赤く染まったエメラルド
「やめなさい!」
まるで光のような美しい声だった。
少女は、薄く瞳を開ける。するとそこには、見慣れた人物が長女の頬を叩いていた。
満天の美しさを想起させるような美しさは、薄暗い世界でもはっきりと分かる。
艶やかな黒髪が一束揺れる。柘榴のような真っ赤な瞳には、長女に対する怒りが伺えた。
「おじさん!」と少女が叫ぶのと、青年が振り返ったのは同時だった。
青年は息を切らしながら「怪我はありませんか!」と少女に声をかけると、少女は「ううん、大丈夫!」と頷きながら、ようやく身体を動かすことが出来た。ふらつきながらも立ち上がる。頬をぶたれた長女は、打たれた頬を気にすることなく、青年と少女を凝視しながら一歩一歩後ずさる。繰り返し繰り返し、否定と拒絶と狂気の言葉を何もない空へと吐き続けている。「兄さんまでどうしてそんな姿なの」「兄さんまで死んでしまったの」と、青年を見て怯えた表情をして、何もない壁へと後ずさっていく。青年は、少女の前に立ち、険しい顔でそのまま長女の様子を見ていた。青年と少女との距離が3mほど離れた後、糸がぱちんと切れたかのように、その場から動かなくなった。
お願い!もうやめて!
少女が口を開こうとしたその時の事だった。ふわりと彼女は笑みを浮かべる。
あまりにも穏やか優しい笑顔に、少女は言葉を忘れた。
そして。
「最初からこうすればよかったわ」
長女は、自分の瞼に指を突っ込み、躊躇いなく眼球を勢いよく抉りだした。
あまりにも明るい声に、少女も青年も反応が遅れてしまった。
目の前で起きたグロテスクな光景に、少女は声の一つも出ない。
ビチャリと緑色の球体と血と共に床へと転げ落ちると同時に、これまで以上に苦痛に彩られた絶叫が部屋全体を貫く。青年は少女を背中に隠そうと動いたが、その前に少女が長女の元へと駆け出していた。青年も、長女の傍へと駆け寄る。
崩れ落ちた長女は眼窩の開いた穴から大量に血を流して、顔を無造作に赤く染め上げている。あまりにも惨い姿に少女は涙が止まらなかった。ふらふらと、こちらの方向にゾンビのようにふらつきながら歩いていて、今にも倒れそうだった。少女は彼女が地面に倒れないように、彼女に手を伸ばした。長女は気配だけは読み取れたのだろうか、同じように手を伸ばす。まるで手を繋ぐように。
その時に、少女の手に何かが握られた感覚が走る。少女がそれを確認してみると、そこには形見のアクセサリーと同じ形をしたものが右手に握られていた。少女は、眼窩から血を零す長女を見た。既に血で染まった彼女の顔からは、少女に対する憐憫がこめられていた。ぽつり、と一言唇を動かせば、バチンと糸が切れたかのように、少女に抱き着くように倒れ込んだ。少女がいくら声をかけても、泣き叫んでも、強く体を揺らしても、長女は全く動かなかった。血と共に流した彼女の呟いた言葉が少女の脳内に焼き付いていく。
隣にいる青年は、信じられないといった顔でその様子を見ていた。
少女の脳に、奥がジリジリと焼かれていくような感覚が這い上がっていく。
その異常が体にも現れているのか、全身から嫌な汗が顔をつたい、体を冷やしていく。瞳から零れる血はとどまることなく、まるで長女から逃げるように血が外に溢れ、この場にいる三人を鮮血で穢していく。いくらたっても動き出さない長女に、少女の脳にある事実が刻み込まれた。それはどうしようもなく救いようもない。けれど簡潔に一言でまとめられてしまうぐらいにあっけないものだった。
長女は、死んだのだ。
今、ここで。少女の目の前で。
「なんで、なんで……どうして、死んじゃうの……どうしたらよかったの。ねえ、どうして……」
溢れ出る後悔と己の無力さが少女の全身を満たして、内側からはじけ飛びそうなぐらいに沸騰していく。
少女の目の前でまた命が失われた痛みに、心はとうに限界を超えていた。もはや涙も枯れるほどの感情が去来し、少女はその場で泣き続けることしか出来なかった。蝋のように白くなった細い手を握り締め、冷たくなった体を少しでも温めるように少女は長女を抱き続ける。少女自身の身体も、汗と恐怖で冷え切っていることに気がつかないまま。
青年の「そんな」という震えた声も、今の少女には全く届くことはなかった。
少女はもう物言わなくなった長女の骸を抱きかかえたまま、子供のように泣き続けた。
青ざめた長男と執事がこの部屋になだれこみ、一旦部屋に戻ろうと二人の手によって強制的に連れ出されるまで、青年と少女は長女の傍から片時も離れることはなかった。
客室に案内されている間、ずうっと少女は、長女の言葉を何回も何回も頭の中で反芻していた。
ぜんぶ、わすれて。
その言葉の意味を、今の少女は知る由もない。
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