どうしようもなく。

「お母様は、子供たちのために、無理やりにでも前を向こうとしていました……もう少し休んでいってはどうかと、お父様も俺も提案したのですが……きっと娘も息子も不安だから、あの子たちの傍にいてあげたいと……それで、一階のロビーに向かおうとした矢先の事でした。階段を降りている最中に、お母様が掴んでいた部分の手摺が壊れてしまったのです。お母様を狙ったかのように、突然。バランスを崩して、お母様はそのまま……。俺は、お父様が落ちないように支えることで頭が一杯でした……」


青年は沈痛な表情のままで、事の顛末を語る。

奥方もまだ立ち直っていなかったのだろうと、少女は思う。

たったの数日では、愛おしい家族を失い、引き裂かれたような痛みが癒されるはずがない。

それでも、奥方は子供たちのために、無理をしてでも立ち直ったふりをして子供たちを守ることを選択したのだ。

それなのに。

その直後に命を落とすなんて、あまりにも救いがなさすぎる。


重い沈黙が、洋館内を支配していく。

奥方を抱きかかえたままの長男の顔は伺えない。長女のすすり泣く声が、洋館にしくしくと流れていく。少女もボロボロと涙を流していた。末娘の死と奥方の死は、今もなお現在進行形で少女の心に重く重く伸し掛かっている。心臓が張り裂けそうなほどに辛くてたまらない。

主人は青年の手を借りつつもどうにか階段から降り、奥方の傍に寄り添っていた。青年は、少し離れた場所に立っていた。目を閉じ、黙祷をささげているのが見える。

この場にはいろんな感情が渦巻いていた。失った悲しみと絶望、喪失感、何故こんなことが起きてしまったのかという怒りと不満が、洋館に涙と共に染み出していく。全員が全員、言葉の一つも出なければ、慰める余裕すらもない。

少女が泣いていると、ふと、手にぬくもりが伝っているのに気がついた。

青年が少女の小さな手を温めていたのだ。少女は、ゆっくりと青年へと顔を向ける。青年は一つも言葉を発さなかったが、必死に唇を噛みしめていた。苦しくて苦しくて、今にも泣きたくて、けど青年はどうにか泣かないように堪えていたことに気がついて、少女の悲しみはどんどんと心に広がっていった。


もう二度と経験したくなかったし、誰かに経験してほしくもなかった。

心臓を生きたまま抉りとられ、生きる希望を全てむしり取られたようなあの感覚を。

地獄を、今はこの一族が見せられている。あまりにも理不尽で、不条理だった。

どうして、不幸というものは突然何の前触れもなく襲ってくるのだろうと、少女は青年の手を強く握り返す。

手袋越しでも、青年の手は暖かくて、今はこのぬくもりだけが頼りだった。


しかし、そのぬくもりは「何故だ!」という声と共に引き裂かれた。


主人が、青年に掴みかかろうと、杖を投げ出して襲い掛かろうとしたからだ。

少女は驚いて「お兄さん」と青年と主人の間に入るように身体を入り込ませ、青年を庇う。

最低限、どうにか主人が掴みかかるのを阻止したが、主人は今にも青年を殴り飛ばしそうな勢いだった。主人の異変に気がついたメイドが「いけません、旦那様!」と、執事と共にすぐに駆け寄り、主人を取り押さえることで、最悪の事態は防ぐことは出来た。

けれど取り押さえられても、主人は怒りと絶望の感情が入り交じった、打ちひしがれたような表情で青年を睨みつけている。

もしも今の状態で解放したら、青年を傷つけようとすることを確信出来るほどには、怒り狂っていた。

壮年のしわの増えた瞳からは、涙を流していた。その瞳にはもはや凶悪過ぎるほどの暴力的な感情しか映っていなかった。

彼は叫ぶ。彼の形相に、屋敷にいる全員が驚いていた。


「何故、妻を助けなかった!お前は何故妻を見捨てた!お前は、私のようなおいぼれを階段から落ちないように支えることよりも、心優しい妻に手を伸ばすべきだったんだ……!何故、何故、何故!!!ふざけるな…何故、妻が...死ななければいけなかったんだ。どうして、私の愛しい人たちが、立て続けに死ななければいけない。何故。お前は……私を助けたんだ……。どうして、私を落としてくれなかった…妻を…妻は、ずっと私を支えてくれていたパートナーだった……。私は……っ!」


床をガンガンと拳で叩き、次第にその叩く力も弱くなっていき、目から零れ落ちるように涙を流したままで、青年を刺し続ける。

憎悪、絶望、悲しみ、怒り。

感情がぐちゃぐちゃにぶつかりあったような怨嗟を、全て全て一直線に、少女を通り抜けて背後の青年にぶつけている。

あろうことか自分を支えてくれた人に、だ。

青年は、主人の言葉には返せなかった。彼の方を向けば、彼の瞳にはいいようのない苦悩が滲んでいるのがわかる。

青年の前に立つ少女は、主人の顔を見つめる。主人の視線をガチリとかち合って、思わず身震いしそうになる。

それほどの気迫が漏れ出ているのだ。


主人の物言いは、はっきりいってしまえば八つ当たりそのものだ。


けど、少女には主人の気持ちが、痛いほどに理解出来た。

だって、自分の両親が亡くなった時も、納得なんて簡単に出来なかったから。

どうして、大切な人が死ななければいけなくなったのか、自分たちは何も悪い事などしていないのに。皆が過ごしているような当たり前の日常を、どうして過ごすこともこの世は許してくれないのかと。何故、どうしてと。前に進むことが出来ず、両親がいなくなってしまった事実に嘆き、呪い、憎しみにも似た感情を募らせていた。毎日「お父さんとお母さんのところに行きたい」と、呪文のように繰り返しては、青年が頭を撫でたり、子守唄を歌ったりして優しく引き留めてくれた記憶が、少女の脳裏をよぎる。少女は、今すぐに前を向けなんて甘い言葉は言えなかった。けど、見過ごすわけにもいかない。この状況から目を逸らしていたら、主人も青年もボロボロになってしまうから。


これ以上、この人たちが悲しみにおぼれていく姿を見たくないと、少女は気がつけば大きな声で叫んでいた。


「お兄さんは、あなたが落ちないように必死だったんだと思います!だから、やめて。やめてください。大好きな人を傷つけたりしないで……。傷つけたら、すごく、後悔すると思うから……」


あまりにも陳腐な言葉だ。

その陳腐な文字列を、少女は心の底から主人に言い切った。

こんなことを言われても、はい、そうですかと頷く人はいないだろう。少なくとも、両親を失ったばかりのあの日の少女だったら不可能だ。

何回、病室のベッドで両親をひき殺した人物を恨んだことかわからない。両親を車で轢いた人物は毎日のように心の底からの謝罪し病室へと訪れてくれたが、それでも、納得なんて出来なかった。家族を殺した悪魔だと、口汚く罵ったことすらあった。

愛おしい家族を失った悲しみは深く、今も少女の心を蝕んでいる。

もしも、一人で生きていたら、今のように明るく振舞えなかっただろう。

怨みと憎悪に駆られ、想像も出来ないような恐ろしい事をしたかもしれない。いや、そもそも病魔に勝つことが出来ずもっともっと早くに亡くなっていたかもしれない。その怨みや怒りを徐々に融かしてくれたのが、生きる希望を、毎日与え続けてくれたのが背後にいる青年だったのだ。少女にとっての青年は、頼れる兄であり、そして灯のような人だった。そう確信できるほど、青年の存在は大きい。

だから、判り切ったことだと恨まれても、言わなければいけなかった。青年を守るために。

悲しみで気が狂いそうになっていた幼い少女がそうであったように、主人にとっては、こんな言葉は救いにもならないだろう。

少女は主人に叫んだ。まるで、かつての過去に言い聞かせるように。


主人は、少女の言葉を聞いて、しわくちゃに顔を歪めて項垂れた。

メイドと執事も、とても悲しそうな表情をして、主人と青年を見つめている。メイドは、何か言いたげな顔で口をパクパクさせていたが、声が出ないようだった。長女も、少女の声を聞いたからなのか、奥方の遺体から目を離しこちらを涙を流したままで見つめていた。


「うん、そうだね。その通りだよ」

少女の言葉にさらに続けるような声が聞こえた。重苦しい空気の色がほんの少し変わる。まさかの援護射撃に、少女が驚いてそちらを見やる。奥方を抱きかかえた長男がそう呟いていた。青年も、彼の方を見つめている。長男は奥方の遺体を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がる。長男の表情は沈痛な表情のままだった。

けれど、その瞳には僅かな怒りが感じられたのは、少女の気のせいだろうか?

少女の目線にも振り向くことなく、長男は口を開いた。


「彼を傷つけても、誰も喜ばない。むしろ悲しみが生まれるだけ。お父様。……誰も救われなくなってしまうよ」


そう語る長男の声は、どうしようもない絶望感が色濃く現れている。長男の腕で穏やかに眠る奥方だけが、もしかしたらこの洋館内で一番安らかであったかもしれないほ思うほどに、この洋館内にはあまりにも悲しみの底に落とされていて、少女は押し潰されそうになった。

「判っている」と、その言葉を強く遮るような声で零したのは主人だった。

「判っているんだ。言われなくても、そんなことは……。息子にあたるなんて、父親としては失格だ……。すまない、取り乱してしまって。私は、少し休むことにするよ……。すまない、君たち、どちらかでいい。私を部屋に連れて行ってはくれないかな……」

執事とメイドの二名に告げると、メイドが慌てて頷いた。

「わ、判りました!ではわたしが!あ、あれ?!杖は何処に」

メイドは杖を探そうときょろきょろとあたりを見渡すが、見つからないようでさらに「あれ?!」と今にも泣き出しそうになっていた。

その焦っているメイドより先に気がついた少女が、少し離れたところにある杖の傍に行き、その杖を手に取る。

冷たく冴え切った黒い杖だ。杖を持つ少女の手はじっとりと冷えていった。

「あの、この杖、ですよね」不安になりながらも少女は主人に杖を渡した。主人は自分の杖であることを確認し、杖を受け取ると「ありがとう」と、少女に向けて頭を下げた。青年とよく似た赤色の瞳には後悔の念が強く浮かび、溢れ出してしまいそうだった。青年は「お父様」と、声をかけて、それ以上は紡げなかった。青年の様子を見た主人は僅かに目を細めた。

「すまない。つらく当たってしまって。……ありがとう。君が支えてくれなければ、私も妻と共に私も一緒に階段から落ちていただろう。君たちも疲れただろう。ゆっくりと休みなさい」

最後の言葉は、この屋敷にいる全員に向けられていた。

主人はメイドに連れられて、奥方が落ちた階段の反対側、手摺の壊れていない右側の階段を用いて二階へと上がっていくのを、少女は見送ることしか出来なかった。もちろん、青年も。長男も長女も、親の背中をじいっと見つめていた。

主人が部屋に入った後、長男は「僕もお母様を一旦部屋に運ぶよ。こんな地べたで寝かせるわけにはいかない」と、もう目を覚まさない奥方を抱え、共に階段へと向かう。執事が「私も手伝います」と長男に声をかければ、彼はゆったりと首を横に振ると「いいや、君も部屋に戻って休んだ方がいい。ご飯も食べていないでしょう?今日はもう、何もしなくても大丈夫だから。君の姉さんにも伝えてもらえるかな」とだけ告げ、執事を置いてそのまま階段を上っていった。長女も、ふらつきながらも立ち上がる。長女の瞳は真っ暗だった。少女と青年を一瞥すると、この場にいるのが耐えきれないかのように長男の後を追った。

後には、少女と青年がロビーに残される。少女は、青年に向けて「休もう」とだけ言うと、青年も僅かに頷いた。その様子を見た執事は疲れた様子のままで、「お二人方も、何かありましたら、お申し付けください」と二人に向けてつぶやいた。あの場で長男に長男が縋っている声とよく似ていた。少女は「けど」と言いよどむと、執事は「お願いします。仕事をしていないと...…今この現実に耐えられなさそうなのです」と、懇願にも似た悲痛な声で俯いた。少女は「判りました、何かあったらお願いしますね」と告げると、執事は礼をして、テーブルに並べられたパンを片付けていった。テーブルの上に朝食だったろうパンがあることに、少女は今頃気がついた。そう言えば、昨日から一つも食べるものを口にしていなかった。けれど今は何も食べる気にもならない。

少女はそのまま青年と共に客室へと戻る。

広い広いロビーには、誰もいなくなっていた。

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