狂気
階段を降り切った先にある広い部屋では、沢山の本が埋め尽くされていた。
10個以上もありそうな本棚はびっしりと壁に沿うように詰められて並べられていて、さらには道を作るように本棚が部屋に配置されている。どの棚にも本が満杯だ。中には入り切らずに床に置いて本まであった。初めは学校の図書室みたいだと少女は感覚的に思ったが、しかし図書室と違ってこの部屋は本を読むための机も椅子もなく、ただ本が収容しているだけ倉庫のようにも捉えることが出来た。
まるで、過去の遺物を全てここにおいてあるみたいに。
主人の部屋以上に、とにかくここの部屋は本で満たされている。
長女は、ある一冊の本を取り出し、その本を少女に手渡した。
少女は読もうとするが、全くなんて書いてあるか分からなかった。ただ、お伽話でありそうな魔法陣がいくつかページに書かれているのだけはわかった。一体どんな内容の本なのだろうと、少女は問いかける。「この本はどんなことが書かれているんですか?」と。
「これから話すことを、嘘だと思わないで。どうか信じて」そう語る長女に、少女は確かめるように頷いた。
女性にしては低いアルトの声で、長女は歌うように言葉を紡ぐ。
その紡ぐ内容すべてが、これまで少女が培っていた世界を根底からひっくり返すようなほどの衝撃的なものだった。
「私たちの遠い祖先の話になるけれど。空を飛んだり、何もない所から水を出したり……。まさに、"奇跡"と言って差し支えない事象を、特定の手順を踏むことで、起こすことが出来るような……。そんな魔術を管理する一族だと、聞いたことがあるの。昔の話よ?この地下書庫には、私たちの祖先が蒐集してきた魔術書が納められているの。お父様は嫌いだったけれどね。そして私たちは……半信半疑でこの地下書庫に収められた本に書かれた魔術を使ったの。今からそう……一週間ぐらいの話かしらね」
長女が嘘を言っているようには、やはり見えなかった。
魔術。魔法とも呼ばれるそれに、昔は少女も憧れていた。
病室に設置されたテレビに映る愛らしい魔法少女たち。どんな悲しみも苦しみも、全てまとめて救い上げるような夢の存在を、少女は輝かしい瞳で見つめていたものだ。もしも魔法が使えるなら、空飛ぶ魔法の箒にまたがって、空の上にある国に飛んで行きたいと幼げに空想していた。
その魔法が、現実に存在しているなんてことがありえるのだろうか。と考えたところで、少女はあるのだろうと即座に思い直した。
青年の手にも、触れたものの記憶を覗き見るという魔法の力が宿っているのだから。
自分にも使えるのなら、こんなにも苦しくて重い鉛のような洋館が救われる手段があるかもしれない。
「えっと、そ、それで?」どこか縋るように、少女は彼女の話を促した。
長女は、大きく頷いた後に話を続ける。
「私たちが使ったのは……願いを叶える魔術。お母様の妹が、不治の病に罹った時に使ったの。家族全員でね。彼女の病気の完治と健康を願ったの……。実際に治ったのかは、私にもわからないけど……これで治ったらハッピーエンドじゃない?もしかしたら、その魔法をもう一度使えば……あなたの両親も、お父様たちにも会えるかもしれないわ……」
衝撃の内容に愕然する。
魔術の存在もそうだが、それ以上に奥方の妹の存在がここで言及されるとは思わなかった。
奥方の妹の病気を治すために、この一族は魔術を使ったというのだ。
少女は、あの席で主人が話していたことを思い出した。奥方の親族と青年の一族は非常に仲が良く、まるで二つの家で一つの大家族のようだったと、そして、奥方の妹も一族、特に青年と仲が良好だったと…それほど仲がよかったのなら、助けたいと思うのは必然だったかもしれない。けれど、どうして奥方の一族ではなく、この一族が助けなければいけなかったのだろうか?彼女の家は、彼女を不治の病だと言って見捨ててしまったのだろうか?素朴な疑問は、そのまま口へと流れ出た。
「けど、どうして……妹さんの家の方は、妹さんを助けようとしなかったの?」
少女の質問に、長女は顔を歪ませる。その歪んでなお美しい表情には怒りが感じられた。
「お母様の妹がね、家との縁を切ってしまったそうなの。援助金も、最新の治療も一切いらない……どうせ治らない病気なら、一人で残りの人生を過ごしたいと言って……家から最低限の荷物を持って、誰にも言わず姿を消してしまったそうなの。妹からその事実を聞かされた時、時間が止まったような気持ちだった。どうして、あんなに優しい人が早く死ななければいけないのって……だから、私から言い出したのよ。家が助けないなら、私たちで彼女を助けましょうって……。みんな、賛成してくれたの。それぐらいに、善い人で……」
長女の口ぶりから、心から奥方の妹が大好きだったいう気持ちがこちらにも伝わってくる。
少女は心臓がきゅっと締められたような気持ちになったと同時に確信する。
この人たちは、どうしようもなく、救いようがないぐらいのお人好しで、それと同時に、どこにでもいるような善人なのだと。
少女は、手に持っていた本を丁寧に棚へと戻すと、長女の手を優しく包んだ。
長女は驚いたように目を見開く。
今にも目から血の涙が溢れて来そうなほどに、彼女の目は血走っていた。
「とても、優しいご家族だったんですね……」
少女がその言葉を語りかけると、一瞬虚をつかれたような表情をした後、長女は疲れたようなくしゃくしゃな顔をして「そうでしょう?」と少女に声を返した。長女の線の細い手が、包んでいた少女の両手から優しくすり抜ける。長女が「さて、探しましょうか。あの本は何処だったかしら……」と、少女に背を向けた時の事だった。長女はまるで石になったかのようにその場からぴたりと動かなくなった。まるで電池切れで中途半端なポーズで動かなくなった人形のような異質さに、少女はたじろいだ。「どうかしました?」と彼女の背中に声をかける。けれど、長女は一切反応を示さなかった。長女は言葉にもならない声をいくつもいくつも漏らして、一歩、一歩下がる。少女が長女を抱き留めるような距離に縮んだ頃、長女は突然ヒステリックに叫び出した。虚空を見つめる彼女の顔は、まるで見てはいけない恐怖を直視したかのようで、美しい顔が崩れ去っていた。いったい、彼女には何が見えているのだろう?少女は恐ろしくて聞くことが出来ない。ドッドッド、心臓の音ばかりが大きく耳に障る。
長女は頭を抱えて泣き叫ぶ。
「あ、ああ、嘘!嘘、嘘、嘘……どうして……やめて、こっちにこないで……助けて!助けてっ……いや、いや嫌嫌嫌……私、は、わたっ……そんな姿見たくない……あ。あ、いや……どうして、あ。ああ、ああああああ」
長女は髪を掻きむしったあと、「触らないで!!」と鋭い声と共に背後にいた少女をドンと突き飛ばした。少女は細い悲鳴仰げて、尻もちをつく。どうにか頭を打つだけは防ぐことが出来たが、今、目の前で起きている状況が理解できなかった。長女は、文章として成立していない言葉を並べ立て、何もない壁に向けて手当たり次第に本を投げつけていた。少女には見えない。そこになにがあるのかが。けれども長女には当たり前のように見えている何かを排除するように、狂ったように叫びながら、乱暴に本を壁に叩きつけている。
まるで魔術な何かで幻覚でも見せられているようだった。
ふと、ピタリと動きが止まったと思えば、壊れたマリオネットのように、ぎこちなくこちらへと顔を向けた。
その瞳には、正気と呼べるものが欠片も映っていなかった。少女は思わず「ひ」と小さく悲鳴を上げる。殺意さえも感じる形相に、少女は身体の制御権を見失った。長女は鬼か幽霊かでも見たような表情で涙を流して叫び出す。
「どうして貴女まで?!あなたはさっきまで生きていたじゃない!血まみれで、あ、そんな。わたしも。どうして?あ、ああもういや、誰か助けてこっちにこないで!こないで!こないでよおお!来るなあああああああ!」
違う!わたしは死んでない!
そう言いたくても声が掠れて言葉にもならず、長女に届くことはない。
発狂した長女は、少女に向けて無造作に本を投げるが、そのどれもが少女に当たることはない。どこかの壁や床に本がぶつかる音だけが書庫内を響く。どうにか起き上がろうとしても、今この場で起きている異常に押し潰されているのか身体はぴくりとも動かない。けれども長女の視界にはそうは見えなかったのか、長女は分厚い本を両手で持ち、理解不能な言葉で叫びながら少女の頭を割ろうと、思い切り振り上げた。
少女はそれに気がついても、腕で前に出して守ることも出来ず、死が襲い掛かるのを受け入れることしか出来なかった。
助けて、おじさん!この子を止めて__!
少女、声無き願いと共に、そのままきゅっと目をつぶった。
直後。
パシリと、誰かが殴られる音が聞こえた。
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