■2000年 4月26日
コンコンというノック音で、少女はゆっくりと瞼を開く。
ぼんやりとした視界で扉の方に視線を向ければ、青年が執事と会話しているのが見えた。少女が目を擦り、ソファから立ち上がる。青年は足音で少女が目を覚ましたことに気がついたのだろう。彼は少女の方へと顔を向け、静かな声で「起こしてしまいましたか。おはようございます」と告げる。少女は「おはよう。ええと、執事さん……だよね?もしかして、昨日頼んだこと?」と尋ねると、青年は頷いた。
青年の目は充血していた。
寝られなかったのだろうかと、少女は首を傾げた。
「おじさん、もしかして寝れなかったの?」
青年は首を横に振ると「こんなことが起きてしまっては、寝てもいられませんよ」とやつれた顔で微笑んだ。
少女はもう一回寝たら?と声をかけたが、それにも青年は首を振った。
「お父様は昨日は早くお休みになられたようで、これから確認しに行くとのことです。執事が俺たちに軽い朝食を作ってくれるそうですので、食べた後はお父様の部屋に向かいましょう」
青年の言葉に少女は僅かに頷いた。主人のあの儚い笑みが少女の脳裏に過ぎる。
大丈夫だろうか?なんて疑問は全く思わなかった。大丈夫ではないに決まっているから。
大切な人を立て続けに亡くなったのだ。
昨夜の温かな歌声が一時でもぬぐってくれていた悲しみと恐怖心が、少女の心から湧き出てくる。夢から覚めるように、いっきにこの地獄の現実に引き戻された。
この洋館から溢れている重い苦しい鉛のような冷たさと全身を鋭い針で刺してくるような絶望が、少女の心と身体に絶え間なくまとわりついてきて、思わず小さく体を震わせた。それでもここで止まるわけにはいかな。必死にその恐怖を心に押し戻そうと、荷物から形見のアクセサリーを取り出してぎゅっと握った。お父さん、お母さん、どうかわたしを見守っていてください。わたし、がんばるから、絶対におじさんと一緒にこの洋館で起きていることを突き止めてみせる。だから神様といっしょにお空の上で、この場所に笑いかけてください。少しでもこの洋館で過ごす人の悲しみが癒されるように__。
心の中で、幾度も幾度も祈り捧げる。
古ぼけたアクセサリーは、少女の熱を受け取って温かくなっていた。
「大丈夫ですか?もしもまだ眠りたいのでしたら、俺だけでも向かいますが」青年がこちらをのぞき込むように少女に訊ねる。問いかけられて焦る少女は「う、うん。大丈夫。ありがとう。あ、待ってね、今着替えるから先に行っててね!」とあたふたと言葉を青年に投げると、荷物にアクセサリーを隠すようにしまった。青年は慌てる少女の様子を眺めていると、そのまま客室から出た後に、ゆっくりと音を立てないように扉を閉めた。少女はクローゼットの服に腕を通しながら、今何時なのだろうと確認する。時計の針は7時前を指していた。
ロビーにあるテーブルの上に用意された、ふかふかのパンをどうにか胃に押し込むことに成功した少女は、青年と共に二階への階段を上っていた。主人の部屋は奥方の部屋の隣にあるようで、青年が案内してくれることになった。音を立てないように階段を昇る青年は、何処か堅い顔持ちだった。ふと、少女は反対側に設置されている階段を見る。手摺の壊れた階段は、今も変わらずそこにあった。昨日、あの場所で悲劇が起きたのだと主張するような階段は、少女の心を曇らせる。青年は「…気を付けてくださいね」と、少女に小さく小さく声をかけた。その声は僅かに震えていたことに気がついて、少女はただただこくりと頷くしかなかった。一刻も早く抜け出したいが、気を抜いたら落ちてしまう。二人はどうにか、大きな階段を昇り切ることが出来た。
その直後の事だった。
大きいものが地面に倒れたような音と男性の悲鳴が、同時に少女と青年の耳を壊すように叩きつける。
少女は目を見開き、今すぐ音の正体を確かめなければという気持ちに駆られる。
隣で驚く青年も、有る一点を見つめて焦燥に駆られたように迷いなく駆け出した。少女もそれと同時に足を動かす。二人は音の発生源と思われる部屋の扉の前にまでたどり着くと、ノックもせずに勢いよく扉を開けた。
扉の先に広がるのは、惨状だった。
末娘と同じように広い広い豪華な部屋の壁には、沢山の大きな本棚が壁のように並べられている。まるで小さな図書館のようだった。
その大きな本棚の一つが、床を割るように倒れ込んでいる。倒れた音は、おそらくこの本棚が正体だったのだろう。キングサイズのベッドの近くにあるアンティークな執務机には、数々の書類がまとめられているが、本棚が倒れた影響でその書類も床へと散らばっていて、見る影もない。
けれどそれはどうでもよかった。
少女が感情をかき乱されたのは、本棚によって下半身を本棚に潰され、血を流す主人の姿だった。
青年が悲痛な声で叫ぶ。
「お父様!」
青年は大きな本棚をどかそうと、床と本棚の隙間に手を入れた。少女も本棚を掴んで、必死にない力を振り絞る。青年の何処にそんな力があったのか、本棚は横にずれ始めていたが、それと並行して床に主人の物だろう血が床に広がっていく。主人の顔はどんどんと青白く変色し、生気が時間と共に外へと抜け出していく。少女は涙を浮かべて必死に声をかけ続けた。
「お願い、頑張って。今助けますから!死なないで、ねえ、お願いです、死んじゃ駄目です!」
騒ぎに気がついたのだろうか、いくつかの足音が聞こえてくる。けれど今の少女にはその足音の正体が誰なのかを気にするほどの心の余裕はなかった。奥方も、末娘も間に合わなかった。気がついた時にはもう、彼女たちは帰らぬ人になっていた。
だから、もしも助けられるなら助けたかった。
それなのに、どうして今にも少女の手から砂粒のように命が零れ落ちようとしているのを止められないのだろう?
痛みにもだえ苦しむ主人は少女の声に気がついたのか、僅かに顔を動かして少女と青年の姿を見る。
その瞳には生命力などなく、無機質のガラス玉のようで、少女は涙が止まらなかった。
二人の様子を見た主人が、あまりにもか細い声で、空気に融けるように声を漏らした。
「もう、いい。十分だ。もう、やめなさい。君たちの腕が壊れてしまう……」
そう告げる主人の表情は、あまりにも穏やかだった。少女がこれまで見て来たどの表情よりも、彼の顔は平穏に満ち溢れていた。
青年はその声を聞いて、本棚をどかそうとする手をぴたりと止める。
青年も察したのだろう。
既に彼は手遅れだったということに。
その事実を受け入れられないというように、また別の声がこの場を切り裂いた。「お父様!そんな、どうして!」と長男をはじめとした洋館の住人が、が主人へと駆け寄っているのが見えた。けれど、主人は彼らの声が全く聞こえないかのように、今にも息絶えようとしている。
実際、もう聞こえていないかもしれない。今の主人はきっと、もう戻らない幸福の道の切符を掴もうとしていたのだから。
それでも少女は声をかけ続けた。
「お願い。待って、死なないで。みんな、みんな。死んでほしくないよ。お願い……起きて、起きてください……」
滲んだ視界と声のまま、主人に縋るように言う。けれども、主人はそれには僅かに首を振った。
「いい、いいんだ。もう、私は……これで……」
主人は子供たちの顔を、一つ一つ確認する。
愛おしむように、名残惜しく子供たちを視界に収めていく。
長男は、俯いて涙を流していた。
長女は、涙を溢れさせながら主人の青ざめた手を握り締めて「嫌、嫌よ」と首を横に振っていた。
本棚をどかすことをやめた青年も、今は主人の傍でその時を静かに待っている。
満足そうに頷くと、次に主人は執事とメイドの顔も、労わるように視線を向けた。
「君たちも、いままで、ここに尽くしてくれてありがとう。私にとっては……君たち姉弟も大事な人だった……。きっと、ここにいる子供たちも、そう、思っている……」
執事もメイドも、とても申し訳なさそうに主人を見送ろうとしていた。
「こちらこそ、お仕え出来て光栄でした」そう告げるメイドの瞳からは、涙がじわりとにじんでいた。
執事も、主人に声が届くような距離まで唇を近づけて「こちらこそ、お仕え出来て光栄できた。ゆっくりとお休みください」と震えた声のままで、彼に言葉を零す。
そして、最後に主人は少女を見た。いいや、見ようとした。
けれど、既にその瞳は少女を見ていなかった。瞳にはもはやこの世の残酷な現実ではなく、かつての幸福しか映っていない。
虚ろな瞳のまま、主人はふ、と微笑みを作った。重い荷物を床に一つ残らずおいて、息を吐いてベッドに眠りにつくように。
その安らかな笑みを残したまま、主人はぴくりとも動かなくなった。
どうしてなのだろう?
どうして、この洋館の人たちは苦しみ続けなければいけないのだろう?
どんな悪逆非道な罪を犯したら、こんな地獄を与えられるのだろう?
あまりにも理不尽な仕打ちに対する怒りも、主人が死に絶えようとしている悲しみも、全て全て涙に変わっていく。
洋館で暮らすたちに見守られて、主人はその命を終えた。
噎せ返るような血の匂いと、例えようのない深い絶望が、洋館を浸していく。
床に転がる主人が身に着けていた鍵とも十字架とも思わせるアクセサリーが、その場にいる全員の悲しみを映していた。
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