対談

時刻は15時前を告げようとしている。

メイドに改めて身体を拭いてもらった後、彼女に新たに用意してもらった服を身に纏った少女は、一足先にロビーのテーブルで両手を揃えて腰掛けていた。隣には青年が姿勢良く座っている。

メイドはリラックスして待ってほしいと言っていたが、少女は難しい……いや、到底無理な話だった。今だって緊張で身体が石にでもなったかのように固まっているのだ。一旦部屋に戻った後、青年に同席を頼んだのも、自分一人では話をすることすら難しいと思ったからだった。主人のあの威厳のある雰囲気に圧倒されて、聞きたいことを聞けないまま頷くだけで話が終わるのは簡単に想像できてしまう。

それに、今朝のこともある。あの取り乱した主人の表情が目に焼き付いて離れない。お礼を言われることなど何もないのにと俯いていた。

青年は少女の様子を目で確認すると、青年は少女の手に自らの手をゆっくりと重ねた。少女が思わず青年の方に顔を向ければ、すぐに手の距離は離れていく。少し、ほんの少しだが、緊張がほぐれたような気がする。少女は改めて、大きく深呼吸をしたあとに、テーブルの向こうに設置されている席を見つめた。


15時を過ぎた頃に、こつん、と階段の方から靴の音が聞こえる。来た!と少女は姿勢を整えた。

音の方角を見れば、メイドに支えられた主人が、杖を用いてゆっくりと、階段から落ちないように降りて来ていた。主人の顔は未だに悲しみに沈んでいたが、それでも先ほどよりは顔色が僅かばかりよくなっているかのように見えた。青年も、背筋を伸ばして座り直している。普段と違って僅かに固い様子の青年を見て、ああ、彼も多少なりとも緊張しているのだと少女は知った。


椅子に、主人が腰掛ける。

メイドが主人から杖を丁寧に受け取ると、主人の背後に音もなく控えた。少女の知る限りどちらかと言えば、賑やかなメイドは今はそのなりを潜め、少女と青年を見つめていた。静かに仕える使用人としての顔のままで、けれどもそのオレンジ色の瞳だけ普段の明るさを灯している。

主人は「わざわざ呼んですまない」と、二人に頭を下げた。いきなりの行動に少女は目を見開いた。


「い、いえ!大丈夫です!わたしもお聞きしたいことがあったので!!」

緊張のあまりに、少女の声が思い切り裏返っていた。メイドは思わずその様子に笑いをこらえそうになっているのを少女は見逃さなかった。内心で思わずメイドに笑わないでよ、と文句を言ったが、どうやらむくれた様子が顔にもわかりやすく出ていたらしく、青年が軽く青年の頭をとんと叩いた。少女ははっとする。主人の前でなんという無礼を働いたのだろうか。あまりの情けなさに、「すみません」と小さく謝りながらも、少女はガクリと肩を落とした。

一連のやりとりを一部始終見ていた主人は、そんな少女の謝罪も「気にしなくていい」と曖昧に微笑む。

その微笑みを見た少女は、主人の表情を改めて確認した。主人の瞳には、深い深い悲しみが映っていて、少女は俯いた。


「あの時君が言ってくれなかったら、私は感情のままに息子を殴り飛ばしていただろう。そのことについても、礼を言いたいと思ってね。この場を設けさせてもらった。本当に、本当に……止めてくれてありがとう」


主人の言葉の一つ一つに、強い後悔の念が見て取れた。

少女はきゅ、と拳を小さく握り、主人の瞳を見つめる。


「気持ちは、良く判るんです。わたしも、昔そうだったから。お兄さんからお話は聞いていると思いますけど……。わたしも、ずっと前に家族を事故で亡くしました。両親を亡くした時、ずっとお兄さんに当たっていたんです。もしもお兄さんが両親の傍にいてくれたら、こんなことにはならなかったのにって。ひどい、やつあたりですよね。けど、大切な人が亡くなると、どうして、なんでって……。訴えたくなって。頭ではわかっていても……どうしても、受け入れられなかった。きっとわたしが言ったって、納得出来なかったと思います。あの時、お兄さんを殴らなかったのは、貴方がとても優しい人だったからだと思います。だから、気にしないでください」


主人は、憑き物が落ちたかのような穏やかな表情を浮かべて頷いた。

生気の感じられない今にも倒れてしまいそうなほどに儚い微笑みに、少女の瞳も滲んでいく。主人は少女に目だけは合わせていたが、その瞳は遠い遠い何処かを覗いている。まるで記憶の中にしか存在しないような、遠く置き去りになった宝物を見つめているようなその色に、少女の胸は苦しくなった。

きっと、今の彼は昔のことを思い出しているのだろう。誰もが笑い合い、幸せだったあの頃を。優しい優しい、愛する人の笑顔を。

もう二度と届かない存在に、彼は薄く手を伸ばしている。

温かな過去を少女の瞳を通して眺めながら、彼は自分の思い出を、訥々と語り始めた。


「君は、妻と似ている。妻も……君のように優しい人だった。妻が生まれた一族と私たちの一族は、私と妻が生まれる前からの長い長い付き合いがあってね……それはもう、二つの一族で一つの大家族のようだったよ。妻とも、赤子の時から共に育ってきたんだ。妻はそれはもう、幼い時から当時から可憐な花のようでね、既にその時から彼女に一目惚れしていたんだよ……。妻との見合い話が来た時は、即座に頷いたよ。はは……もう、何十年も前の事だったかな……。初めて妻との子が産まれた時は、感動で声が出ないほどで、年甲斐もなく大泣きしてしまった……」


主人が語れば語るほどに、もう二度と彼の願う幸せは戻ってこないのだろうことが理解出来てしまう。

それからも主人は、沢山のことを語ってくれた。

奥方と愛を誓い合った日の事。

まだ幼児であった双子の兄弟が初めて一人で歩いた時、妻と二人で手を叩いて喜んだ事。

少し難しい本を読みたがっていた幼い長女に、膝の上にのせて二人で読み聞かせた事。

外で遊びたがる末娘のために、子供たちと共に近くの森林まで遊びに行って、夕陽が輝く頃まで遊んだ事。

雷で眠れなくなった子供たちが部屋に遊びに来て、結局家族全員で一つのベッドでぎゅうぎゅう詰めで眠った事。


語る全てが暖かくて懐かしく思えるような、あまりにも遠くなってしまったもの。

幸福の残骸。

もう戻らない幸せをぼんやりした瞳で見つめながら、ありきたりなお伽話を読み聞かせるような声色は、まるで少女に全てを託すようでもあった。主人の抱える思い出を、少女は心に刻み込む。たとえ、過去になったとしても忘れなければ死ぬことはないということを、少女はよくよく知っていたから。


彼が抱える幸せな思い出をひときしり話し終えた頃には、主人の表情は疲れたような微笑みに変わっていた。

少女も青年も、一言も言葉を発さなかった。

言うべきことがなかったからではない。主人の話を一字一句忘れないように、話を聞くことに集中していたからだった。

メイドも顔を俯かせ小さく震えているのが見える。

主人は「すまない。君も聞きたいことがあったのだったな。何かな?」と、改めて少女に向き直る。今度は少女の瞳をスクリーンのように眺めているわけではなかった。少女の存在をあるがままにしっかりと捉え、ここで生きている少女に向き合おうとしているのがわかる。


少女は末娘の部屋に会った写真を取り出した。主人はその写真を見て「これは……一体誰から貰ったんだい?」と僅かに驚いた様子を見せたが、少女は「お姉さんから貰いました。奥さんの妹さんとは聞いていたんですけど……どんな方だったのか知りたくて」と、写真に写る奥方の隣で微笑む女性を指さした。主人はその写真をまじまじと見つめると、苦し気に目を細めた。


「その子は、妻の妹だ。血は繋がっていないが、本当の姉妹のようだった。不義の子のようで……妻の両親がその子を憐れんで引き取ったんだ。息子たちと同い年ながら、妻の一族をまとめる次期当主として選ばれるほどの才女だったよ。当時は私もその才能に驚いたほどだ。彼女は、子供たちとも仲良くしてくれてね……誰もが、彼女のことを好いていた。私も妻も、子供たちも、彼女の事を家族だと思っていた……。彼女も毎日のように家に遊びに来てくれたんだ。特に君は、昔は三階の部屋で彼女と二人で一日中話し込んでいたじゃないか、忘れたわけじゃないだろう?」


最後の問いかけは、少女ではなく青年に向けられていたようだった。

青年は小さく、本当に僅かな声量で「はい」と言い切った。

隣で座る青年も、懐かしく語る主人も、どうにも一様に重苦しく暗い顔をしている。


もしかしたら奥方の妹になにかあったのかもしれないと、話を聞きながら少女は頭の中でぼんやりとした考えを浮かべる。けれど最初はこのことを聞いてもいいのか迷いそうになった。どこまで深いことをつっこんでもいいのか、少女には解らなかったから。

けれど少女は彼らのことを知りたくて、今この席に座っている。だから駄目元でも聞くべきだとすぐに思い直した。

駄目なら駄目で、また別の情報が得られるかもしれない。消極的になってはいけないのだ。


「あの、彼女に何かあったんですか……?」

少女は、膝に置きっぱなしの汗で塗れた手をぎゅっと握って、主人に問いかける。

目の前に座る壮年の紳士は、少し惑うような視線を少女にぶつけたまま、しかし言いづらそうに口を閉ざしていた。

駄目なのだろうか。と少女は沈んだ気持ちになる。主人は、少女の様子を見ても、今しばらく噤んでいた。

やがて小さく小さく秘め事を漏らすように声を落とした。


「彼女は、不治の病にかかってしまったと聞いたよ」


主人の言葉を聞いた少女は、胸を鷲掴みにされたような衝撃が走った。

不治の病。治療法が見つかっていないような、絶対に治ることもない悪魔の病。

その病気が、命に別状がないのならとても運がいい方だったろう。

だが奥方の妹に襲い掛かった病魔が、もしも命を脅かすような危険な病気だったら?

入院していた頃、主治医は言っていた。100年前よりも現代医学は進化していて、治らないと思われていた病気も治るようになってきていると。けれど、それはあくまでも2000年の現代の話だ。

あの写真の日付が本当なら、この主人の「今」は1900年を指しているはずだ。

当時の技術力は、今よりもはるかに未熟だったはず。


絶望。その言葉しか浮かばなかっただろう。

それに罹ってしまった奥方の妹も、彼女を大好きだったこの人たちも。


脳内を少しずつ冒していくような不快な病室の匂いを想起して、少女は僅かに顔を下へと向けた。

不安でたまらなくなってしまう。奥方の妹は、どうなったのだろう?

彼の話の先を聞くのが無性に怖くなって、少女はこれ以上は何も言えなくなってしまった。

ふと、時刻を確認してみれば、時計の針はもう17時を過ぎていた。

主人との会談が始まってから、既に2時間も時が経っていたのかと、少女は時の速さに驚いた。

主人もその事には気がついたようで「……もうこんな時間か。すまない、長々と話をしてしまって。流石に数時間もおいぼれの話を聞くのは疲れたろう。君たちも休んだ方がいい」と、青年と少女に告げると、そのままメイドに視線を向けた。

メイドはぺこりと一礼をした後に持っていた杖を主人に差し出し、それを彼は受け取った。

終わってしまう。と少女は顔を上げる。

けれど、なんと言って引き留めればいいのかわからなかったから、主人が席を立つのを見送ることしか出来なかった。


階段へと向かっていた主人は、もう一度こちらへと振り返り、少女を見た。

赤色の瞳はこれまでで一番、鮮明に少女を捉えていた。

その瞳を満たしている彩が、死を目前にして見る幻影を眺めているかのようだった。

止めて、死なないで。

言葉もなく瞳に乗せて訴えるその願いが、伝わったのかは分からない。

ただ主人は首を横に振った後にあまりにも静かな声で、少女に笑いかけた。

心に染みるような微笑みだった。


「君はとても優しい人だ。君が持つ優しさを、どうか命を終えるその時まで忘れないでほしい」


それだけを言い終えると、主人はメイドと共に階段を上って行った。

少女は、その言葉を忘れないように、何回も何回も心の中で唱え直して、心に融かしていくように飲み込んだ。

席を立ち、隣を見る。席に座ったままの青年は、電車の時と同じように遠くを眺めているように見えた。

「おじさん」と声をかければ、青年ははっとした後に、少女の方へと顔を向けて取り繕った。

「はい、何でしょう。話も終わったことですし、部屋に戻りますか?」

急いで繋げたような言葉を紡いだ後、青年もまた椅子から立ち上がり、丁寧に椅子を元の位置へと戻していた。少女は「うん」といって、青年の顔を見つめる。青年の顔は少女を半分認めていたが、残りの半分は主人と同じような、二度と戻ってこないものを求める瞳をしていた。


青年のこの瞳を見る度に、思う。

青年は、どんな人生を歩んできたのだろう。

少女の知らないところで、どんな悲しみを背負ってきたのだろう。この家からどうして出ようと思ったのだろう。

きっと、何かあったのだ。少女の想像もつかないような出来事が。

けれど、それは青年が話してくれるまで待とうと、少女は強く心に留めた。

いつか必ず青年が話してくれると、少女は信じているから。

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