また一人
夢を見た。
両親が居なくなったあの日の夢を。
暗い病室で幼い少女はずっとふさぎ込んでいた。
主治医にも仲良しの看護婦とも会うのを拒絶して、孤独に身を寄せていた。このまま一人で過ごしていたら、両親に会えるとさえ思っていた。
そんな自殺願望を持つ少女がいる病室の扉を、誰かがそっと開いた。
扉から零れる光が太陽のようで、少女は思わず目が眩んだ。
光と共に現れたのは、眼鏡をかけた男性の姿だった。
少女は彼を全く見たことがなかったから、知らない人が来たのかと怯えて、布団を被って拒絶の意志を見せた。
彼は部屋にあるパイプ椅子を適当に持ってきて、少女が籠るベッドの傍に椅子を置き、腰を下ろした。
「かえって」
少女は強く拒んだ。
「いいえ、傍にいます」
布団越しから、そんな声が聞こえた。
「あなたはだれなの?」
少女は布団を被りながら、知らない誰かに訊ねた。
「俺は、貴女の叔父です。貴女の両親からの願いで、貴女のところへと戻ってきました。手紙もちゃんとあります」
「どうか顔を見せてはいただけませんか?これからは、俺が貴女を守ります」
その言葉で、初めて少女は布団から僅かに顔を出した。
布団から零れる光が、陽だまりによく似ていた。
「お、おはようございまーす」
こそこそと話すような声量で、少女は再び客室で目を覚ます。
昔の夢だ。青年と出会った頃の夢。あまりにも懐かしい。こんな状況で見るだなんて、随分疲れているのだろう。
少女は、その夢を瞼の裏におぼろげに見つつ、ゆっくり、ゆっくりと半分その瞳を開けた。
半開きの少女の目の前には、黒髪の男性がこちらを心配そうに顔をのぞかせていた。青年と同じ顔立ちをした男性だ。
夢のこともあり、寝ぼけていた少女は「おじさん、おはよう」と、なんの気兼ねなく話しかけてしまった。
一瞬の沈黙がその場を支配する。今何か、間違えたことを言ってしまっただろうか?目の前にいるのは青年のはず...と、ぼやけた瞳で目の前の男性を眺めていると、すぐに覚醒するはめになった。
「え……お、おじさん?僕、老けて見える?まだ成人してないのに?!」
そんな嘆くような声を聞いて、少女はやっと目の前の男性が青年ではなく、長男であることに気がついたからだ。
少女は顔を青ざめて両手を上げる。
「あ、ああー!ご、ごめんなさいっ、おはようございます。お兄さんと間違えちゃって」
そう慌てて口走りながら急いでベッドから起き上がる。
「そっか...ごめんね、そろそろ朝食の時間だから、起こしに来たんだ」
彼は頬を掻きながら少し困ったように答える。見れば見るほど、青年と長男は瓜二つだ。黒い髪も、紅い瞳も、美しい顔立ちも、声すらも……。まるで鏡に映したかのよう。少女の10年間の青年との時間があるからすぐに見分けることが出来たが、知らない人が見たら、どちらかが青年か長男だなんてわからないだろう。
青年よりも柔和な印象を受ける長男は、この家の次期当主であると末娘は言っていた。
現当主であると思われる主人のような風格と威厳は感じられないが、穏やかな親しみやすさがある。現代生まれであり、一般家庭で育ってきた少女にとって、当主という言葉はあまり馴染みがなかったから、どれだけ当主の仕事が大変なのかは全く想像がつかない。
けれど、今の長男の顔は罰の悪そうな顔をしていた。昨日、あんなことがあったのだ。無理もない。
彼の瞳も充血しているし、隈まで出来ている。きっとよく眠れなかったのだろうと、少女は胸が痛くなった。
少女は何と声をかけようかと迷う。それは本当に言葉が見つからないからでもあったし、同時に、あの汚泥のような瞳が忘れられなかったからだった。長女は疲れているだけと言っていたが、瞳に込められた感情は疲弊とはまた別のものが映っていた気がした。少なくとも、よくないものが。
例えるなら黒いクレヨンで塗りつぶした絵に、全く別の紅い塗料を滲ませたかのようで。少女は感覚を思い出すだけで身をすくませてしまう。
少女が、どんな言葉を出そうと思考を巡らせていると、長男は心配そうに眉を下げて、熱を測るように少女の額に大きな手を当てた。
「ひゃう?」と少女は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。長男は少女の様子を見て、あ、と声を上げた。
「あ、ああ!ごめんなさい。紳士的ではないことはわかっているんだ。熱がないかが、心配でね。君はずっと入院生活をしていたと聞いたから、こんな状況になってしまっただろう?。もしかしたら、ストレスで具合が悪くなっているのかと思って……。けど、ないようならよかった。動けるかい?」
そう微笑むと、長男は少女に手を差し伸べた。あまりに優雅で美しい所作に圧倒され、少女は別の意味で身体がガチガチに緊張してしまうが、手を取らないのも失礼と思う。迷いに迷った末に、少女はこわばった腕を伸ばし、長男の手を取り立ち上がった。
普段は青年とばかり手を繋いでいるから、少しだけむず痒い。
「あの、お兄さんは何処にいますか?」と少女は聞いてみる。長男は僅かばかりの時間の後に「今は、二階にいるよ。今日、彼は朝早くから起きたみたいでね。……君のことは、時間まで寝かせてあげてほしいと頼まれたんだよ。お父様は足が悪く、階段の上り下りが一人では難しくて...彼がお父様の補助に向かったんだ」と答えた。少女は「そうですか」としか言いようがなく、そのまま黙り込んでしまう。主人や奥方は勿論だが、長女も大丈夫だろうか?執事だってメイドだって、きっと悲しみの中にいる。
自分を心配してくれて来てくれた長男も、ここにはいない青年も全員が苦しいはずだ。
なんて言葉を言えばいいのか、少女は判らない。
二人とも口を開かないまま、部屋から出ることもなく、時間が過ぎる。ぼんやりと時間を確認してみれば、7時半を過ぎていた。
「……ごめんね、巻き込んでしまって」と、先に口を開いたのは長男だった。少女は目を見開いて彼の顔を見る。青年と同じ顔をして、苦しそうな表情で続けた。
「君と彼がどうしてここに訪れたのかは分からないけど。この事件は、僕たち家族の問題なのに……君にもストレスを与えてしまった……」
少女は、青年の言葉に首を横に振り、伝わりやすい表現を出来る限り選び、自分の思ったことをそのままに伝える。「ううん。平気です。わたしもあの子が亡くなった理由を知りたいから。どうして、天に召されなければいけなかったのか。あの、ごめんなさい。部外者なのはわかってるんです、けど、わたし……」必死に唇を動かして、言葉をひねり出す。少女はただただ純粋に、思いの丈を長男にぶつける。
長男は、少女の言葉を全て聞き終えると、口元を緩ませた。
「僕は、君に感謝しているんだ。あの子は、本当に君と過ごせて嬉しそうだった。夕餉の時間の様子を見てそう思ったんだ。だから、次期当主としてではなく、あの子の兄として僕からも礼を言いたかった。ありがとう、最期まであの子と仲良くしてくれて。それと、昨日は睨んでしまってごめんね。……今日はね、本当は君をメイドが呼びにいこうとしてたんだ。けど、どうしてもこれだけは言いたくて……君を呼びに行く役目をメイドと代わらせてもらったんだ」
まさか、礼を言われるなんて思わなかった。何か嫌われるようなことをしたかと思ったのに。
少女は、思わず涙を滲ませた。けど、こんなところで泣くわけにはいかないと、必死に涙をこらえる。
長男は、淡く淡く、どこか堪えたような微笑みを少女に向けた。
少女は「わざわざ言いに来てくれて、ありがとうございます」といっぱいの笑顔を向ける。長男もまた、少し困ったようにふふ、と笑い返した。
いつまでも、部屋でもたつくわけにはいかない。このままで8時になってしまう。皆のところへ向かわなければ、と、気持ちを無理やりにもでもまとめた。すう、と一つ深呼吸して、少女が扉を開けようと扉の取っ手に掛けた。
その時だった。
脳天を叩くような鈍い音が響いた。
まるで何か大きなものが落ちたかのような音に、少女の心は大きく跳ねる。
一体何が起きているのだろう。末娘の時と同じような不気味な焦燥感を全身を貫いていき、その焦りは冷や汗へと変わって外へと流れていく。
少女が扉を開ける前に、長男が大きな音を立てて扉を開けて廊下を走っていく。少女もすぐに彼の背を追いかけた。
信じがたい光景が、少女の視界に飛び込んできた。
ロビーが昨日よりもやけに広く見えたのは、今は屋敷にいる全員が階段の周辺へと集まっているからだろうか。
長い長い階段の上には、主人と青年がいた。青年は階段から落ちないように主人を支えているようだったが、主人はある一点を見つめたまま、絶望に染まり切った顔のまま硬直している。壊れて欠けてしまった手摺と、階段の下に転がっている杖が、この場で起きた混乱を的確に表している。執事とメイドもまた、青ざめた顔をして立ちつくしている。
主人の視線を追うように、少女もまた目を動かす。ゆっくりと、逃げ場を無くすように。ぎゅ、と己のこぶしを握り締めたまま。
目線の先には長男に抱えられ、青白い顔のままで頭から血を流す一人の女性が倒れていた。しかし、それだけではない。階段に設置していただろう手摺が、女性の心臓を潰し、体を貫いている。誰がどう見ても、生気があるようには見えない。
その女性に少女は見覚えがあった。いや、見覚えがないはずがない。だって、少なくとも一日と数時間は同じ空間で時を過ごしたのだから。昨日は確かに、今にも消えてしまいそうな雰囲気があった。けれど、こんな出来過ぎたことが起きるわけがない。
どうして、彼女まで、こんなひどい目に遭わないといけなかった?
あまりの惨状に、目の前の無惨な現実に、少女は身体を抉られたような衝撃に目が眩みそうになる。
洋館に強く響く、長女の慟哭。彼女の悲鳴にも似たその声は、その場にいるすべてに現実を直視させるのに十分だった。
現実から逃避することを許さないような絶叫が、少女の耳を叩く。
「お母様!お母様!!目を覚まして!どうして……そんな」
何回も体を揺らす長女の様子を見た長男は、今にも泣きだきそうなほどに顔を歪め、長女の細い腕を優しく重ねる様に制した。
長女は、涙を流したまま長男に顔を向ける。
「嘘、嘘よね!ねえ!お兄様!兄さんも!お母様は治療をすれば目を覚ますわよね?そうよね?大丈夫だって、言ってよ。言ってよぉ……」
悲痛な声だった。今にも壊れてしまいそうなほどに細い。その悲しみが少女の心に嫌でも伝わってきて、胸が苦しくなった。
長男と階段の上にいる青年に縋るような声で訴え続ける長女の瞳には、涙がたまっていた。きっと本当は長女もわかっているのだろう。けど、それでも。受け入れることが出来なくて、兄二人に必死に抗議している。
長女の嘆きを聞き入れた長男は、しかし諦めたかのように。
静かに、首を横に振った。
「もう、お母様は亡くなってしまった……。死んでしまった。死んだんだよ……。ごめん、ごめんっ……」
長男は弱々しく震えた声で、何回も何回も謝罪の言葉を口にしながら
あまりに残酷な真実を、確かに言い切った。
泣き止まぬ嘆きに、洋館の全員がその場に立ちつくす。
もはや何も映すことはない奥方の黒ずんだエメラルドの瞳は、濁った洋館をぼんやりと映し出している。
亡くなったはずの奥方の表情は、憑き物が落ちたかのような穏やかさを灯したままだった。
この地獄から、一足先に抜け出せることが出来て安心できたかのように。
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