Reminiscence 1900年4月ー日

暗闇から引き上げられる。

眼に入る景色はいつもの見慣れた自室ではなく、清潔感のあるアイボリーの天井だった。壁につけられたランプが、青年を含めた部屋をぼんやりと照らしている。窓を覆う白いカーテンが、窓向こうの夕焼けを僅かに映していた。青年は自分の置かれた状況に気がついた瞬間、思考が鮮明になっていく。ここは、奥方の妹が暮らしている家だ。青年は、奥方の妹の家に辿り着いたところで気を失ってしまったことを理解する。そしてこの部屋は、奥方の妹が療養していた病室代わりの寝室だ。彼女はどこに行ってしまったのだろう?青年の脳裏に嫌なものが広がっていく。まさか、まさか間に合わなかったのだろうか?あの後、奥方の妹は亡くなってしまったのではないか?

青年は、早く彼女を見つけなければという焦燥に支配された。

青年は、手足が動くかどうか、声が出るかを軽く確認する。どれだけ動かしても声を漏らしても、臓器がひっくり返るような痛みが襲ってくることはない。あの激痛は一体なんだったのだろうという疑問は残るが、そんなことをしている余裕はない。一刻も早く部屋から出ようと扉に手をかけようとした時のことだった。ガチャリ、青年が扉を開ける前に、先に扉が開く。虚をつかれた青年はその扉がゆっくりと開いていくのを眺めることしか出来なかった。


目の前に映る光景を見た瞬間に、青年の瞳は鮮やかに色づいた。


視界には、少女が映っている。

雪のような美しいウェーブロングが、ふわりと揺れた。

簡素なワンピースに身を包んだ少女は驚愕に目を見開き、ぽとりと持っていたタオルを取り落とした。少女は、石のように固まったまま頭から足先まで確認するように目線を動かすと、桜色の瞳から花が零れるようにいっぱいの涙が溢れ、そのまま青年に抱き着いた。幼い子供のように泣きじゃくりながらも、彼女は、奥方の妹はくしゃくしゃに笑っていた。

「ああ、よかった。ほんとによかった……もうずっと起きないかと、おもってた……あなたがいないと、わたし。わたし」

青年は、奥方の妹を優しく抱きしめた。触れるように。存在を確かめるように。

奥方の妹は、青年に抱きしめられたことに気がついて、隙間がないぐらいにさらに青年の背中に手を回す。

もう二度と離れることがないように。奥方の妹の涙で震える声が、音となって青年の全身に染み込んでいく。

「ありがとう、本当にきてくれて。わたし、生きてる。生きてるよ……きっと、あなたのおかげだね……大好き。愛してる。ずっといいたかったの……。10年前からずっと、ずっとだいすきだよ……」

二人分の幸せが、部屋に満たされていく。

「いいえ、そうではありません。貴女が頑張ったからです。生きたいと心から願ったからこそ、貴女は、峠を越すことが出来たんですよ。貴女の強さが、貴女の命を救った。生きててくれて、ありがとう。貴女がここにいて、俺はとても嬉しいよ」

柔らかに滲んでいく世界で、青年は淡く淡く微笑んだ。



「10日間も眠っていたのよ」と奥方の妹から聞かされた時、青年は本当に驚いてしまった。使用人の用意してくれたコーヒーを勢いよく喉に流し込んだ後に、カップをテーブルにことりと置いた。奥方の妹はそんな青年を見てくすりと微笑むと、空白の10日間について話してくれた。

まず、青年は家の前で意識を失ったことは間違いなく、そのまま奥方の妹と使用人がこのベッドまで運んでずっと青年の看病をしていた。今着ている青年の服も、この家に訪れた時と服が違うことから、着替えの世話までしてもらっていたようだ。その話を聞いた時、青年は少し気恥ずかしくなってしまった。

そして、奥方の妹について。

発作が起きた日、つまり10日前の時点で奥方の妹の発作は止まったらしい。まるで、痛みなど最初からなかったかのように。あまりの唐突な出来事に使用人も奥方の妹も驚き、翌日一度病院まで行って診察してもらった。そして昨日診察結果を聞きに病院に向かい、彼女の病気は治ったという旨を医者から聞かされた。使用人と奥方の妹は、森の家に戻ったお互いに抱きしめ合って涙を流すほどに喜んだらしい。ひとまず予後経過であと一週間は家で養生しろと指示され、六日経った後に再び医者に診てもらうことのことだった。もしも結果がよいものであったら、奥方の妹は病気に罹る前と同じように動いても構わないらしいとのこと。その話を聞いた青年は、安堵のため息をついた。

よかったと、心からそう思う。


「クリステア家には戻るんですか?」

青年は奥方の妹に訊ねる。奥方の妹は少し悩むようなそぶりを見せたが、静かに首を横に振った。

「勿論、ちゃんと顔は出すわ。けど、この家で人生を過ごすつもりよ。新しい次期当主もそろそろ決まっている頃だろうし、今更なれって言われても嫌だわ。もう、縁も切ってしまったしね。わたしね、やっぱりこれからはただの女の子として生きたいわ。けど、病気もなくなったことだし、久々に会いに行こうかしら。少し話をしたら、ここに戻ってくるつもりよ。もちろんお家の住所も電話番号も教えるわ」

奥方の妹の表情は、あの日に見たのと同じように晴れ晴れとしていた。

「次期当主の仕事は嫌だったんですか?」と青年は首を傾げた。

「確かにとっても忙しかったし、嫌なものもたくさん見たけれど。けどわたしの行うことが一族全員の幸せに繋がるの、わたしが失敗してしまったら、わたしの大好きな人たちにも被害が及ぶのよ。ね、嫌だって言えないでしょう?わたしが次期当主の座を降りたい理由は、もっともっと我儘な理由よ。家族に黙ってこの家に来たのとおんなじぐらいに身勝手なの」

奥方の妹はそう笑うと、コーヒーを一口飲んだ後に、音もなく静かに空っぽのカップを置いた。


「そう、今なら教えられるわ。病気が治ったら、どうしたいか」

奥方の妹の声に、青年はコーヒーを飲もうと手を伸ばしたを止めた。彼女は幼げな微笑みを作り、青年を見つめた。その瞳には溢れるほどの想いが詰まっているのが青年でも判って、体がほのかに熱を持つ。

奥方の妹は少し照れ臭そうに笑うと、自分のコーヒーカップを手に持ってテーブルから立ち上がる。青年も自分の分のコーヒーを飲み干すと、二人でコーヒーカップをキッチンに置いた。傍で控えていた使用人が「そんな、こちらで片づけますのに」と申し訳なさそうにしていたが、青年は「いいえ、いつもありがとうございます」と告げると、使用人は嬉しそうにはにかんだ。

二人はそのまま、寝室へと戻り、とりつけられた窓を覗いて、世界を眺めていた。夕焼けは消え、満天の星空ががあますことなく全てを満たしている。森も、遠くにあるだろう街も、青年や奥方の妹の実家も、平等に星々に照らされている。崖から見える紺の海もまた星空に照らされ、十五夜がその海に道を広げている。あの道を二人で歩けたら、素晴らしい時間になるだろうと青年はその美しさに見惚れていた。

「モーンガータと言うそうよ」奥方の妹は海を眺めながら言う。

「Mangata……"水面に映った道のような月明かり"という意味。この言葉はね、別のお国の言葉なんだけど……使用人が教えてくれたのよ。たったひとつの、他の言語だと全く例えようのない言葉。とってもロマンチックだと思わない?」

そう嬉しそうに告げる彼女に、青年は大きく頷いた。青年は今のところ自分の国の言葉でしか歌うことが出来ないが、外の国には無数の言葉と意味が込められていて、美しい表現があるのだろう。それを知るために、もっと他国の言語を覚え、世界中に散らばる言葉で歌を考えるのも悪くはないかもしれない。

「ねえ」と、隣で奥方の妹が自分を呼ぶ声がして、顔を向ける。

息を呑むほどに可憐で美しく、何よりも大切な人の声。その声を聞くだけで、青年の心は満たされてしまう。きっとこれから先、一生彼女のことを忘れることはないのだろうし、苦しむこともあるだろう。今回のように泣きたいぐらいに悲しい事も起こるだろう。それでも、この恋だけは諦められないし、彼女への愛に後悔することはありえないのだろうと、青年は心の底から確信していた。

「なんでしょう」

青年の声が、寝室に融ける。

彼女は、くるりと青年の方に体を向けて、ぱあ、と愛らしく笑い、そうして彼女は言葉を紡いだ。

明るく希望を抱いてしまうような、大好きなポップスの歌詞を歌うように。

幸せに、嬉しそうに。今にも踊りだしてしまいそうな、駆けだしてしまいそうほどに。

ああ、自分はこのために生きてきたのだろう。

この笑顔を見るために、自分はきっと生きてきた__。

「わたしね、あなたと二人でこの先を生きていきたいの」

その言葉を言い終えるのと同時に、青年は彼女を先ほどよりも強く抱きしめていた。

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