Reminiscence 1900年4月13日 前編

青年は、パチリと目を覚ました。時計の針を見れば11時前を指している。気だるげな様子で、青年は体を起こした。

今日はいよいよ家族で儀式を実行する日。血は既に器に集めきっていて、魔法陣も完成している。後は集まって儀式を行い、願いを告げればいいという状況だった。だというのに、何故だか気分は浮かない。この魔術を使えば彼女の病気は治るかもしれないのに、どことなく青年は魔術に嫌悪感を抱いていた。彼女のためなら自分は死のうが全く構わない。ただ、あの魔術そのものに、漠然とした違和感を抱いていた。何故違和感を抱いているのかもわからないが。けど、今はやるしかないのだ。たとえ抱こうが、それで彼女の病気が消え去るのであれば、彼女の笑顔がこの世界で咲いてくれるのなら、青年は何も躊躇うことはない。青年は、着替えを済ませると、そのまま二階へと降りていく。二階に降りても、人の気配は全く感じられなかった。おそらく屋敷にいる全員が、既に地下書庫の奥の部屋に集まっているのだろうとぼんやりと考えて、そのまま二階を素通りして一階の階段へと降りていく。洋館の気配が普段よりもいっとう静かで、青年は思わず足が止まる。まるで自分以外が消え去ったような感覚。普段が賑やかだっただけに、青年は歯車がかみ合っていないような不自然さを覚えた。


りんりんりん__青年の耳に届いたのは、それからすぐのことだった。音の方向を見れば、壁に取り付けられた電話が鳴り響いている。

皆は一階の音など全く聞こえない場所にいるから、おそらくはこの電話は聞こえていないだろう。必然的に、今この場では青年がその電話を聞くことしか出来ない。誰だろうと首を傾げる。電話を取っている場合ではないのだが、青年はどうしても気になり、受話器に手を伸ばした。

「はい、もしもし」と告げる青年の耳には、うろたえた声が入ってくる。青年はその声に覚えがあった。受話器から聞こえる内容を聞き漏らさないように受話器を出来る限り耳に近づける。青年の背後から、気持ちの悪い冷たさが虫のように這い上がってくる。

電話の声は、奥方の妹の付き人である女性だった。

「使用人さん、どうかしましたか」声を取り繕いながらも、彼女の言葉に耳を傾けた。今にもばらばらになってしまいそうなほどに感情の昂った声で、電話の向こうにいる彼女は泣いていた。


「今さっき、お嬢様が、お嬢様が発作を起こして。これまで一番酷くて。痛い、痛いと、貴方の名前を呼んで泣いて苦しんでいるのです。お願いします。こちらにきては頂けませんか、せめて、せめて、貴方のお姿を見せてあげたいのです。どうか、お願いします。お嬢様には貴方が必要なんです。貴方がそばにいてくれたら、きっと病気にも打ち克てる。だから、きて__」


それ以上の言葉は、青年の耳に届いていなかった。手から滑り落ちた受話器から、僅かに声が漏れている。

彼女が死ぬ?こうして魔術の儀式を行おうとしている間に?

死神は、よりにもよってこんな日に、彼女の命を刈り取ろうと鎌を構えたというのだろうか?なんて性格の悪い、悪趣味な存在なのだろう!お前なんていますぐ殴り飛ばしてやると、青年は彼女の傍で嘲笑う死神に明確な殺意を抱いた。

青年には、二つの道が残されている。

結果的に道は一つになるのだが、たった一つの工程を省くか省かないかだけの違いだ。

今すぐに彼女の元へ行くか、ここで儀式をしてから向かうか。

儀式をして、間に合うのだろうか?今、彼女は、想像を絶する苦痛に苛まれている。

ならば、いますぐにもこの洋館から駆け出すべきなのだろう。彼女のところに向かいたい、彼女の傍にいたいと心が叫ぶ。

けど、青年の中に迷いが生まれる。今から向かったところで三時間はかかる場所だ。電車を使わずに全力で走れば二時間と少しでつくかもしれない。いずれにせよおそらく向こうにつくのは昼過ぎになるだろう。その時に既に手遅れだったら、青年は耐えきれずに自分の喉を掻っ切って死ぬだろう。ならば、心を殺すべきか?儀式に参加してから向かった方がいいのではないだろうか。そうすれば、彼女の元気な姿が見れる可能性があるだろう。

青年はその考えにすぐに首を横に振った。

儀式は一時間ほどかかると言っていた。そんな悠長な時間があるのだろうか?

いや、きっとないだろう。

なら、儀式など投げ出して彼女の傍へと向かうべきなのだ。

あの羊皮紙の儀式をしなかった結果最悪の状況が起こったとしても、今ここで立ち止まっていたら、青年は後悔するだろう。

一生己を許すことなく生きて死ぬだろう。

青年は、床に転がる電話を手に持ち、言葉を出そうとしたその直前、鈴のような愛らしい声が背後から聞こえた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」その声に振り向けば背後には、心配そうな顔の末娘がいた。

「大事が出来ました。俺は儀式に立ち会えません。血は捧げたでしょう。どうか俺抜きで儀式を続行してください」

そう告げる青年に、末娘は目を大きく見開いた。

「ど、どうして?もしかしたらお姉ちゃんの病気が治るかもしれないのよ。そんなに大事なこと?」と末娘は戸惑っていた。青年は「そうです。なので、家族にもどうか伝えてください」と末娘に投げるように伝えると、受話器の向こうにいる彼女に「すぐに向かいます」と早口で告げて電話を切ると、そのまま裏口へと向かった。こんな言い方はひどいとおもう。けど、わざわざ判ってもらえるような言い回しを考えられるほど、今の青年にその心はなかった。たとえ薄情者だと罵られても、いっそ家族全員から嫌われようが関係ない。

彼女の苦しみが少しでも減るのであれば、どんな責め苦も受ける覚悟だったから。

末娘は「ま、待って!お兄ちゃん、お兄ちゃんっ、どうしちゃったのよ!!」と青年を追う。

彼女の言葉に答えられなかった。いますぐにも彼女に会わなければいけないのだから。二人分の足音が、廊下を駆ける。裏口の扉がやけに遠くにあるように感じられて、青年の心はさらに焦燥感で煮られていく。

裏口の扉の前までついた時、背後にいる末娘は「待って」ともう一度強い声で、青年に縋った。

青年は、やっと彼女の方へと顔を向ける。末娘の表情には、声とは裏腹に、困ったように眉を下げたほほえみが浮かんでいた。それは幼い向日葵のような笑顔ではない、普段全く見せることはない、長女とよく似た才女の微笑。青年は、末娘の名前を呼びながら目線を合わせた。彼女のルビーの瞳は、青年の姿を映すように透き通っている。

「お姉ちゃんのことなのね?」彼女の確信めいた物言いに、青年は嘘をつくことは出来なかった。その言葉にただ頷く。

末娘は、じっと青年を見つめると。少し呆れたような、安心したような、そんなほほえみを浮かべてふう、と息を吐く。

「だって、お兄ちゃんがこんなに感情的になるなんて、お姉ちゃんのことぐらいだもの。少し考えただけで、わかるわ」

「行ってあげて。ううん、行くべきよ。貴方は未来の旦那様なんだから。奥さんの傍にいないと駄目よ。あたしから、伝えておくわ。お兄ちゃんは、とっても大事なご用事があって、お願いが叶える瞬間は見れなくなってしまったって。けど、お兄ちゃんもちゃんと血を捧げたし、きっと大丈夫よ。全てがいい方向へ向かうわ。安心していってらっしゃい!」

いつものような華やかな笑顔に、青年は風が吹き抜けるような感覚が走る。

くるりと末娘に背を向けて、そのまま裏口の扉を躊躇いなく開けた。


青年は走った。一秒でも早く、彼女の傍に行きたくて。

普段は電車を使ってのんびりと終点へと向かっていたが、今はホームで電車を待つ時間も惜しい。そのまま電車を追うように駅沿いを走っていけば、彼女の家と繋がる終点に辿り着けるはずだ。青年は地面を弾くように蹴りながら、今にも揺らぎそうな世界を貫いていく。

止まるな、動け、迷うな!

息を切らして、足が棒のように痺れてきても、青年のやるべきことは変わらない。駅前を通り過ぎる人が、青年の姿を見てぎょっとしたり、ひそひそと囁く声が聞こえるが、そんなものはどうでもいい。今の青年に見えているのは、一つしかないのだから。

見える世界の全てが、青空に流れる色づいた流星のように移ろい消えていく。人も、街も、地面も、草木も、花も、声も、空気も、青年がこぼす息ひとつも、全てが走ってきた道に向かって流れていく。青年だけが、この流星群に逆らって燃え尽きようとしていた。

走って、駆けて、転んで、起き上がって、苦しくなって、泣き出したくなって、再び駆けて__走り続けて。時間さえも忘れて。終点の駅までたどり着くまで、あともう少し。気がつけば人の気配はまばらで、あたりは賑やかで色溢れた街並みから、のどかな景色へと変わっている。少し先には、名前も知らない駅の改修工事のけたたましい音が鳴り響いている、青年の耳はその音をすり抜け、何もなかったかのように走り去った。


遠くに、広大な森が広がっている。あの森の奥にある海の見える場所に、彼女がいる。


青年は他のものには目もくれずに向かっていた。もうすぐ彼女に会えるという期待と、彼女が消えていなくなってしまうという恐怖で、一つしか見えなくなっていた。自分の事すらも忘れるほどに、青年の瞳は桜に染まっている。

桜の花びらが散ってしまう前に、必死に草木が生い茂る地面を蹴り続けた。


そうして、ようやっと彼は駅の終点へと辿り着いた。全力疾走で数時間も休まず走ってきたからなのか、全身が汗びっしょりで視界もぼやけてよく見えない。真上に輝く太陽が、青年を照らしている。けれどそれを視界に入れる余裕はない。ただ一途に、一直線に足を動かした。見慣れた丸い石の傍の道を通り抜け、森の中を駆ける。その途中のことだった。青年が森の喧騒を突き破り、森の道を踏みしめようとした瞬間のタイミングで、それは起きた。


突然、青年に激痛が襲いかかった。

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