優しい歌
二人で客室へと帰る途中、何気なく少女は右側の階段を見た。
昨日までは全く気がつかなかったが、手摺の壊れていない大きな階段の裏に、何か四角いものが覗いている。じっと眺めていれば、それは部屋の扉であることに気がついた。まるで見つけられたくないとでも言いたげにひっそりと立てつけられているそれは、何か秘密があるのだと思わせるのには十分だった。隣にいる青年に「おじさん、あの部屋はなあに?」と聞いてみると、青年は階段を一瞬確認した後に、少しの沈黙の後に少女に教えてくれた。
「あの階段の裏の扉は、地下書庫ですね。正直入れるかどうかは怪しいところですが、一応鍵を貸していただけるかどうか確認してみましょうか」
その提案に少女は軽く頷いた。
本当は今すぐにでも確認したいが、鍵がないのであればしょうがない。
書庫ということは、奥方の妹の病気のことも載っているのかもしれない。絶対に行った方がいい場所だと少女は判断していた。もしかしたら、ここで起きている事件の手掛かりもつかめるかもしれないのだ。現状、この洋館で何が起きているのかは未だに不透明で、どんな原因なのかもはっきりつかない。奥方の妹が罹っていた病気と事件が関係あるとは思えない。少女が、ぐるぐると思考の迷路へと迷い込もうとしていたその時だった。
そこまでしっかりと考えたところで、ふと少女は疑問を持った。
主人の話から察するに、奥方の妹とこの家族はとても良好な関係を築けていた。
なら、青年も例外なく奥方の妹を知っているはずなのだ。
少女はそんな軽い気持ちで青年に「お母さんの妹と、仲が良かったの?」と問いかけた。
青年の足がピタリと止まる。思わず少女の足も倣ってしまった。先ほどの話もあって、ぶしつけなことを聞いてしまったと内心で慌て始める少女はあたふたと「あ、ご、ごめんね!嫌だったら答えなくてもいいんだよ」と急いで付け加えた。そんな焦る少女と裏腹に、青年は「いえ、部屋についたので」と極めて冷静に告げた。おそるおそる確認してみると二人の前には、客室の扉があった。
気がついたら、既に部屋に辿り着いていたようだった。少女は少し恥ずかしい気持ちになってしまう。
少女が俯いていると、青年は優しく少女の頭を撫でる。少女は青年の方に顔を向けた。
美しい微笑みを浮かべる笑う彼の姿に、少女は思わず目を奪われてしまった。
「彼女と仲が良かったと言われたら……はい、それなりには良かったですよ」
微笑みながら告げる青年の穏やかな声は、少女は目をぱちぱちとさせた。
少女の問いに答えてくれたことにも嬉しかったが、それ以上に驚いてしまった。
その囁くような声に、”それなり”というにはあまりに溢れてしまうような優しさと温もりが詰まっていて、少女は虚をつかれた。
気恥ずかしそうに青年はそのままゆっくりと音を立てないように扉を開け、少女に部屋に入るように促した。
一体、奥方の妹と青年は、どんな関係だったのだろう?
どこかじれったい感情を抱いた少女は、むくれた子供のような幼い不満と共に、少し駆け足で客室の床を踏んだ。
客室で何にもせずに休憩していると、コンコンと、静かなノックが聞こえる。
少女がはーい、という声とともに扉を開けると、そこには二人分のスープを持った執事が立っていた。執事は「夜の御食事をお持ちしました」と頭を下げると、テーブルにスープが入った食器とスプーンを、迅速かつ丁寧に並べていく。鶏肉の入ったぽかぽかのクリームスープに、少女はほっと息を吐いた。少女は「ありがとうございます」と執事に礼を言う。執事は軽い会釈をして、部屋から出ようと少女から背を向けようとした時に、少女は引き留めるように「そうだ。あの……地下書庫を見たいんですけど、鍵をお借り出来ませんか?」と執事に訊ねた。執事がマスターキーを持っていたことを思い出したからだ。執事は少し考えるそぶりを見せると、すぐに少女の方を見やった。
「旦那様に確認を取り次第でよろしいでしょうか。旦那様が既にお休みになっていた場合は、確認は明日以降になります」
執事の提案に少女は「それで構いません。お父様の体調と心を優先してください」と小さく頷いた。少女は確かにこの屋敷についてを知りたいと言ったが、疲れ切っているだろう主人をたたき起こすなんてことは出来なかった。この洋館で過ごす全員が大切な家族を失い落ち込んでいる状態で、少女の私欲を優先するなんてあまりにもばかげているから。
執事は「かしこまりました」と、少女に穏やかに微笑むと、改めて少女に背を向けて静かに扉を開けて出て行った。
また再び、二人だけの空間へと戻る。少女にとっては心が休まる時間だ。青年はソファから起き上がると、窓の近くまで歩き、外を眺めていた。窓の外の景色は雲一つない満天の夜空と、月輪が少しだけ欠けた月が広がっている。満天の夜空と照らす月はきらきらと煌めいて、この世界を、洋館に微笑んでいる。少女は窓の外の景色を見て「もうすぐ満月だね」と、青年に笑みをこぼす。青年もまた「そうですね」と返し、僅かに微笑みを作ってそう答えた。
「お母様の妹……彼女とは、幼い頃からの付き合いでした。と言っても……8歳ぐらいからですかね。彼女との出会いは。三階で一人で歌っている時でした。突然ノックもなしに部屋に入ってきて言ったんですよ。"もっと歌ってほしい"と。それから、彼女は毎日俺のところへとやってきたんですよ。もっと遊ぶ相手がいるでしょうに、なんで俺のところにくるのか、当時は全くと言っていいほど理解出来ませんでした」
窓の外をぼんやりと眺めながら、青年は少女にぽつりぽつりと語る。
奥方の妹との思い出を語った青年の瞳は、少年のような幼さが星のように小さく灯っていた。少女は、懐かしく語る青年の姿を、取り残されたような寂しい気持ちで聞いていた。けれども、同時に青年が自分に昔のことを話してくれて嬉しい気持ちも確かにあった。
きっと昔から、青年は歌が好きだったのだろう。
少女と出会う前から。それこそ、この家にいた時から。
彼は誰かのために、おそらく一番は奥方の妹のために、歌を捧げていたのだろう。
少女は胸の奥がむずかゆくなってしまって、ほんの少し悔しくなってしまった。
「おじさん、何かここで歌ってみて」
そんな気持ちを抱いたものだから、青年に悪戯にも似た気持ちを込めた言葉を零してしまう。
青年は「今ですか?もう夜ですよ」と、戸惑う声を漏らす。
わかっている。所詮はただの少女の軽い我儘だ。
友達が新しいおもちゃを持っているのを見て、母親にその新しいおもちゃをせがむ子供のような、幼くて拙い嫉妬だ。
少女はソファにぽすんと座ると、青年はその隣に腰掛ける。
少女が落ち込んでいると、美しい歌声が、囁くように聞こえてくる。
まるで少女にしか聞かせる気がないような、オルゴールのようなきらきらした歌声。
_Ah Vous dirai-je, Maman_
青年は、少女のために小さく小さく歌っていた。
_Ce qui cause mon tourment ?Depuis que j'ai vu Silvandre_
何語で歌っているのかは分からないが、少女はそのメロディーには聞き覚えがあった。
_Me regarder d'un air tendre Mon cœur dit à chaque instant_
出会った日から、青年はよく少女にこの歌を歌ってくれていた。
眠れない時や、今のように気分が沈んだ時に。
_"Peut-on vivre sans amant ?"
幼気な小さな星の歌を。
気がつけば、少女は青年に身を預けて歌に聞き入っていた。青年もまた、寄りかかる少女を支えるように肩を抱いている。
「……この歌。昔から、よく歌ってくれてたよね。メロディーは一緒だったけど、はじめて聞いた歌詞だったな……おじさんがつくったの?」と、夢見心地のままで少女は訊ねた。青年は僅かに首を横に振る。「この歌は、いくつかヴァージョンがあるんです。俺は世界中を放浪していたので、その途中で歌もそれなりに覚えました」歌について語る青年は、今は少女を優しく見つめていた。少女は「そうなんだ」と、そのまま眠るように目を閉じる。少女は「もっと歌って」と、些細な我儘を口にしてみた。青年は「貴女が眠るまでですからね」と困ったように微笑み、優しく少女の頭を撫でると、そのまま歌の続きを口ずさみ始めた。部屋の外に音が漏れないように遠慮した声で歌う青年と、その腕に包まれる少女は、今この時だけ遠くに浮かぶ星のように灯っていた。
しばらく時間が経つ頃には、少女は穏やかに眠りに落ちていた。
この洋館で起きたことなど全て忘れてしまったかのような、穏やかで無垢な表情で寝息を立てる少女の顔を覗いた青年は、歌を紡いでいた唇をきゅっと閉じ、歌うのを辞めた。歌声で満たされていた部屋は、まもなく静寂へと落とされる。
少女を起こさないように、青年は優しく、大切な宝物に触れる様にゆっくりと抱きしめた。
そのぬくもりに、青年は眉を下げて唇を強く噛みしめる。
これまで降り積もった感情を吐きだすように、音もなく静かに涙を流した。
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