Reminiscence 9

事態が変わったのは奥方の妹の家に行くようになってから、二週間後ぐらいのことだった。その日の夜は曇り空で、空に輝く月も星も全てがどんよりと覆い隠されていた。青年はなかなか寝付けずに、気分転換にテーブルの上に座って漠然としていたところに突然、長女と末娘が突然に三階の部屋に突撃してきた。青年は思わずテーブルから落ちそうになった。この姉妹は基本的に用がなければ三階に訪れることはない。長女の腕には古ぼけた羊皮紙が抱えられている。その羊皮紙を見た青年は、何処かうすら寒いものを感じた。邪悪な意思がその紙に凝縮されているかのような、思わず背筋に冷たいものが突き抜けていく。

「珍しいですね。どうかしましたか?」

青年はテーブルから降りて訊ねる。長女が、黙ったままでその羊皮紙を青年に見せた。青年は軽くその羊皮紙に目を通す。どうやら何か儀式を行うための手順が書かれていることがわかる。その気になれば、今すぐにでも出来そうなぐらいには手軽さで、青年は疑念に目を細めた。

「何処から取ってきたのですか」

青年は長女に静かな声で問い詰める。長女は「…地下書庫の床扉よ」と、顔を俯かせたままで告げた。青年がこれを元の位置に返してきなさい、と言葉をかける前に、長女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には強い決意が宿っていて、青年は口を閉じてしまう。隣にいる末娘も、普段と様々なことに興味を向けた忙しい瞳とは違い、じっとこれでもかという風に青年を見つめていた。


「この魔術はね、複数人の血を使うことで、願いを叶えることが出来るそうなの。血の量は一滴ぐらいでよくて、血を捧げる人が多ければ多いほど、願いを叶える力が跳ね上がるそうよ。きっと、この洋館全員でこの魔術を行えば、お母様の妹の病気も治るかもしれないわ。お願い、兄さん、協力してほしい。これなら、誰も死なないわ。出来そうな魔術がこれぐらいなかったの。お母様の妹がこんなに早く死ぬなんて間違ってる。だからこれで救えるなら、やる価値はあると思うわ。私だって、半信半疑よ。けど、もしかしたら本当にあるのなら、この魔術が紙で作られただけの絵じゃなくて、本物なら。おまじないのようなものだけど……おまじないだって馬鹿には出来ないのよ?」


魔術。

それは、この家で生まれた青年ですら、耳に馴染まないものだった。

フローレア家は、古くから魔術を扱ってきた一族ということは青年も知っているし、地下書庫には祖先がかき集めた魔術書が保管されていることも把握している。クリステア家にも伝えていない隠匿された真実だった。けれど、これまで青年はそれらには全く興味がなかった。魔術というもの廃れてからもう100年。もはや過去の遺物だと父親は吐き捨てていたのを、青年はよく覚えている。魔術というものがなくても、青年は日々を生きることが出来た。元々青年はオカルトに関心がある方ではなかったし、そんな都合のいいものなどあるわけがないと片づけていたからだ。そんなものがあるならば、今よりも世界はマシになっていただろう。長女はそんな青年とは反対に、昔からこの家に伝わる魔術に傾倒している節があった。今では勉強に忙しいからか、ここ数年は地下書庫に向かう姿を青年は見かけなかったものの、幼い時はそれこそ毎日のように地下書庫に通っては、魔術書を夜中まで読み耽っていた。昔は全く文字の読めなかった魔術書を開いては、青年や長男にこの魔法はね、こうやってつかうのよ、と拙く幼い言葉ででたらめな呪文を唱え、杖代わりの気の枝を踊るように振りながら、魔法を使うようにポーズを取るのを微笑ましく見守っていた。

けど今の長女は違う。

彼女の表情から伺えるのは稚拙で無邪気な憧れではない。議論を交わす時に見せるような冷静さだ。

彼女は本気で言っている。本当に、心の奥底から、魔術という概念を使って奥方の妹を救おうとしているのだ。


青年は、どんな風に声をかけたらいいのかわからなかった。いや、この場で正しい言葉を言うことは出来る。

少なくとも兄としては行うべきことは、あまりに無謀と呼べる彼女たちの行動を止めることだろう。「こんなことをしたとしても、彼女の病気は治らないかもしれない。もしかしたら、魔術を行うことで自分たちに危険が降りかかるかもしれない、病が奇跡的に治ることを祈ることしか出来ない」と薄っぺらい理論を口だけでも言うべきだ。そして羊皮紙を奪い取り、速やかに父親に報告するべきだ。そうでもしなければ、彼女たち二人だけでも実行してしまうだろうし、もしもその魔術とやらを使って彼女たちになにかあったら彼は一生自分を許すことはないだろう。


けれど、本当に魔術で奇跡的に治ったとしたら?


病気が治らないかもしれない。けどそれもまた、「かもしれない」の話だ。

逆に言えば。もしかしたら、その魔術を使えば奥方の妹の病気は完治するかもしれない。

その可能性を、どうしても否定することは出来ない。青年の脳裏に、彼女の姿が過ぎる。奥方の妹を救いたい。それは青年だって同じだった。なんなら、自分が死ぬことで彼女の病気が消え去るなら今すぐでもこの場で命を絶つだろう。彼女を失うことは、この世界を失うのと等しいのだ。故に、だからこそ、思う。こんな役者がするような馬鹿げたことで彼女の病気が治るとしたら、もうそれでいいのではないか。何よりも、彼女の元気な姿がまた見れるかもしれない。そう思うと、青年は長女の言葉を無視することなど出来なかった。まるで悪魔のいざないように、長女の案は蠱惑的だったのだ。青年はその誘いを断るために、極めて理知的に、拒絶の意志を伝えようとした。そんな奇跡は起こるわけがないのだからと、必死に言い聞かせた。


けど、青年はその誘惑に目を逸らし続けることが出来なかった。


「わかりました」と告げた青年に、長女と末娘は心から嬉しそうに笑った。

止めた方がいい。絶対にロクなことなんておきない。魔術なんてどうせ、妄想だ。

どこかの国ではそれらしい名を掲げて大規模な結社まで形成されているらしいが、そんなものは酔狂な人間の集まりに過ぎない。彼女たちの行いを止めるための言葉と理論を、何通りも並べ立てようとしたのに、口から零れたのは六文字の単語だけだった。

二人の笑顔を見て、青年は己の中にある願望に抗うことが出来なかったことを自覚した。思わず乾いた笑いが出る。こんなことが許されるわけがないと判っていても、彼女を救う手立てがそれしかないのなら、青年は手を伸ばすしかなかった。彼女がいない世界など、自分は死んだも同然だったのだから。どうせ死ぬなら、足掻いてもがいて塵のように果てたいと、青年は長女が手に持つ羊皮紙を眺めていた。それに、どうせ駄目で元々だ。おまじない程度にやるのなら、問題ないはずだ。そう青年は、何回も、飽きるほどに自らに言い聞かせた。


「よかったわ!あたし、お父様もお母様も協力してもらえるように聞いてみたいの。今はお部屋にいるのかしら。お兄ちゃんも、お兄様をロビーに呼んで下さらない?お願いね!」

そう言葉を残して末娘は三階の部屋から出ていく。長女は末娘の背中を見送った後、ぽつりと呟いた。


「……兄さん、ありがとう。ごめんね。おかしなことに付き合わせて」


少しだけ低めのアルト声が青年の耳に聞こえてきた。その言葉を最後に、長女も部屋から静かに出て行った。

青年は僅かに目を伏せた後に、彼女の背を追うように僅かに歩調を速くして二階へと降りる階段へと向かった。


扉を閉める音が、嫌に青年の耳によく響いた。

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