アトーンメントの歌声
青年は、歌う。
絶え間なく溢れてとどまらない、心からの親愛を込めて。
家族のことを想いながら。愛しい人たちの面影を瞳に映して。
杖をついて不器用に笑う父親の姿を思い浮かべる。
厳格でありながらも穏やかな気質を持つ父親の背中を見て育ってきた。
父親は子供たちには厳しい態度で接していたが、それらは全て愛情の裏返しであったことを子供たち全員が分かっていた。勿論も青年も知っていた。仕事がない日は、幼かった自分たちと外で一緒に遊んでくれた。誰が一番に父親に抱っこされるか、駆けっこ勝負で決めている兄弟たちを木陰から眺めていたものだ。輪の中に入れなかった自分を、父親は大きな手で優しく撫でてくれた。本当に、不甲斐ない息子に育ってしまって、心から申し訳なく思う。親孝行がこれぐらいしか出来なかったことを、父親は許してくれるだろうか。
深い想いを歌う。
父親の隣で微笑む、母親の姿を思い浮かべる。
母親はとても柔和な人で、夫である父を心の底から深く愛していたし、そんな母を父も愛していた。自らの手で家事や裁縫を極めようとしたのも、父のためだと頬を染めながら話してくれたことを思い出していた。父と母は幼馴染で、それこそ家族のように育ってきたと聞いている。生まれてから洋館で命を落とす日まで。青年を含めた子供たちも比翼の鳥のように睦まじい両親を、自分たちをしっかりと見て愛してくれた彼らを、親としても一人の人間としても、心から敬愛していた。
階段から落ちゆく母の手を取れなかったことは、今でも心から悔やんでいる。けれど、過去に戻ることは出来ない。願わくは、そちらでいるだろう父と子供たちと穏やかで眠れますように祈った。
果てない祈りを歌う。
メイドと執事が、両親の傍で使える姿を思い浮かべる。
この二人の姉弟は本当に仲が良く、青年はいつも遠巻きながら二人が仲良く会話しているのを眺めていた。奥方の妹の幼馴染であるこの姉弟に出会ったばかりの彼女についての話をよく聞き出していたのは良い思い出だ。姉は賢くはないし、仕事も優秀ではなかったが、愚直なほどに明るくて前向きな性格で、何かがあるたびに落ち込む家族を励ましていた。執事は姉とは反対的に理想的な執事として振舞っている中で、実はこっそりと料理やマナーの勉強をしていたのを青年は知っていた。まだ礼儀も知らなかった頃、執事に「なんでそんな無理してるの?」と聞いたら、思わず頬をかるくつままれて「このことは秘密だからな」と軽く脅されたこともある。逆に知ってしまったことで、二人でいる時は執事も猫を被らずに話してくれるようになったのは、運がいいのか悪いのか。
どうか、姉弟の安らかに過ごせる場所が、よりよくなりますように紡いだ。
隠すことなく胸懐を歌う。
両親に見守られて、お気に入りの本を読む末娘と長女の姿を思い浮かべる。
明るい末娘と内気な長女は、全く正反対のようでいて、実のところは本が好きだったりと、共通点の多い姉妹でもあった。末娘には感謝をしてもしきれないぐらいだった。あの日の末娘の言葉で青年は屋敷から足を踏み出して、彼女に会えることが出来たのだから。明るくて快活な彼女は、誰とでも仲良くなれる素質を持っていた。将来の夢は好きな男の人のお嫁さん、という話を聞いた時は、家族全員が微笑ましく見ていたものだ。長女も、魔術を見つけてくれた時、彼女がまるで希望そのものように思えるぐらいに嬉しかった。長女は人と関わるのが苦手で、そういうところでは青年と気があっていた。勉強好きでもある彼女に教えたのは、長男よりも青年の方が多かったかもしれない。長女が成長したら、それはもう優秀な当主補佐として、長男をサポートしていたに違いない。
彼女の命はちゃんと助かったと、姉妹に伝えたかった。
二人とも、心から奥方の妹のことをもう一人の家族として愛していたから。
遠くなっていた願いを歌う。
自分と同じ姿を持つ、家族を見守るように微笑む長男の姿を思い浮かべる。
どれだけ違った存在になったとしても、同じ日に生まれた、愛しき半身であることに変わりはない。家族の誰よりも、長男と共に居た。
あまりにも似すぎていて、自分でもどちらが兄だったのか弟だったのか判らなかった程に。彼が次期当主としての素質を見出されてから、どんどんと一人は二人へと変わっていった。青年はそれを当然のことだと受け入れていたが、彼はそうではなかったことに気がついたのは、たったの今だ。本当に自分の愚かさに笑えてくる。もっと早くに気がついていればと。また何か変わったかもしれない。
もしも自分に次というものがあるのならば、彼と共にまた生を授かりますように。
いつ叶うかもわからないような淡い願いは、片割れに届いてくれるだろうか?
永久の愛を歌う。
少女の微笑みが、鮮明に浮かぶ。
何回顔を浮かべても愛おしく思える。大切な人。
青年にとっての可愛いお姫様。
彼女が幸せになってくれることだけが、青年の望みだった。
青年は不安だった。自分がいなくなることで、少女はどうなってしまうのかと。
けれど、よくよく考えたらそんなものはただの杞憂なのだと気がついた。少女はもう、護られるほどの弱い存在ではない。
少女はとっくに、青年がいなくても一人で生きていけるほどの魂を持っていることを、この洋館に来てからの出来事を通して思い知らされた。地獄の中で何回も前を向こうと顔を上げ、こんな状況でも優しさを見失わなかった。弱いままの青年なんかよりずっと、彼女は強い。
少女のことが大切じゃないなんてことは万が一でもありえない。
彼女との日常を望むのなら、青年は喜んで彼女の手を取るだろう。
本当はもっと、彼女の傍にいたかった。
彼女の成長とこれから訪れるだろう幸せを見守って生きたかった。
彼女に襲い掛かる悲しみを取り払いたかった。
彼女の姿が見える。
桜を散らすように涙をはらはらとこぼした、愛おしい彼女が、自分の前に立っている。
今すぐにでもその涙を拭って、抱きしめてあげたい。その衝動をぐっと抑え込む。
ああ、けれど。決心がついた。彼女の光いっぱいの瞳を見て、青年は微笑む。
彼女は大丈夫だと。心からそう思えた。
この長い生に終止符を打つならば、今がいい。
別れの歌が終わる。
少女は、青年に迷いなく抱き着いてきた。陽だまりのような温かさが、青年に染みこみ優しく広がっていく。
青年は彼女から伝わるぬくもりを、二度と忘れないようにと、強く強く確かめた。少女が顔を上げる。その瞳の意図がこれでもかと伝わってきて、青年は泣きたくなった。彼女のやさしさに一瞬でも目を眩まないように勤め、少女の手のひらに、長男から託された鍵を握らせる。少女は血まみれの鍵を見てぎょっとする。床に広がる血を見て少女は息を呑むが、苦しそうな顔をして、すぐに祈るように目を閉じた。少女が黙祷をささげるのを見届けた後に、青年は少女へと切り出した。
ありったけの想いを込めて。
「俺の片割れが託したものです。その鍵を使えば、玄関の扉から外に出られるはずです。だから、貴女だけでも行きなさい」
少女は。
「そんなの」
涙をいっぱいに溢れさせて。
青年に叫んだ。
「そんなの嫌だよ!」
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