ぬくもり

身を寄せ合うように少女と青年は客室のベッドに腰掛けている。

時計の音だけがこつこつと響き渡り、それ以外の音など亡くなってしまったかのような静寂が二人の肌を刺していた。まるで真綿で首を絞められたかのように苦しい。客室に戻ってから、少女は青年にどんな言葉をかけようと散々悩み、声の一つも掛けられていなかったのだ。青年は、少女の隣に座ったまま何も言わず、何処か上の空だった。青年の表情は悲しみと悔恨に痛めたままだった。きっと先ほどのことを考えているのだろう。

主人の気持ちも痛いほどわかる。けれども、責められた方もたまらなく辛い。

息が詰まるような苦しさを吐きだすように「おじさんは悪くないよ」と、大きく、大きく息を吐くように言った。

やっと、少女は青年に言葉をかけることが出来た。

少女の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ずうっと青年は顔を俯かせたまま、苦い沈黙を貫いている。

その沈黙があまりにも息苦しくて、少女もまた唇を噛みしめて俯いた。

どうしたら、彼を悲しみから少しでも引き上げられるのだろうと、つたない頭で何回も何百回も頭の中で言葉を考えた。簡単には悲しみは消えないし、少女の言葉だけで、この惨状は何一つ解決などしないことは判っている。けど、それでもだ。自分の言葉で少しでも気持ちが楽になるのであればと、青年の心を軽く出来るのであればと、必死に唇を動かした。


「……お母さんを助けられなかったのは、おじさんのせいじゃないよ。だって、手摺が壊れちゃったって……誰も予想出来なかったと思う……。おじさんのお父さんも、助けてくれてありがとうって言ってた……。だから、おじさん、あんまり……ううん。ごめんね。無理だよね……」


言葉に迷いながら、少女は少女なりに青年を励まそうとした。けどようやく出てきたのが、こんな言葉。

さっき主人に声をかけた以上に酷いものだった。青年は悪くない。だって青年は少なくとも自分の父親の命を救ったのだ。それは、決して否定されていいことではない。そうはわかっていても、青年の瞳からは後悔が滲んでいくのがわかって。

少女の口から最後にぽつんと出たのは、小さな後悔だけだった。

ついに言葉をなくした少女は、青年の手袋の嵌められた大きな手に、自分の手を置くように重ねた。

少しでも、青年の苦しみを取り除きたいと思っていた。けれどそれも出来そうにない。どうして自分は何もできないのだろうと無力感に苛まれ、散々な流したはずの涙がまた零れそうになったその時、青年は少女に顔を向けた。


「10年前」

「貴女は俺に、どうしてお父さんとお母さんの傍にいなかったの。と言っていましたね」


少女は、その時のことを思い出す。

まだ、青年と出会ったばかりの頃だ。青年に対して心を許しきれていなかった少女は両親を失った悲しみを一番近かった青年にぶつけることが多かった。当時はまだ、やつ当たりという言葉もしらなかった。母親の年の離れた弟だという青年に、どうして傍にいなかったのかと、いたら両親は生きていたかもしれないのにと、身勝手な暴論をぶつけて悲しみを紛らわすことしか出来なかった日々のことだ。それでも、青年は根気強く病室に訪れた。ある日の病室で形見のアクセサリーを握り締めていた灯も、青年はやってきた。彼てお目も合わせようともしないで、見舞いにきてくれた彼にやり場のない感情を込めて「どうして、事故に遭った日にいなかったの!」と暴れるように言葉を浴びせた。少女の八つ当たりに、青年は何も言わなかった。けれど、ひとしきり少女が言い終えると、青年はそのまま優しく抱きしめてくれた。抱きしめられた時、両親のぬくもりを思い出して大きな声を出して泣いた記憶は、今も少女の中に刻み込まれている。


「何故、傍にいれなかったんでしょうね。貴女の両親が亡くなった報せを聞いた時、俺は心臓を握り潰されたような気持ちでした。毎日後悔する日々でしたよ。……いいえ、それは今もですね。目を閉じるたびに、どうして貴女たちの傍にいてやれなかったのだろうと、考えなかった日はありません。だからこそ、俺は貴女の元へと向かいました。もう二度と、貴女を悲しませないために、それが貴女の両親の願いでもありましたが……。貴女を悲しませたくないと願ったのは、俺自身の意志でもあります」


青年の言葉に、少女は言葉が詰まる。呼吸を奪われたような感覚に襲われた。


「貴女がお父様にあの言葉を言った時、少しだけ俺は救われた思いがしました。お母様を助けられなかった事、それは事実です。もっと別の方法があれば、お母様は階段から落ちずに済んだのかもしれません。俺にはその方法が浮かばず、お父様を落ちないように支えることしか出来ませんでした……。あの時、お父様に責められた時、お母様を助けられなかったのは、俺のせいだと、思ったんです」

「お父様も貴女に感謝していると思います。お父様は、普段は暴力をとても嫌う人でしたから。あの場で俺を殴ったら、お父様は後悔していたでしょう」

「ありがとうございます。…貴女も、随分と大きくなりましたね」


少女は、胸が満たされたような気持ちになった。

自分の言葉でも、青年の苦しみを和らげることが出来た。青年が少しでも気持ちが救われたのなら、それでいい。それだけで、少女は嬉しくなれる。小さく小さく息を吐いて、少女は微笑んだ。こんな状況でも、青年が隣にいてくれるだけで呼吸が出来る。青年がいてくれなかったら、今頃少女はとっくに潰れていたに違いないだろうから。

少女は目を閉じて、そのまま青年にゆったりと体を預けた。

「……前言撤回しましょうかね」

彼は冗談めいて呟くと、青年は少女の肩に手を回し、包みこむように体を寄せて、労わるように少女の頭を優しく撫でた。

冴え切った苦しい洋館の中で小さく灯る暖かいぬくもりを二人は分かち合って、緩やかに時間は過ぎ去っていく。



コンコン、とノックが聞こえたのは、それから数時間経った後のことだった。青年と少女は他愛のない話が出来るぐらいにはお互いの精神に多少の余裕ができ始めていた頃のことだった。青年が「どうぞ」とドアの先にいるだろう人物に言葉を告げると、こそこそとした様子でメイドが部屋に入ってきた。メイドの手には二つのパンが袋に包まれている。パンの美味しそうな匂いに、少女は多少の空腹感を覚えた。

パンを持ってきたメイドの表情はやつれて、疲れているのが見て取れた。それでもメイドは、二人ににこりと笑う。


「お昼時なので……お腹減ってないかなって思って。私たち昨日からご飯を食べていないでしょう?弟と一緒にパンを温め直して、今配っているんです。よかったら頂いてください。夜も食べやすいようなスープをご用意する予定なので、ご希望なら、こちらの部屋にもってきますね。あ、えっと。二人分でいいですか?」


少女、青年の順がパンを受け取ると、青年は「はい、こちらの部屋に持ってきてください」とメイドに指示をする。メイドはほっとした様子で「かしこまりました」と頭を下げる。メイドは少し黙った後、口元をぎゅっと一文字に結んだ後に、口を開いた。

「……夜の8時までにはぬるめのお風呂も準備しておくので、こちらもよかったらお使いください。あの…私が言える立場じゃないんですけど。気持ちを少しでもリラックスさせてくださいね。私たちには、それぐらいしか出来ることしかありません。けど、今出来ることを頑張ります。皆様を支えるのが、私たち使用人の務めですから!」

彼女は努めて明るい表情を二人に向けた。


メイドの明るい声に、少女は「はい、ありがとうございます」と頷いた。

それでは失礼いたしますね。と再び頭を下げた後メイドは部屋から出ようと扉のノブに手をかけた。少女はメイドをそのまま見送ろうとした。

けれど、と、少女は見送るのを思い留まる。

きっと、二人も辛いはずだ。

だって目の前で人が二人も死んだのだ。苦しいわけがない。それなのにこんな状態でも、執事とメイドは自分のやるべきことを見出して懸命に行動している。少女もやるべきことをしようと思った。昨日、青年と共に誓い合ったじゃないか。こんな悲劇を起こした張本人の背中を掴むために、屋敷に秘められている真実を知ると!

少女は立ち上がる。「あの!」と、大きな声でメイドを呼び止めた。


「ご主人様にお会いすることは出来ませんか……?」

メイドは、突然の少女の頼みにぱちぱちと目を瞬させるとすぐにうんうんと頷いた。

「丁度良かった!旦那様も改めてお礼をしたいと仰っていたんです。15時頃、ロビーに旦那様をお連れ致しますので、それまでお待ち頂けますか?あっ、その間にお体をタオルで軽く吹いておきますか……?」と、メイドは少女に首をかしげ、少女の返事を待った。


主人が?

少女は、何故?という単純な疑問が浮かんだ。

何かお礼を言われるようなことはしただろうか?杖に関してなら、あの時のお礼でもう十分過ぎるほどだと思っていた。

けれども、丁度いい。少女も聞きたいことがあったのだからと、少女は無理にでも気持ちを切り替えようとした。

現当主ということはきっと、この屋敷や家系について知っていることは多いはずだ。おそらく教えられないこともあるだろう。家に置いてもらえるとはいえども、何処までも行っても当主から見れば、少女は赤の他人だ。それでも今は少しでも情報が欲しかった。

少女は勢いのままに「は、はい、わかりました!いきます!」と思わずといった声でメイドの声に頷いた。後半の言葉であるタオルで身体を拭くということに肯定したと解釈したメイドは「それでは入浴場にご案内いたしますね」と微笑んだことで、少女は勢いで頷いたことを少しだけ後悔することになった。けれど今さら首を横に振ることなど出来ず、少女は一度、入浴場へと案内される運びとなった。

青年は「いってらっしゃい」と、少女に穏やかな瞳を向けて見送る。息を大きく吸った後、少女は大きく頷いた。

少女はメイドの発言で、そういえば食事どころか昨日からずっと風呂にすら入れていないことに、ようやく気がついた。



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