Reminiscence 1900年4月13日  後編

内側に収まっている全ての臓器がひっくりかえるような痛みに、青年の世界は焦点を失い、ぐらりと揺らいだ。身体の力が抜け、そのまま地面へと倒れる。

地面に倒れた衝撃などもはや感じない。骨が、血が、筋肉が、この体を構成する全ての細胞が一つ残らず暴れまわり、殴り合っているようだった。あまりの痛みに悲鳴すらも出ない。喉も針を千本飲まされ、一本一本を丁寧に深くまで刺されたかのようで、声を出そうとするだけで身を焦がすような激痛が全身を貫く。それでも、起き上がろうと青年は痛みに苛まれる体を動かそうとした。けれど激痛が青年の身体をすり潰し続けていて、青年はその場から動けなかった。痛みは意識さえも刈り取ろうと切り刻み続けている。


どうして動かない?

今までに味わったことがないような地獄に、青年は死が耳元で囁いているのを感じていた。死神が早く目を閉じてしまえと嗤って腹を抱えている。その嘲笑から目を逸らすように、青年は必死に思考をだけでも巡らした。考えることを辞めたら終わる。きっと二度と目覚めることが出来なくなる。この激痛はそれを確信できるほどの破壊力があった。痛みによるショック死というものは、こういうものかと嫌でも理解する。一刻も早くこの痛みから解放されてしまいたいという誘惑が脳裏を支配していく。

痛みから逃れる方法は簡単だ、今すぐにでも思考をするのを辞めればいい。そうすれば意識は速やかに途絶え、心臓は動きを止めることだろう。今思考することを手放せば、少なくともこの痛みから解放される。その後のことは青年の知ったことではない、青年は既にこの世から去っているのだから。

ああ、それがいい。水底にいるような冷たい暗さだ。一人で歌っていた時と同じような。それも悪くない__。

青年はその誘惑に目が眩み、力を抜いて瞼を閉じた。


瞬間、瞼の裏に愛しい人の微笑みが鮮明に映される。

美しい白雪色の髪と、桜色の瞳を持つ少女の微笑み。お転婆で、ちょっと意地っ張りで、寂しがりやで、子供の頃に交わした約束を信じて待つようなロマンチストで、大好きな人の面影。その幻影に彼は、痛みで震える手を伸ばす。彼女の頬に指先が触れようとした瞬間に、その幻影は自らが作り出した暗闇へと切り裂かれた。後には、青年だけが取り残される。そう時間も経たないうちに、この闇に閉じ込められてしまうのだろう。そうなってしまえば、痛みも苦しみも、悲しみも感じることはない。ただただ安らかに、この闇に身を委ねるのだ。

けれど、安らかな闇に融けるということは、彼女と永遠に会えないという選択をしたということだ。


その思考に辿りついた時、闇の中で、青年は辞めようとした呼吸を吐いた。


こんな結末で良いのか?

死んでしまうのだろうか?こんなところで?

あともう数十分耐え抜けば、彼女に会えることが出来るのに?

こんなところで諦めるのか?

彼女も、今この瞬間にも青年の同じかこの痛みの何倍、何十倍、何百倍もの激痛を味わっているかもしれないのに!


こんな痛みで、彼女の願いを捨ててなるものか!


青年は、唇から血がにじむほどに、歯を食いしばった。ぼんやりとした意識を覚醒させる。

青年は、立ち上がる。ふらつきながらも、今にも壊れそうな身体を引きずりながらも、己の足で、閑静な森を進むために。

燃え上がるような激痛の中で、ゆっくり、ゆっくりと歩き出した。次に転んだらきっと起き上がれないだろう。だから、倒れないように慎重に、丁寧に意識して地面を踏みしめた。もはや「歩く」ということを意識しないと、痛みで身体が爆発してしまいそうだ。けれど、まだ青年の意識はここに残っている。無理やりに叩き起こした眼は、なおもまっすぐを見つめていた。


歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。

そうして。


なにかが、遠くから青年を迎えに来たのを感じた。

いいや違う、青年がその「なにか」に近づいたのだ。


もはや痛みでどんなものがあるのかさえも明確に認識出来ない。

目に映るものすべてがぼやけていて、今の青年に捉えられるものは家とそれ以外の緑だけだ、潮の香りに安堵感を覚えた青年は、今にも倒れそうになりながらも玄関へと近づいて、弱々しくこぶしで扉らしい場所を二回叩いた。すると、そのなにかが歪んでいって、そこから一人の女性が出てきた。その女性はどうやら驚いていたようだが、具体的にどんな表情をしていたまでは認識出来なかった。青年は、その女性に彼女のところへ連れて行ってください、と言葉を出そうとした。

したのだが。

言葉を放つことなく青年は、跪くように倒れこんだ。

彼女の傍に居たいと、その想いだけで、ここまでやってきた。いつ身体が破裂してもおかしくない沸騰するような痛みの中で、青年はようやく彼女のいる家へと辿り着くことが出来た。けれども、あと一歩、いや、半歩のところで青年の身体は限界を迎えた。もしかしたら限界などとっくに超えていたかもしれない、彼女の隣だけを求めて、家族を置いてまでこの森を歩き続け、この家の前に辿り着いたのだ。あとは、この家の奥で苦しんでいるだろう彼女のところに向かえばいい。けれども、青年は一歩も足を動かすことが出来なかった。

激痛の中でこの身を無理に動かしたのが祟ったのだろう。もう、何か思考をするだけの体力も精神も残されていない。遠く、女性の声が聞こえたような気がしたが、その声が誰のものかわからないほどに青年の思考は摩耗して、何もかもが闇へと擦り切れていく。けれど、その闇はとても暖かく、優しかった。青年の頬から伝うぬくもりに包まれながら、青年の意識は完全に途切れた。


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