地下書庫

主人が亡くなってからも、一同はその場から動けなかった。

誰もが、彼の死を悼んでいる。まるでこの世が終わるかのような真っ暗な瞳を宿して、本棚に挟まれた亡骸を見つめていた。

間に合わなかった。もしかしたら助けられたかもしれないのに、助けられなかった。

その事実だけが少女の心に重くのし掛かっている。


「本棚をどかそう」と真っ先に言ったのは長男だった。

「いつまでもこうしているのはあまりにも不憫だ。……手伝ってくれるかな」と静かに告げる彼の声だけが、部屋に響いていた。

青年と執事は音もなく頷くと、本棚をどける作業へと入っていく。俯いていたメイドも、気持ちを切り替えたように顔を上げて手伝おうとした。

けれど、「君は彼女たちを部屋にお送りしてほしい」という長男の指示に、メイドは立ち止まる。彼女は主人を息苦しい表情で見ていたが、しばらくすると、小さく本当に聞こえるか聞こえないぐらいの声量で「かしこまりました」と了承した。本当は手伝いたいのだろうと、少女はメイドの表情を見て考える。メイドは少女のほうへと近づくと必死に笑みを作った。

「お部屋に戻りましょう。ここは男性の方々に任せてください」そう告げる彼女の顔は、あまりにも悲しみに満ちていた。

少女は首を振ると、ゆっくりと起き上がる。長女の方に顔を向けた。

彼女は肩を抱き、ガタガタと体を震わせながら何か独り言をぶつぶつと繰り返している。その様子は尋常ではなかった。長女の瞳は血走っており、顔はまるで死人のように青ざめている。


「嫌、嫌ぁ……お父様……嘘、嘘よ!こんなのありえない。そんな、そんな、嘘…。何か、悪い夢を見ているんだわ……。そうよ、だって、昨日から眠れていないもの……もういちど眠れば……きっと……これは。どうして……」


少女は彼女の名前を呼ぼうとしたが、少女の気配に気がついた長女はその前にガタリと立ち上がり、耳を塞いで部屋から逃げるように去っていった。長女のただならぬ異変を感じた少女は、強く彼女の名を叫ぶように呼んだが、彼女の返事はない。バタバタという音の後に、ガチャリと何かが閉まる音が遠くから響く。メイドが「お嬢様」と絞り出すような声を漏らす。少女はメイドに「あの、わたしいってきます!」と告げると、メイドの返答の言葉も聞かずにそのまま部屋から飛び出した。

少女は急いで長女の部屋の前に向かい、その扉は固く閉ざされていた。長女が鍵を閉めてしまったのだろう。少女は、か細く彼女の名前を呼んだが、長女は少女の言葉に一つも返さない。拒絶されていることを理解した少女の心はなおも深く沈んでいく。

それでも少女は諦めなかった。

このまま一人にしてしまったら、長女はそのまま自ら命を絶ってしまいそうだったから。


「お願い、開けて、あなたが心配なの……」

少女は、必死に扉の向こうにいる長女に訴えた。

少女の言葉で何か触れたものがあったのか、まるで雪崩のように彼女はヒステリックな声で言葉を乱雑に叫ぶ。

「嫌、来ないで!もう全員死ぬのよ!あなたも、お兄様たちも、執事さんもメイドさんも、私も..….!!死んでしまうんだわ!こんなの耐えられない!なんでよ?!なんで、こんなのっておかしいわ!」

明らかに正気を失っている長女の言葉に、少女は思わずたじろいでしまう。

少女は唇をぎゅっと噛んだ後、口を開いた。全身が震えていて、まともに言葉が紡げない。

それでも必死に、無理やりにでも声を出した。


「ひとりになったほうが、もっと耐えられないよ。みんな、きっと貴女のことを心配してる。みんなと一緒にいよう?」


直後に、ドン!と大きな音がした。扉に何かが投げつけられた音だった。

思わず少女は扉から一歩下がる。

扉の向こうにいる長女はさらに声を大きくして、混乱と恐怖に脅かされたまま己の感情をまき散らしていく。


「貴女に何が分かるのよ!なんにも失った事なんてない癖に。あの子も、お母様もお父様も……私にとっては愛おしい人だったの……わからない……貴女に判りっこないわ……。全身を引きちぎられたような感覚が、貴女にわかるわけがない!!いや、帰って!ここから出ていってよ!!」


その言葉に、少女は全身が怒りで爆発しそうだった。


失ったことがない?そんなわけはない。

わかりっこがない?そんなわけがない!

そう思った瞬間、少女は感情のままに長女に叫び返していた。


「わたしもお父さんとお母さんを亡くした!それもずっとずっと前に!心臓を抉られたような感覚だった!10年間ずっと、わたしはその痛みの中で生きてきたの!今だってそう!お父さんとお母さんがいないことを知る度に、どうして……わたしは生きてるんだろうって、思っちゃうの。おじさんがずっとそばにいてくれたから、わたしはずっと頑張ることが出来た。けど、いなかったら今頃とっくにお父さんとお母さんのところにいってたよ!だから、判りっこないなんて言わないで!そんな辛い事、言わないで。わたしだって、お父さんとお母さんにあいたいよ……」


言い終える頃には、少女は扉の前で崩れ落ちていた。

過去は戻らない。両親が事故で亡くなった事実は絶対に覆らないし、両親が生き返るなんてことはもっとありえない。どう頑張っても取り戻せない遠い存在になってしまった。10年という時間の中で、少女はどんなに辛くても前を向くことを決めたし、この洋館に行くことを決意した。その道のりは、全く無駄だとは思えなかった。もしも両親が生きていたら、この洋館を知ることすらなかっただろう。

けど、思ってしまう。

10年経った今でも、どうして、自分も連れて行ってくれなかったのかと。

母親の穏やかな笑みと、父親の快活な笑顔が脳裏に浮かび、こらえきれずに少女はそのまま涙を流した、シワのついた紅いカーペットがぽつり、ぽつりと濡れていく。両親を失った日に抱いた寂しさが、青年が埋めてくれたはずの喪失感が、再び全身にじんわりと広がっていくのを感じていた。


ガチャリ、という音が聞こえたと同時に、少女はその方向に顔を向けた。

そこには、頬に涙の痕を深く刻んだ長女が、心細い表情でこちらを見つめていた。長女は、少女に手を差し伸べた。少女はその手を取り立ち上がった。

「ごめんなさい。何も知らなかったの。本当にごめんなさい……」

後悔で押し潰されそうな長女の様子を見た少女は小さく、ほんのわずかに微笑んだ。

長女が生きていることに、安堵感を覚える。

「いいよ」と小さい声で、けど確かに言い切った。

長女は少女の表情をじい、と見つめたまま動かない。何処か、何かを見定められているようにも思えて、少女は首を傾げる。濁ったエメラルドの瞳が、少女の全身を射止めるように確実に捉えたまま離さない。少女が「どうしたの……?」とどこか不安げな気持ちで訊ねる。

長女は、静寂に融けるような、けれども意志の籠った声で告げた。


「もしかしたら……また、会えるかもしれないわ。あなたの両親にも。……地下書庫に行きましょう。そこでお話するわ」


地下書庫?それは少女が最も行きたかった場所だった。

けど、それ以上に少女は驚きを隠すことが出来ない。

両親に会える?

本当に?

少女の心に僅かな期待が浮かぶが、それはすみやかに恐怖に塗り替えられた。

それを意味をするところは、死者に会うということだ。

一度亡くなった人に会えるなんてこと普通ならありえるわけがない。

それこそ、魔法のような奇跡でも起こらない限りは。



「……ねえ、どういうこと、なの?」と少女が問いかけても、長女は何一つ答えなかった。地下書庫に行けば全てわかる。そう言いたげな表情だった。長女に手を引かれたまま、連れていかれるように少女は歩みを進める。今でも作業をしているだろう青年の姿が瞼の裏に浮かんで、少女は心細くなってしまった。


「ここよ」という長女の声で、少女は僅かに顔を向けた。

案内されたのは、やはり右側の階段の裏手にひっそりと立てられている扉だった。昨日丁度少女が気がついた場所だ。昨日は遠目からしか確認できなかったが、いざ目の前で確認すれば、地下書庫の扉はとても古ぼけていて、ずっと前から作られたかのようにも思えた。少女の心は不安でいっぱいだったが、それ以上にもしかしたら、この屋敷に秘められた真実に近づけるかもしれないと、少女は強い決意を胸に宿していた。いつまでも悲しむ余裕はない。今は、目の前にある手掛かりを見つけなければと少女はその扉を見つめた。


「ここでまっていてね」とだけ告げると、長女は一旦その場から離れた。そういえば、今朝は主人にこの地下書庫に入ってもいいか、という可否を問うために主人の部屋を向かったのだ。まさかあんなことになるなんて思わなかったと、少女は主人の死を思い出してまた泣きそうになった。涙が零れそうになるが、ぐっと堪える。涙をこぼしていたら、気になる本も読めないから。とん、というヒールの足音で、少女は彼女が帰ってきたことに気がついた。ふ、とそちらを見れば、長女が右手に銀色の鍵を持っている。長女は慣れた手つきで「開けるわ。ホコリ臭いけど、我慢してね」というと、そのまま扉の鍵を開けた。ガチャリ、という音がロビーに響く。長女は、ためらいなく扉を開けた。扉の先には、下へと続く階段が奥に広がっている。


その階段に吸い込まれるように、二人は階段を降りていく。

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