アトーンメントの歌声

にじの

■2000年4月23日

透き通るような青空だった。

青年と少女しか乗っていない列車は、ガタンという音を出しながら、淡々と田舎の方へと進んでいく。

今日は記念すべきイースターだというのに、この電車にはにぎやかな声どころか、全くの人の気配が感じられない。

きっと多くの人が祭りに浮かれて、人気の多い街へと集まっているのだろう。

二人の家があるところも、普段は人もまばらで閑古鳥が鳴くような無名の街だが、この日に限っては人が混ざり合うかのように混雑している。思い思いに、朗らかに笑う人の顔には、素晴らしい今日を祝おうという気持ちが詰まっていた。まあ、誰もが神の復活を祝っているわけではない。中には、信仰心なんてかけらも持ち合わせていないけれど、祭り自体がが楽しくて騒いでいる人もいるのだろう。カジュアルな服を着こなした男が「一緒に祝うのはどう?」と、女性にビーズが施されたイースター・エッグを持って手招きしていた。

二人はそれらを何もかも素通りして、物好きしか訪れないような、なんにもないような場所へと向かっている。


「貴女の両親が亡くなってから、もう10年ですか、月日が経つのは早いものですね」


青年は、遠くの空を眺めながらそう言った。

少女は「うん」とだけ告げると、バッグからアクセサリーを取り出す。

十字と丸を組み合わせた銀製の古ぼけたアクセサリーは、両親から受け継いだ形見であり、少女にとっての宝物だ。


「折角のイースターです。来週でもよかったと思うのですが、どうしても今日が良かったんですか?」


青年の言葉には、今日である必要があったのかという疑問と同時に、祭りを優先してもよかったという気遣いが含まれていた。

その言葉に、少女は「今日が良かったの」と言って肯定する。「今日はばあちゃんの誕生日だから、今日が良かった」と付け加えて。


一週間前ほどに退院したばかりの少女は病院の外に長く触れていなかった。

苦しい闘病生活の中で、彼女はもしも病に打ち克てたら、両親の想い出巡りをしようと決めていた。

そのきっかけは今手元にあるこの古いアクセサリーだった。

父と母にとっての思い入れの強いアクセサリーだと、少女は両親から聞いていた。

自分が亡くなってからも受け継いでほしいと祖母が両親にお守りとして二人に渡されたものらしい。

まだ両親が生きていた頃、病が治りますようにという祈りを込めて、母親がこのアクセサリーをプレゼントしてくれた。このアクセサリーは元は祖母のもので、母親がこれを身に着けていると、病気が治るのよと微笑んでくれた思い出を、少女は今でも鮮明に思い出せる。

優しい祖母も少女が赤子の頃に亡くなったと聞いている。両親は10年前に事故で亡くなってしまった。

少女は、このアクセサリーの歴史を知りたくて、この列車に乗っている。

もう戻らないことも知っているし、今更知ったところで過去は変えられないとは判っていても。

彼女は両親の思い出を手繰り寄せたかった。



アクセサリーにまつわる思い出の手掛かりを教えてくれたのは、少女の隣にいる眼鏡をかけた青年だ。

彼は母親の弟で、出会って10年になる。

肩につく程度に伸ばしている柔らかな黒髪と、柘榴色の瞳がとても美しい青年は、黒が好きなのか、彼は黒い手袋と長いマフラーを毎日のように身に着けている。手袋とマフラーは季節関係なく身に着けているため、少女は夏の季節は暑くないのかなあと思っていた。実際「暑くないの?」と聞いたことはあるのだが、その時の解答は「暑いですが取りたくありません」と言って断固としてその二つの装備を取ることはなかった。相当のこだわりがあるのだろうと思う。

学生をしていても違和感がないほどに瑞々しい姿をしている彼は、事情があって学校にも行かず世界中を放浪していて、今どこにいるかもわからないと母から聞いていたため、どんな人物なのかも知らなかった。けど10年前に突然、喪失感でおぼれそうになっている少女の前に現れた。

「もしものことがあったら、娘のことを守ってほしい」

そう書かれた母親の手紙と共に。

それ以来、青年は仕事の時以外は少女の傍から離れることはなく、勉学は勿論、病院に関する手続きなどを積極的にしてくれたし、毎日欠かさず見舞いにきてくれた。長い長い闘病生活も、青年が傍にいてくれたから乗り切ることが出来たと言ってもいい。

少女にとっては、青年は頼れる兄のような存在だった。

形見のアクセサリーついて知りたいと相談した時も、彼は心当たりがあるといってこれから向かう場所を教えてくれた。

列車を二つほど乗り換えて数時間、ついてもそこから歩いて10分ほどのところにある丘の上に、そのアクセサリーの出処と思われる屋敷がある、と。


「けど、どうして知ってたの?」

少女は言う。

「洋館のこともびっくりしたけど、この路線があることも、こんな駅があることも初めて知ったよ。調べたらね、もうすぐこの列車、廃線になっちゃうんだって。……もしかしておじさん、列車巡りが趣味だったりするの?」

少女は、青年の瞳を覗いて訊ねてみる。10年間の付き合いの中で、青年がそんなアウトドアな趣味を持っているとは思えなかったから。青年は僅かに目を伏せたが、形の良い唇を滑らかに動かした。青年は、満天の星空を思い出せるような美しさを持っていた。言葉をひとつ音に零すだけで、少女は圧倒されそうになる。


「列車巡りをする趣味は俺にはありません。以前行ったことがあるだけですよ。貴方の持っているアクセサリーと同じ模様が、洋館の外にある看板に刻まれていたのを覚えていたので、何か手掛かりになるかと思ったまでです。以前訪れた時は賑やかだったのですが、今はどうなっているのかは判りません。もしかしたら、洋館にいる人たちもいなくなっているかもしれませんね」


青年はそう少女に教えると、再び視線を元の位置に戻した。

電車に乗った時と同じように、窓の外に顔を向けて、電車の向こうの青空を見ている。実際のところ、空を眺めているわけではないことを少女は知っていた。なにせ10年の付き合いなのだから、そのぐらいの所作は見分けられるようにもなるものだ。時々、青年は二度と戻ってこないものを空想するような瞳をする。その時に見せるガーネットの瞳は美しいが、同時にまるで老人か仙人かのように思わせた。そこまで年は離れていないはずなのに。いったいなぜなのだろうと、少女は青年の過去を勝手に想像するのが当たり前になっていたが、実際に過去に何があったのかと聞くことは一度もなかった。過去をわざわざ聞く必要もないと思ったからだ。けれど、こうした達観した姿を見せるたびに、実は千年生きた仙人が化けているのではないかと考えることがある。全く失礼な話だが。

少女は青年に「おじさんって、たまにおじいちゃんみたい」と思わず言葉を零す。

その言葉を聞き逃さなかった青年、ふ、と笑う。

少女がその様子にきょとんとした一秒後。

「御年118歳になりますかね。随分と長く生きました。貴女もちゃんと長生きしましょうね」

青年がそう告げると、誰もがうっとりとするような微笑みを少女に向けた。

からかわれた!

そう気がついた少女はその微笑みに何も言えなくなって不満げに頬を膨らませた。



「つきましたよ、ここで降ります」

青年の声で、少女は目的地の駅に着いたことに気がついた。

少女も持ってきた花の刺繍が入っているお気に入りの肩掛けバッグを確認したあと、椅子から立ち上がって扉へと向かい、古ぼけたホームに踏み出していく。

少女の背を追うように、青年も電車の外へとゆっくりと歩いて行った。

背後で、空っぽの電車が旅立つ音がする。まるで、二度と戻らないと告げているように。


誰もが見向きもしないような田舎道だ。好き者ならともかく、用がなければこんな何もないような場所を訪れる機会すらないだろう。

無秩序に生えている雑草が、人の手入れがなされていないことを証明していた。おかげで道らしい道すらもない。

青年は慣れた足取りで、少女の様子を伺いながらゆっくりと目的地へと向かっていく。青年の少し前を歩く少女は、背中まで届く薄茶色のふわふわのウェーブロングを揺らして、周りをきょろきょろと目を動かしながら嬉しそうに歩いていた。小鳥のさえずりが聞こえるような森の風景は、彼女にとっては新鮮なものだった。少女の足が少しだけ鈍くなったころ、青年は告げた。

「あそこで少し休みましょうか」

少女はくるりと振り返り「えー、歩けるよ?」と首を傾げた。

しかし青年は少女の肩をぽんと置く。

彼の表情は至って真面目だ。

「退院したばかりなのに何を言いますか。無理をしないでください」

そういわれたらもう納得するしかないから、少女は不承不承ながらむくれたように頷き、近くの木陰へと移動して、丁度人一人分のスペースを開けて隣に座った。青年は、木陰の傍で少女を守るように立っている。最初はいつ来てくれるのかと期待していたが、青年は全く気がつくそぶりもない。いよいよなかなか自分の方にきてくれなくて、可愛らしい苛立ちを覚えた少女は、ぽんぽんと開いたスペースを叩いた。その音に気がついたのか、青年はくるりと少女の方へと向き直る。

「おじさん、座らないの?」

そう、折角青年のためにスペースを開けたのに、本人が座らないと意味がない。

青年はきょとんとした表情をすると、そのまま少女の隣へと腰掛けた。草木の香りが気持ちがよくて、少女は心地よい感覚に包まれる。

微睡み、今にも眠りそうな少女の耳に、静かな歌声が届く。

横を見れば、青年が微笑みながら歌を口ずさんでいた。

少女は、その歌を聞いて心が灯っていくのを感じていた。

どんな時でも、青年は歌を歌ってくれたから。

嬉しい時も、悲しい時も、苦しかった時も__病気で苦しんでいた時も、彼の歌が、少女の命を繋いでくれていた。彼の歌はまるで静寂な夜のよう、その冷たさは決して寒々しいものではなかった。冷たくて温かい、そんな感じだ。

まるで全てを包むような優しくて穏やかさを秘めた彼の歌声に、何回、何千回救われたことか!


「おじさん、もう大丈夫だよ」

そう告げると、青年が何かを言う前に少女はすくっと立ち上がる。少女がここに来たいと行ったのだ。本人がいつまでもここで休んでいるわけにはいかない。肩掛けバックをしっかりと確認して、前を見る。未だ目的地は見えないけれど、きっと何か素晴らしいものがあるのだろうと根拠もなく思っていた。

少女の様子を見た青年も、少女の背を追うようにゆっくりと腰を上げて、少女の傍へと駆け寄った。

未だに初めて知らない景色に胸をときめかせる少女に、青年は小さく笑いかけてくれる。

「転ばないようにしてくださいね」

「転ばないよー!」

空の色や木々の彩を、楽しみながら二人で歩く。

それは、少女にとっては素晴らしい夢のようだった。


歩けばすぐに時は経つ。木々の道を抜け、なだらかな丘をゆっくりと登っていく。

丘を登り切ったところで、青年は少女に「ここです」と小さく声をかけた。かさりと草木を踏む音を最後に、二人は立ち止まる。

二人の目の前には、大きな大きな洋館があった。

三階建ての洋館は、一度は誰もが住んでみたいと願うような夢を具現化したようだった。

しかし、窓が割れ、ところどころ家の壁が崩れていることから、誰かが住んでいるようには全く見えない。

まさに、廃墟の洋館だ。

洋館の近くの半分壊れている看板を覗いてみれば、ほとんど文字は読めなかった。

しかし、少女の持つアクセサリーと同じ形をした、十字に丸を組み合わせたような文様があるのは読み取れた。

少女の心に、大きな期待が灯る。


「ここに、本当にあるのかも!お父さんとお母さんの、宝物の歴史」


嬉しそうに笑う少女をちらっと見た後に、青年は1秒ほど口を閉ざした後「そうですね」とだけ零して、それ以上は何も言わなかった。

青年の様子を見た少女は「おじさん!いこういこう!」と、青年の手を引いて両開きの扉へと向かった。

青年は何か言いたげな顔をしていたが、やっぱり、何も言わない。

少女は、青年にもどかしい想いを抱えながらも、扉の前に立った。

かつては豪華で美しい装飾をなされていただろう扉も、廃れた今では見る影もない。少女は、ここで人々が生きていた頃の洋館を空想する。

たくさんの人々が笑い合って、この大きな洋館の中で生活をしている姿だ。宝物のアクセサリーを首にかけて、微笑んでいる姿を思い描いた。少女と青年にとっては昔話でも、当時の人たちにとってはそれは真実の事象だったのだと、少女は青年によく教わっていた。このアクセサリーの、両親が歩んできた道の端っこに少しでも触れたくて、今日はここまで来た。それはきっと、この洋館の歴史に触れることになるのと同じことだ。少女は、息を思いきり吸って、ゆっくりと吐いた。


「よし、あけるよ」


小さな声で、胸躍る気持ちで少女は扉を開けようと、指をドアの取っ手にかけようと手を伸ばす。

しかし、その指は空を掻いた。少女と青年の顔が、驚愕と困惑で染まっていく。

驚かないほうが無理な話だった。

こんな廃墟の洋館に、誰も住んでいるはずがないだろう、そう思っていたのだから。

信じられない光景だったが、実際に起きているのだからどうしようもない。

扉が、音を立てて開いていく。ぎい、と、今にも崩れそうな音を鳴らして。

この非現実的でオカルティックな出来事を、二人は茫然と直視することしか出来なかった。

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