Reminiscence 8

「夕食の時間だよ」という声で、青年の重たい意識は現実へと戻ってくる。

体を起こすと、扉の近くには、二人分の皿が乗せられているトレイを両手で持って立っている長男がいた。皿の上には、ほかほかのシチューがいっぱいに盛られている。「貴方も此処で食べる気なんですか?」と、ベッドから降りながら訊ねる青年に、長男は笑って「そのつもりで来たんだよ。君は賑やかなところは苦手だったでしょう」と返した。青年はその言葉には返さずに、皿の置かれたテーブルに移動して、長男の向かい側にある椅子に座った。青年が座るのを見届けた後、長男も椅子を後ろに引いて座る。長男がアクセサリーを手に持ち、食前の祈りの言葉を捧げる。

その様子が父親と本当にそっくりで、思わず吹き出してしまった。

長男が一瞬ぽかんとした表情をしたが、すぐにむすっとした表情で「神のお祈りを笑うだなんて、罰当たりだよ」と青年を軽く叱りつけた。

青年はスプーンを持つ手を軽く振った。

「いいえ、神への言葉を笑ったのではなく、あまりにお父様に似ているのが面白かったので……。本当にお父様に似てきましたね」

そう、同じ顔立ちである長男に小さく笑いかけると、何故か長男は子供のような苛立った表情で、シチューを一口頬ばっていた。青年もシチューをスプーンで掬い、そのまま口にいれると、野菜と肉がほどよく柔らかくなっていて食べやすく、濃厚な味が口内に広がっていくのを感じた。


「お母様の妹の病気は、本当に珍しいものらしくてね……ううん、本当に何と言ったらいいのか」と、長男の口が先に動く。青年が「何か病気についての詳細は解ったのか」という言葉を出そうとしたのと同時だった。思わず、シチューを食べている手が止まる。青年は「何か分かった事はありましたか?」と出来る限り普段通りに装って訊ねた。眉を下げて長男は続ける。


「原因は判らないのだそうだ。過去に前例はあったようだけど……未だに治療療法も見つかっていない。治療療法もそうだし……治療薬もそうだね。彼女のご両親も治療薬の開発のために多額の寄付をしたそうだけど、今すぐに薬が出来るわけじゃあないだろう?だから……出来るにしても、彼女が亡くなった後の話になってしまうそうだ」


重く話す彼の表情は浮かなかった。

青年は彼に見当違いな腹立たしさを向けながらも「それで」と、話の続きを促した。けれども、長男は「ごめん。彼女たちもこれぐらいのことしか教えてもらえなかったらしくて」と、ばつの悪そうに首を横に振った。

「そうですか」

たった一言だけを告げる青年の様子を見て、長男は顔を俯かせてしまった。

思った以上に、棘が出てしまっていたらしい。

長男が知っている情報は、既に罹患している本人から聞かされている内容と大差はなかった。

知っている情報を改めて聞かされても、全く面白みもなければ進展もない。彼女の病気は現代医学ではどんな手を使っても治ることはないという事実がより鮮明になっただけ。青年は、味のしなくなったシチューを形式的に口に放り込みながらも、彼の話を耳に入れていた。

話が終わる頃には、二人とも冷めきっていたシチューを食べ終えていた。

青年は言葉もなく二人分の空っぽの皿とスプーンをトレイに乗せた後に、皿の乗ったトレイを両手でしっかりと持ち、そのまま一階にあるキッチンに片づけに行こうと立ち上がり、部屋を出ようと歩き出した。

椅子に座りっぱなしだった長男は「ああ、僕が持っていくのに」と急いで椅子から跳ねるように席を立つ。


「貴方はこれから仕事もあるのではないですか?俺が持っていきますので仕事にお戻りください」


青年の言葉に、彼は明らかに落ち込んだ様子を見せ、「はい……」と長男は渋々といった形で頷いた。

青年はその様子に僅かに安堵感を覚え、長男に背を向けて歩き出す。

長男も青年の後を追った。


「きっと、治るよ。妹さんの病気も。だから元気を出して」


青年は驚いて振り向くと、長男が曖昧に微笑む姿が見えた。

長男は青年の肩を軽く叩くと、青年の先を歩いた。

そのまま長男は二階にある自室に、青年は一階のロビーへと向かうために階段を降りる形ですぐに別れた。一階のロビーに足を付けた時のことだった。ふと二階の方を見れば、長男がこちらを見つめているのが見えた。強い感情の籠った瞳に、青年は言いようのない罪悪感に駆られ、そのまま逃げるようにキッチンへと向かった。自分と全く同じ色をした柘榴の瞳は、どんなことを訴えたかったのだろうか。

青年はその日を終えるまでずっと考えていたが、ついに彼の感情の答えに辿り着くことはなく、疑問は彼女の病気についてで一気に塗りつぶされてしまった。


それからの日々は、青年はこっそりと適当な理由で家を出ては、奥方の妹に会いに足を運んだ。

彼女と過ごす時間はあまりに幸福で満ち足りていた。彼女とは特別なことはなにもしていない。ただ他愛のない会話しているだけでも、こんなにも心が穏やかに過ごせる。青年は彼女のために歌を紡いだ。幼い時に過ごした時間の続きのように、何回も使い込まれた楽譜を手に持って、彼女の隣でメロディを乗せて彼女に想いを伝え続けた。彼女は青年の歌を聞いては、初めて星を見つけたような微笑みを浮かべてくれた。青年にとっては、その微笑みは、青年の胸の中で動き続ける温かな鼓動だった。彼女から零れるすべてが、この命を動かす熱となっていた。


だからこそ、青年はこれっぽっちも想像がつかなかった。

彼女が土に埋められたあとの世界を自分がのうのうと生きている光景を。

もうすぐ来るだろう自分の姿を。

文字通り、欠片も考えつくことが出来なかった。

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