■2000年4月23日 洋館にて 2
駆け足で階段を上ると、丁度登りきったところで末娘と長女と鉢合わせした。
二人とも少女のやつれた顔に驚いている。
末娘が少女の様子を見て「ねえ、どうしたの?大丈夫?疲れてしまったの?もしかして、あたしの好きな料理がお口に合わなかった?」と、少女の顔を包んで心配する様子を見せた。少女はその温かさに鳴きそうに瞳を潤ませた。長女は眉を下げて、少女にゆっくりと、言い聞かせるように口を開いた。
「私たち、これからお風呂に入る予定なの、いつもは20時にはメイドと執事が入浴の準備を終わらせてくれて、入れるようになっているから。よかったら、一緒にどうかしら。お風呂に入ったら、少しは気持ちもスッキリするかもしれないわ。それに……遠くからお越しになられたから、疲れたでしょう?」
長女は少女の背中を優しく撫でる。労わってくれているのがよく伝わって、泣きそうになってしまった。
「そうね、それがいいわ!それに、あたし、あなたと一緒にお風呂入りたかったのよ!」と笑う末娘が、少女の手を取る。
少女は、二人の提案に頷くことにした。気分転換になると思ったし、青年から離れることが出来ると思ったからだ。逃げていることは重々承知だったが、それでも今は青年と顔を合わせたくなかった。少女は長女と末娘と共に階段を下る。階段を下り終わったところで、先ほどの転びそうなったメイドとすれ違った。メイドは三人を見て頭を下げると「皆様、入浴の準備は出来ておりますので、いつでも入れますよ~!もちろん、お客様の分もばっちり準備してありますからねっ」と、ぱちんとウインクを少女に飛ばすと、少女は「あ、ありがとうございますっ」と礼を告げた。
何から何まで至れり尽くせりで、少女はこれがお金持ちの生活なのかと場違いなことを想っていた。
「それと、さっき貴女、私を手伝ってくれようとしてくれて……。あの!こっちこそ、本当にありがとうございます。私ったら、本当にドジで。弟みたいに優秀じゃないから……転んでお皿を割っちゃったり、さっきみたいに、コップを間違えたりしちゃうんですよ。メイド失格ですよね。私、弟と同じように、この家に恩返しをしたくてここに雇って貰ったのになあ」
ため息をつくメイドの言葉に、少女はすかさず「そんなことはないですっ」と言い切った。
驚いたような表情をするメイドに、少女は続ける。
「メイドさんのお仕事って、わたし、はじめてみたけど……すっごく大変そうで。だから、そんなに自分を責めることはないですよ!もしもよければ、わたしも手伝いますからっ。手伝えることはないかもしれませんけど…」
心からの言葉をメイドに贈る。メイドは、少女の言葉にじんときたのか、すぐに涙目になって目を潤ませた。
「あ、ありがとうございますう……あなた、とってもいい人ですね!」
今にも泣き出しそうな表情で少女をきらきらした瞳で見つめていると、メイドははっと何かを思い出したような表情をした。
「ごめんなさい、私、次期当主様にお届け物をしなきゃいけないんでした!あまりの感激に忘れてた……!じゃあまた明日もよろしくお願いします!あっ、お着替えとお荷物はちゃんと客室にお届けしておきますね~!」
ぺこりと一礼した後に、彼女は駆け足で階段を上っていった。少女は、メイドに手を振って見送り、二人に案内されるように浴場へと向かう。
「あの人、とってもキュートでしょ?がんばりやさんで、あたし、メイドさんのことも大好きなの」
そう歌うように話しながらスキップしながら進む末娘に、長女は「転ばないようにね」と、末娘に心配のまなざしを向けていた。
「転ばないわ!」
ふわふわとした茶髪を揺らして笑うお姫様に、少女はつられて微笑んだ。
入浴が終わった後も、少女は青年の事を考えていた。
あの悲しみに堪えたような顔が忘れられない。青年は何処にいるのだろうとふと考えるけれど、洋館のどこかの部屋にはいるのだろうと思えど、いまはまだ会う気になれなかった。
その思案が表情にも出ていたのか、末娘はしゅんとした顔を作ったあと、少女の手を取りまた向日葵のような笑顔を少女に向ける。
「ねえ!よかったらまたあたしの部屋で遊びましょうよ!」
少女は目をぱちくりとさせたが、断る理由もないのでそのまま頷くと、末娘は「やったわ!」と嬉しそうにくるりと回って少女に抱き着いた。少女は彼女の明るさに照らされて、再び末娘に笑いかける。
少女に抱き着いたまま末娘は、長女に顔を向ける。
「お姉様も一緒と遊びましょう」
末娘がそういうと、長女は申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさいね。勉強があるから……また明日も話せるでしょう?」
そうと諭すと、末娘はむくれながらも、おとなしく引き下がった。
そういう経緯があって。
今は長女とは別れ、末娘と二人で部屋で遊んでいる。昼間のように服の交換会をしたり、お互いのヘアアレンジをしたり……誰かの家で遊ぶなんて、病室でずっと過ごしていた少女にとっては、はじめてのことだった。病室で出来ることと言ったら、本を読むことと空想するぐらいしかなかったから。
「そうだわ!あたしね、本を読むのも好きなのよ」
末娘は大きな本棚にしまって本をいくつか取り出して、少女に渡す。本の背表紙は革で作られており、少女はどの本も見たことがなく、この場で本を読破したい……この本について知りたいという気持ちが膨れ上がった。
「凄い、どれも初めての本ばっかり……みんな、読んでもいいの?」
「もちろんよ!あたしと……あと、お姉様のお気に入りの本なの。よかったら読んでみていただけたら嬉しいわ!あたしのことは気にしないで、好きに読んでね」
はじめて読む本を見た少女は、時間を忘れて読書に没頭した。
末娘の渡してくれた本はいろいろだ。絵本みたいに穏やかなおとぎ話から、哲学や政治に関する難しい話題の内容も混ざっていて、当然、読んだ本の内容を全て理解することは不可能だったが、少女は本をじぃっと食い入るように見つめ、ページをめくる手を止めなかった。
末娘は、隣で座る少女を見て。
「まるで、お姉様みたい。きっとお姉様とも仲良くなれるわ!」
そう嬉しそうに笑ったが、少女は本に夢中で、聞き取れることはなかった。
窓に映る景色がすっかりと夜になる頃に、こんこんと誰かが末娘の部屋の扉をノックした。
少女は丁度、末娘が勧めてくれた最後の本を読み終えたところだった。
誰なのだろうと視線をそちらに向けると、末娘が「はあい!」と扉を開ける。
扉の先には、奥方が綺麗な姿勢で立っている。奥方は少女を認めると、申し訳なさそうに眉を下げて告げた。
「本当にごめんなさい。あなたが今日寝泊まりする部屋の就寝の準備ができたと執事から聞いて、呼びに来たの。……ふふ、今日会ったばかりなのに、もうそんなに仲良しなのね」
二人に目を向けてゆったりと笑む奥方の表情には、楽しみを中断したことへの罪悪感が伺えた。
「ええ、もうそんな時間なの?時間がたつのって本当に早いのね。また明日も遊びましょう?ご飯も一緒に食べましょうね!」
末娘は少女を見て微笑む。
少女は「うん!また明日ねー!」と大きく手を振って、奥方と共に末娘の部屋から出た。
(さっきまでは青空だったのに、時間が一気に飛んじゃったみたい)
体感でそう感じるのだから、末娘の言う通り、時間が流れるのは本当に早いものだ。
昼間は賑やかで明るかった洋館も、夜の帳に包まれた今では静けさに包まれていた。人がいない、という意味ではなく、この洋館そのものが、まるで眠りに落ちているかのように静黙していた。少女は時間の経過で、これほどまでに雰囲気が変わるのかと改めて実感した。
こつん、こつん。
奥方のヒールの足音が規則的に、洋館の静寂を小さく崩している。客間は一階にあるから、階段を使って向かうことになった。そういえば、これほどの高い階段を上り下りしたことがなかった気がすると、少女は少し心が躍った。普段はこの時間はもう眠りに入っている時間だったから、いけないことをしているような気持ちになる。
奥方が、ふと少女に目を向ける。
少し迷ったそぶりを見せた後に、その迷いを形にするように言葉を作る。
「あの子、……あなたと一緒にいた男性ね。ずっとこの家に帰ってきてなかったの……。だから、家族全員が心配して、何処にいるのかもわからなくて。だから、貴女を連れて戻ってきたときにびっくりしたのよ。……あの子、元気にしてた?」
少女は、一瞬沈黙した。夕食後の青年の姿が過ぎる。
けれど、少女は微笑んで「はい、お兄さんはいつもわたしに気を使ってくださいました。両親が亡くなってから、ずっとそばにいてくれたんです。とても、いい人です」と素直に感じたことをそのまま奥方に伝えた。奥方はその言葉を聞いて、「そう」とだけ言うと、しばらく沈黙した。何かを飲み込んでいるような表情だったが、その表情の真意を少女は推し量ることは出来ない。しばらく目を迷わせれば、改めて少女に向き直る。長女と同じ深いエメラルドの瞳が少女を見つめていた。
少女の足が止まる。
留めた碧に、ただただ見惚れた。
「主人はね、最初はあなたをここに泊めることを反対していたのよ。見知らぬ人を泊めるわけにはいかないと。けどね、あの子が必死に説得したの。"自分一人では限界がある、あの子に暖かさに包まれてほしい、しばらくでいい"って。あの子があそこまで強く言うなんて、あまりなくてね。だから、主人もあの子の熱意に根負けして、貴女の滞在を許可したの。今日の寝る場所も、自室じゃなくてね、貴女の傍にいたいっていうのよ。本当に、彼は貴女のことが大好きなのね」
ぽつぽつと、秘密を話すようなそぶりで奥方は語る。
少女の心は様々な感情で溢れかえりそうになった。青年は、そのようなことを想っていたのかという驚きが、少女の身体全身を巡った。青年はあまり言葉数が少ない人間だったから、そんな風に思っていたとは思ってもみなかった。いや、考えてみればそうだ。家族のことも、能力のことも、彼なりに理由があって口を噤んでいたのだ。それに悔しくなって言葉で殴ったのは何処の誰だ?
青年の優しさと気遣いに、泣きたくなるほどに嬉しそうになってしまうと同時に、夕食後に言いがかりをつけてしまったことを、少女はひどく後悔した。なんてひどいことをいってしまったのだろうと、強く唇を噛みしめる。
少女の様子を見て、奥方は困ったような表情をしたあとに、少女の頭を優しく撫でた。
「貴女がよければ、これからも、あの子と仲良くしてあげてね」
少女は、すぐに「はい、勿論です」と、絞り出すような言葉と共に頷いて、再び二人は歩き出す。
ほどなくして、客室についた。
豪華な両開きの扉に、少女は思わずため息が出た。奥方は音を立てないように扉を開け、少女を室内へと促した。
少女が客室に入ると、まさに豪華なホテルのロビーのような部屋だった。高級感漂うこげ茶のソファと大きなテーブルに、豪華なダブルベッド。ベッドを見れば真っ白なシーツが敷かれていて、きっとこのベッドで眠ったら素敵な夢を見れるのだろうなと少女は空想する。ベッドの近くには、少女の荷物が綺麗にまとめられていた。あのメイドの女性がやってくれたのだろうと、少女は明日起きたらお礼を言おうと心に決める。奥方に「メイドには感謝していると伝えてほしい」と頼むことも考えたが、どうせならちゃんと自分でお礼を伝えたかった。
そして、二人掛けのソファには青年が寝息を立てて眠りに落ちていた。
手袋をつけたままの右手には、開いたままの手帳が置かれている。どうやら、手帳を呼んでいる最中に眠ってしまったようだった。
興味本位でその手帳をそろりと引き抜いてを覗いてみれば、今日の食卓に出されていた魚料理のレシピが簡潔にまとめられていた。
思わず、少女はふ、と声を堪えるようにして笑ってしまう。
あの時、執事に話を聞きにいったのは、この魚料理についてを教わるためだったのだと、少女は理解した。
手帳を閉じて、再び青年の右手に戻す。青年の寝顔は穏やかだった。
「あら、この子ったら、お客様がきているのに……先に寝てしまうなんて」
奥方が眉を下げるが、少女はすぐに「いいえ、大丈夫です」と小さな声で言うと、奥方は困ったように微笑む。
「本当にごめんなさいね……」と告げる表情には、青年と少女に向ける慈しみが宿っていた。
「今日はもう夜遅いから、しっかりと休息をとってね、また明日」
奥方は少女と、既に眠っている青年に「おやすみなさい」と告げて、彼の頭を一つ撫でた。
少女もまたひそひそ話をするような声色で「おやすみなさい」と奥方に告げる。
彼女は淑やかに口元を緩めると、再び音を立てないように気遣って扉を閉めた。
ぽつり、その場には二人が残される。時計の秒針の音が、とん、とんと、歩くように時間を刻んでいく。
青年の端整な寝顔を見ながら、少女は思いを巡らす。
10年間共に過ごしてきたけれど、彼について知らないことはそれこそ星のようにあるのだと、今日実感した。
だから、いつかはちゃんと聞こう。苛立って、ひどい言葉を浴びせてしまったことも謝ろう。
彼の歩んできた道を、ちゃんと見て、知りたいから。
少女は、荷物から末娘以外には見せてこなかった形見のアクセサリーをぎゅっと握り締めて、それからベッドに潜った。両親が亡くなってから、このアクセサリーがないと眠れないようになってしまった。ソファで眠る青年を見た後に、少女は瞼を閉じた。
この日は長旅で疲れていたからなのか、それとも青年が傍にいる安心感なのか。
少女は、深い眠りに落ちていった。
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