異変 3

お部屋を見てもいいですか。そう長女に聞くと、そのために連れてきたのよ。と微笑んで快諾してくれた。

机や椅子、クローゼット、ベッド、本棚……少女は丁寧に、目に焼き付けるように眺める。

末娘がここで生きていたことを、忘れないために。

ボトルシップやガラス玉が並べられた、彼女が集めていただろうものが置かれている机。

お気に入りの服をお互いに交換した服が、綺麗にしまってあるクローゼット。

ふわふわのぬいぐるみたちが眠っているベッド。

絵本から少し難しい内容の本まで、勉強熱心であったのだろうと想像できる本棚。

会ってから一日しか経っていないのに、既に懐かしい気持ちになってしまう。


少女は、末娘のことを何も知らない。これから一生、末娘の口から語られることもないだろう。

彼女はもう、何処にもいなくなってしまったのだから。

それでも、彼女が見せてくれた笑顔を、絶対に覚えていようと心に刻み込んだ。

この屋敷から出れるようになったら、末娘の宝物と一緒に、宝物を通して末娘と共に遊びに行くんだ__。


ふと、少女は、机の上に置かれていた、額縁に飾られたモノクロ写真を手に取る。

それは、家族写真だった。

満天の笑顔で笑う末娘が、今にもこのモノクロの世界から飛び出してしまいそうなほどに輝いていて、少女はふ、と思わず微笑んでしまう。

姿は出会った時と変わっていないから、そこまで昔に取られた写真でもないようだ。

主人や奥方は勿論、彼らの子供たちも笑顔で、誰もが幸せそうに映っている。ただし、青年の姿はなかった。

けれど、少女はその写真を見て首を傾げた。家族写真にはこの屋敷にいる家族以外に、もう一人映っているからだ。

奥方の隣で淑やかに笑む、ウェーブロングの聡明な印象を抱く美しい少女。彼女だけが、この家に伝わるアクセサリーをつけていなかった。温かな陽を与えてくれるような穏やかなまなざしに、少女は思わず呼吸を忘れた。

少なくともこの屋敷に訪れてからは、少女はこの美女を一度も見かけたことはない。

彼女は何処にいったのだろう?たまたまこの屋敷にいないだけなのだろうか?

けど、少女は、額の中で生きている末娘の笑顔を見て、この写真を連れて行こうと決めた。

だって、少女は末娘の笑顔が大好きで、末娘は笑顔が一番似合うと思っていたから。


「あの、この写真を持って行ってもいいですか?」と少女は長女に振り向き歩み寄り、額の中に収められた写真を見せる。すると長女は「ええ、勿論よ……きっと妹も喜ぶわ」と、口元を緩めた。少女は額縁を壊さないよう、白黒に映る家族写真を抜き取った。

その時、はじめて少女は写真の裏を見ることになる。


写真の裏に、筆記体で何か書かれていることに気がついた。


その言葉を見た瞬間に、少女の息は詰まる。

頭の中がまた疑問一色に塗りつぶされ、思わず「え?」と言葉を零してしまう。

読み間違いじゃないだろうかと何回も読み返すが、額縁に書かれた文字は永遠に変わることはない。

その額縁の裏には、日付が明記されていた。おそらく、末娘が書いたのだろう文字で。

けれど__そんなことはありえないのだ。

だって、今が2000年だから。

この家族も、自分と同じ時代に生きているはずだ。

それなのに。


『1889年 4/21 愛しい人たちと共に』


どうして、約100年前の日付が書かれているのだろう?


いや、それ自体は全くおかしい事ではない。

100年前の写真が今でも残っていることは至って当たり前のことだ。少女の家にだって、100年前に撮られた風景写真が額に飾られている。写真というものは、燃やされたりしない限りはいつまでもそこに有り続ける。うつされた景色と共に、四角の枠に閉じ込めることで、存在を証明してきた。だから、問題はそこではないのだ。

問題なのは、何故、少女の"よく知る姿"で、この家族が映っているのか、ということだ。もしもこの写真が偽造などでなければ、とっくにこの家族は老後を迎えているはずだ。一番幼い末娘だって、もう老婆になっていてもおかしくない。なのに、どうして__。


これでは、まるで時間が止まっているみたいじゃないか!


「あの。今って、何年でしたっけ?」

出来る限り普段通りで聞こうと思っていたのだが、口から出てきたのはどうにか絞り出したような震えた声だった。失礼だと思っても、長女に顔を向けることが出来なかった。ガタガタと震えをどうにか抑えるのに必死で、今の少女にそんな心の余裕はない。答えてくれるだろう親切な長女の返答に、少女は心から怯えた。それでも、それでもだ。聞くしかなかった。聞かなければ後悔すると、煩くなり続ける心臓が告げている。

長女はさも当然のことを言っていると言いたげな口ぶりで、少女が最も恐れていた言葉を紡いだ。

「今は1900年よ。それがどうかしたの?」

写真の長女と寸分違わぬ姿で、長女は懐かしむように目を細める。「その写真はね、一年前に自宅で撮ったものなの。あの子の提案でね、お写真を撮りましょうって……。誰が撮るのかって、散々話し合ったのを覚えているわ。だって、誰か一人は映らないのだもの。家族と、遊びに来ていたお母様の妹と一緒に撮ったのよ。ほら、この綺麗な人がね、お母様の__」と、長女は写真の中の奥方の隣で微笑むウェーブロングの美女を、写真をひっかかないように指の腹で撫でながら、優しく少女に説明してくれていたのだが、少女はその言葉を半分は聞き逃していた。自分の時間感覚が狂ってしまったのかと思うほどに、長女の口調には少しも淀みがなく、純粋で、芯が通っていた。それが真実であると、常識のものだと全く疑っていなかった。


「今は、2000年ですよ……?」


反射的に。本能的に。目の前の奇妙さから目を逸らすように。

乾ききった唇は、勝手に動いていた。

少女の唇から紡がれたその言葉は、エメラルドの瞳は驚愕に目を見開かせるのには十分だった。長女は、少女の瞳をじっと見つめる。しばらくすると、首を小さく横に振った。最初は信じられないと、疑惑の意志を込めた仕草だと思っていたのだが、次に少女を見る表情は、静かな波のような穏やかさと強い諦観が混ざり合っていた。少女は驚いたと同時に、長女のその表情に何も言えなくなってしまった。長女は、何を考えて、どんなことを言おうとしているのだろう。

長女の低めのアルトの声が、小さく小さく部屋に響く。沈んだ声から聞こえる心に、少女は心は揺らぐ。

内に秘めた絶叫にも似た感情を、無理やりにひとつの文字列にまとめて投げるようなちぐはぐさで、長女は少女に問いかける。


「貴女は、未来から来たの?……もしもそうなら、貴女は……私たちがこれからどうなるか、知っている?」


少女は、その言葉にどうこたえればいいのか迷った。

いくつもいくつも喉まで這いあがった綺麗な言葉が、口の中で全て融けて消えていく。

このまま答えないのは失礼だとも思う。けど、嘘をつくにはあまりにお互いに疲れている。少女は、この家族について何も知らない。これから何が起こるかなんてわからない。未来のことは誰にも分らないのだ。

少女は長女に嘘をつきたくなかった。だからこそ、少女はここでは正直に自身が思ったことをそのまま話すべきだと、思った。


「わかりません。けど……きっと、いい方向に向かうって信じています」

少女は確かな声で話した。長女はひとつ目を瞬きしたあとに、疲れた笑みを浮かべる。

「そうよね。……きっと、今よりも悪い事なんて、起こらないわよね」

そう絞り出すように長女は呟くと、少女をぎゅっと抱きしめた。先ほどの包むような抱擁ではなく、寄りかかるような力のないハグに、少女は唇を噛みしめる。少女は、ぎゅう、と長女を受け止めて、しばらく二人で時間を分かち合っていた。少女の手の中にある写真の中で笑う末娘の笑顔が、向日葵のように煌めいていた。


二人が末娘の部屋から出ると、同時に奥にある扉から青年が出てきたのが見えた。少女ははっとして「お兄さん!」と、長女と共に青年の傍へと駆け寄り声をかけた。青年がいただろう扉の奥の部屋を確認すると、奥方がベッドに腰掛けて俯いているのが見える。他の存在など認識していない空っぽの瞳が、ただただ無為に虚空を眺めていた。まるで壊れた人形のような奥方の様子に、少女は胸が苦しくなる。青年が音を立てないようにして扉を閉めてしまったから、奥方の表情は全く見えなくなってしまった。青年はそのまま扉から離れると、階段付近まで歩き始めた。少女たちも、青年の背についていく。奥方がいる部屋から離れた位置で、青年は告げる。「……落ち着くまではそっとしておいてほしいと……お二人も出来る限りの配慮をお願いします」

その言葉に、二人は頷くしかない。奥方は、自分の愛しい子を失ってしまったのだ。

両親を失った経験のある少女ですら、それがどれほど辛くて苦しいのか、計り知ることは出来ない。長女は自分の部屋を見ると「ああ、私もそろそろお部屋に戻るわね……ありがとう。付き合ってもらって……じゃあ、またね」と、少女に小さく微笑み、そのまま部屋と戻っていった。ぱたん、と閉める音を最後に、長女の姿もまた消えてしまう。

少女は、あの長女の言葉の意味を知りたくて口を開こうとしたが、何も言葉が出ることはなく、出るのはため息ばかりだ。

階段前で、少女は力なくうなだれた。

長女を見送った後、少女は青年に「おじ…お兄さん、さっき…一階の廊下の奥に行ったけど、何か気になることでもあったの?」と、これまで引っかかっていた疑問をぶつけた。青年はしばらく悩んだ様子だったが「一旦客室に戻りましょう」とだけ告げる。少女はそれに頷くと、一回にある客室へと二人で戻ることになった。


客室に戻ると、少女はベッドの上に座り、手に収まる写真をずっと眺めていた。

長女の疲れたような表情と、奥方の何も映らない瞳が目に焼き付いていて離れない。

この笑顔で微笑む写真だけが、変わらず穏やかなままなだけだった。

扉を完全に閉めたことを確認すると、青年は少女の隣に座り口を開く。

「……裏口の扉の記憶を見ていました。玄関の扉の記憶は、朝早くから確認していたんですよ。何か分かるかと思いまして」

ああ、そうだと。少女は今更ながらに思い出す。

昨日の夕餉の時間の後、青年は言っていた。手で触れた物の記憶を見ることが出来る、と。青年はその能力を使い、屋敷を閉じ込めた原因を突き止めようとしていたのだろう。それについては何も言わず少女は青年の言葉の続きを促した。

青年は、少女の瞳をじっと見た後に、ひとつ頷いて言葉を続ける。どうしようもなくなった悲しみをにじませたまま。


「玄関の扉は……昨日の深夜に誰かが鍵穴を取り換えたことは判りました、……真っ暗だったので、それ以上のことは分かりません。そして、鍵を付け替えた人物はこの家に伝わるアクセサリーを身に着けていました。……ですから。おそらくは」



言葉を言い終える頃には、青年の声も力がなくなっていた。

青年が悲しみに揺れる瞳をしている理由を、少女は理解する。

青年が考える中での最悪の想定が、己の手で真であることを証明してしまったのだ。この屋敷に誰か、自分と少女以外の誰かが隠れ潜み、今も屋敷で暮らす者たちを眺めている可能性であることを願うが、どうしてもその考えも捨てるわけにはいかなかった。

真実に辿り着きたくもなかったかもしれない、いや、辿り着きたくなかったはずだ。

けれども知らなければいけなかった。それがこの屋敷のいる全員のためにもなるのだから。

けど、記憶を見て改めてそれが的中したことを知って、落胆していた。

ああ、と少女は小さく息を漏らしてしまう。そんなことがあるのだろうか?

どのような理由であれ。

この屋敷で暮らしている住人の誰かが、鍵を取り換えた可能性が高いということになってしまうじゃないか、と。


「そして」と青年はさらに口を開く。

少女は、その言葉を聞き逃さないようにと、しゃんと姿勢を改める。悲しみを押し殺して自分を末娘が生きていた場所へと連れて行ってくれた長女のように。しかし、気張る少女とは反対に、青年は迷子になった子供のような瞳をしていた。少女はその様子に首をかしげてしまう。先ほどよりも、何か言いにくいことなのだろうか?少女は急かさず、青年の言葉をただただ待った。

青年が喋ったのは、それから数分後のことだった。

たかだか120秒しかたっていないというのに、少女にはやけに長く感じられた。


「裏口の扉は……壊されたところまで記憶をさかのぼりましたが、やはり扉の鍵を壊したために開けられないことがわかりました。本当に最悪の想定といいますか……壊した人物も、この家に伝わるアクセサリーを所持していました。こちらは犯人の検討がついているのです」


「だれなの……?」

少女は問う。どことなく、焦りを滲ませて。

青年は、迷子のような目つきのままで、少女を認めたまま唇を震わせる。


「”ここには戻ってきてはいけないのよ”という、末の妹の声が聞こえました。今朝亡くなったはずの、妹が。その後に、彼女が鍵を破壊したところで、体力の限界が来たので一度中止しました。おそらく、数年前。いえ、もしかしたらもっと前かもしれません、信じられないと思います。俺も信じられませんから。裏口の鍵を破壊したのはおそらく彼女です。ですが、言葉の意味も、目的も、どのタイミングで破壊したのかも、俺には推し量ることが出来ません」


いったい、どういうことなのか。と、青年が零す言葉と少女の思考は同時だった。

末娘が、裏口の扉を破壊した?

そんなことはありえない。だって、あの子がそんな、家族を傷つけるなんてことするわけがない。けれど少女は末娘のことを何一つ知らないのだ。少女が知っているのは、底抜けに明るく、向日葵のような少女だったということだけだ。だから__もしも、もしもだ。本当に青年の言う通りであるのなら、きっと何か理由があるのだろうと、少女はそう考えていた。

根拠なんてものはない、都合のいい妄想かもしれない。それでも、末娘のことを信じたいと思った。


「きっと……あの子、伝えたいことがあったんだと思う。あのねおじさん。わたし、思うんだ。きっと…あの子が亡くなった理由も、わたしたちを閉じ込めた理由も……おんなじところからきてるんじゃないか天って。だから、おじさん。わたし、この屋敷についてもっと知りたい。おじさんと一緒なら、大丈夫なんだと思うの」


少女の強い意志が、青年に届いたのだろうか。青年はふっと笑う。

青年は少女の頭をぽす、とゆっくり、ゆっくりと撫でた。少女はまた子ども扱いされたと、頬をむくらせてぷいっと顔を背ける。青年はその様子を見て、ふわ、と小さく微笑む。「いつまでむくれるんですか。仕方のない子ですね」そう告げる青年の表情は、この屋敷に来てから初めて見るだろう、穏やかな感情を讃えていた。

青年の微笑みにたまらない気持ちになって、少女も吹っ切れたように笑った。


そうだ、と少女は思い立ったように青年に写真の日付の話をしよう思った。

長女のあの言葉も、少女は嘘だとは思えない。長女の中では、少なくとも今は現代ではなく1900年なのだろう。何故100年も認識の違いが出ているのかと、少女はずうっと考えていた。一人で悩んでも解決しない。青年に話せば、何かきっかけが得られるかもと思い至った。

「おじさん、今って2000年だよね?」と、青年に訊ねると、彼は心底不思議そうな顔をして「ええ、そうですが……それがどうかいたしましたか?」と首を傾げた。

少女は話を続ける。

「あのね、お姉さんが今が1900年だって言ってたの、家族写真を貰ったんだけど、その日付にも1899年って書かれてて…。不安になっちゃったの。けど、お姉さんが嘘を言っているとも思えなくて……どういうこと、なんだろう?」少女は不安げな瞳で、青年に家族写真を見た。

写真を見た青年は、一瞬何処か懐かしそうな瞳をしたが、すぐに少女の質問の意味に気がついたのか、何かを考えこむように顎に手を当てていた。何か思い当たる節があるのだろうかとも思ったが、青年は茫然とした表情のままで「わかりません。何故なのでしょうか……何故……」と、信じられないかのように首を横に振った。心の底から、混乱しているようだった。

そんなことはありえない、と彼の表情が告げている。

その様子を見た少女は、それもそうかと一人勝手に納得し、家族写真をバッグの中へとしまった。

だって、もしも家族が本当に1900年以前に生まれていたとしたら、青年もとっくにおじいさんのはず。けれど、少女から見る青年はどう見ても若い。確かに年の割には若々しいかもしれないが、けれど、10年経っても見た目がほぼ変化しない人もいるし、少なくとも青年の姿を見て「老人」という人はおそらくいないだろう。

少女は、とにかく今はこの疑問の解決は後に回すことにした。


そうして、ふかふかのベッドで過ごしていれば、徐々に眠気が舞い込んでくる。

眠りにいざなわれる少女は、アクセサリーを縋るように両手で握ったまま、そのまま腰かけていたベッドにふんわりと倒れ込んだ。

けれども、末娘の笑顔と抱いた数々の疑問が過ぎって、どうしても眠ることを拒絶してしまう。目を閉じるたびにあのベッドが目の前に現れて、少女の瞳を掴んで離さない。少女はブルブルと体を震わせていた。

青年は、震える少女のベッドに腰掛けながら、少女の頭をゆっくりと撫でていた。


深夜になり、ようやっと少女は意識を落とすことが出来た。

少女が眠るのを見届けた青年は、少女を起こさないように毛布を掛けると、ソファへとゆったりと横になる。少女の様子を定期的に確認しながらも、青年はポケットから一枚の古ぼけた写真を取り出した。青年はその写真を少女に向けるのと同じような穏やかで、まるで素朴な少年が淡く儚い夢を見るような純粋なまなざしで眺めていた。名残惜しそうにその写真を自分のポケットにしまうと、ベッドですやすやと寝息を立てる少女の後を追うように、青年も瞼を閉じて、冷たい静寂と暗闇に身を投じた。

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