついていなかったのかもしれない。
少女は、その写真を指で拾い上げ、まじまじと眺めた。
モノクロに映る写真はとても大切にされていたのだろうとはっきりとわかるほどに、折り目一つなかった。きっと、少女の形見のアクセサリーと同じように、この写真の持ち主である青年も、きっと宝物のように思っていたに違いない。そういえばいつかの夜、トイレに向かう時に、青年がソファに腰かけて、何かを愛おしそうに眺めているのを扉の隙間から見たことがある。その視線の先は、この写真だったのだろう。
写真の裏側には青年の名前と、見覚えのある名前がいくつか書かれていた。
少女は、その名前を見て言葉を失った。まさか、そう思いながらも写真を返す。
時間が、止まったような気がした。
その写真には、溢れる想いが一杯に詰まっていた。
幸せそうに笑う女性の姿に、女性と手を繋いで笑う子供。
そして、二人の傍で優しく微笑む黒髪の男性の姿。
その写真に映る全員が、少女にとっては大切な人で。
いろんな気持ちが、胸いっぱいに満たされていく。
瞳に星のようなきらめきがたくさん浮かんでは弾けて、ぽろぽろと涙に変わっていく。
今にも溢れそうなほどに、胸が苦しい。
会いたい。
青年に会いたい!
お願い、行かないで!ここにいてよ!どこにもいかないで!
少女の耳に、懐かしくて暖かい、優しい歌声が届いた。
その歌声に、少女はばっと部屋から飛び出した。
声に導かれるままに、三階へ向かう階段を伝っていく。まるで、声が糸になって小指に巻き付いているようだった。少女は涙を桜のように散らしながら、階段を駆け上がっていく。慣れない運動をしているからか、体は疲れ切っているし、気を抜いたら倒れそうだ。心臓の鼓動が収まってくれなくて、自分の耳にまで心臓の音が届いていた。鼓動と共に身体をめぐる血液が、沸騰しているように熱く感じる。
けど、心だけはまるで嘘のように満ち溢れていて、少女はその心のままに駆けていた。
階段を全て登り切った時、視界が一気に開けて、少女は立ち止まった。
長い長い廊下の先に、少女が一番会いたかった人が座っている。
どうしたらいいのかわからない位に。
少女の心は、彼を想う愛おしさに溢れていた。
溢れて零れて、その愛おしさに身を委ねてしまいそうなほどに。
もう、どんな理由でも構わないと思えた。
彼がこの場で命を終えないことで、苦しみ続けることは少女も知っている。
少女の願いは、彼らを地獄に送り出すのと同じことだ。
青年と共に帰ることで、この家族がどうなってしまうかを、少女はこの目でさんざん見て来た。
全員が終わりの終わりまで報われないまま、悲劇に幕を閉じる。
そうしてまた、死を繰り返す。
その螺旋を永遠に繰り返してしまう。
それも、良く判っていた。
こんなことを思うのは間違えているのだろう。
卑怯だと、自分勝手だと罵られても構わない。
でも。
それでも!
少女は、願ってしまった。
少女が望むのは一つだけ。
どうか行かないで。とどまって。
それだけの想いで、少女は叫んだ。
「おじさん!」
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