異変

窓から差す光が、きらきらと少女の顔を照らす。

少女は僅かに目を開けた。起きたばかりでまだ意識がぼんやりとしていて、視界が定かではない。そのままゆったりと体を起こす。緩慢に漂う死と薬の匂いがない部屋に、少女は未だに慣れていなかった、アクセサリーを持ったまま、自分の腕に点滴がないことを確認してしまった。ないことを確認にすると、ほ、と小さく息を吐く。いつかは、点滴がない日が当たり前になっていくのだろうか?少女は、その日が早く来ることを願った。ふと、部屋を見渡してみれば、ソファに青年の姿はない。どうやら先に起きていたようだった。普段、学校に行くときは、必ず青年が起こしてくれていた。きっと、少女を気遣って敢えて起こさなかったのだろう。

少女はアクセサリーを肩掛けバッグにしまおうと手を動かした時、ある言葉が少女の脳裏をよぎる。


__ねえ、それって、誰にも言っちゃ駄目よ。見せてもいけないわ。約束して、あたしとあなただけの秘密よ。


「じゃないと、怒られちゃう、かあー」

零れる独り言は、誰にも届かない。少女はアクセサリーをしまう直前、末娘の言葉を思い出していた。

あの言葉には、どんな意味が込められていたのだろうか。

形見と同じ形をしたアクセサリーを、何故この家族は身につけているのだろうか?

今日、改めて聞いてみようと、少女は小さく心の中で決意した。

アクセサリーをバッグの奥へと隠すようにしまう。

そういえば、荷物はこのバッグ一つしか持ってきていないことに、少女は今更ながら気がつく。

まさか、洋館に泊まるとは思っていなかったから、当然着替えなんて一つも持ってきているわけがない。

客室にあるクローゼットを見れば、染み一つない新品の女性の衣類がハンガーで綺麗にまとめられていた。着てもいいのだろうかとしり込みするぐらいに高級感が漂っている。けれども、寝間着で廊下を歩くのは失礼だ。しかたなく少女は恐る恐るクローゼットの中にしまってあった、胸元のワンポイントに彩られたリボンが愛らしいワンピースを着ることにした。予想はしていたが、サイズは少し合わない。小柄な少女が着ると、膝下まで丈のあるゆったりとしたロングワンピースのようになってしまっていた。


「うーん、予想はしてたけど、やっぱり合わないよね。どうしよう。合う服があるか、あとで奥様に聞いてみよう。うー、もう、どうしてこんなに背がちっちゃいんだろう。もっともっと大きかったら、おじさんにしゃがんでもらわなくても頭を撫でたり出来たのに……」

落胆と共に少女は部屋を出る。これまでも、身長に悩まされることはたくさんあったが、自分の身長が大きければ、こんなことにはならなかったと今までの人生の中で一番どうでもいいような理由で大きなため息をつくことになった。少女にとっては深刻な問題なのだが。


廊下に出ると、メイドがいくつかの衣類を抱えて歩いているのが見えた。こんなに朝早くから働いているのと、少女は感心する。

少女は「おはようございます!」と声をかけると、メイドは、白いワンピースを身に着ける少女をまじまじと見つめた。

「わあ、とってもよく似合ってますよ!……あ、ああー!ご、ごめんなさい、もしかしてサイズ合いませんでしたか?一番ちっちゃいサイズを選んだはずなんですけど、と、とりあえずこのお洋服を運んでから後でサイズ測らせてもらってもいいですか?!っていうか昨日測ればよかったですね…?!もうどうして私ってこんなに鈍くさいんでしょう!」

表情がころころと変わるメイドを見て、少女は目をぱちぱちと瞬かせたあとに、このままだと勢いでサイズで測られそうだと思い「ああ、大丈夫ですよ!あの、私このワンピース着て今日はいますから!だから、メイドさんは今のお仕事を優先してください!」と両手を挙げて遠慮する仕草をした。メイドはおろおろとせわしない様子のまま「ああ、ありがとうございます!すみません!」といいながらそのまま廊下を走り去っていく。本当に使用人の仕事は大変なのだろうなと、少女はひどくいたたまれない気持ちになってしまった。

(結局、お礼も言えなかったな……)

少女は再びため息をついた。


ロビーへと向かうと、昨日と同じようにテーブルの上に6人分の椅子が用意されている。

その中には、勿論少女の分もしっかりと含まれていた。

丁度テーブルに料理を並べているところのようで、奥方が執事と共に料理をテーブルに並べている。少女に気がついた奥方が、テーブルにパンの乗せられた皿を丁寧に音も立てないように置いた後「おはよう。昨日はよく寝れた?とても早起きなのね。もうすぐ朝食の時間だからね」と笑いかける。少女は「おかげさまでよく寝れました。一緒にお手伝いしてもいいですか?」と言うと、奥方は「いいの?よかったら、一緒にお皿を並べてくれる?あそこのキッチンに料理があるから」と言うと、執事に目を向けた。執事は「かしこまりました。ではこちらに」とだけ言うと、少女をキッチンへと案内してくれた。キッチンの近くに配置されたテーブルクロスのかけらえた机の上には、ふかふかのパンが数皿残っていた。ジャムの入った瓶も人数分あったから、これらも後でテーブルに配置するのだろう。

少女は「昨日の夕ご飯も、今日のパンも執事さんが全部作ったんですか?」というと、これまでまったく表情の変わらなかった執事が、僅かに口元を緩ませて「はい、私は料理をするのがもともと好きなので、存分に振るわせてもらっています」と心なしか自慢げに答えた。今まで、料理なんて作ったことがない少女は、料理を作れる彼に憧憬の念を抱いた。少女は「今度、時間があったらわたしも料理おしえてくださいっ」と、執事に頭を下げる。

「……私などの料理でよければ、喜んで」

彼は目を細めて快諾してくれた。

「ありがとうございます!」と少女は笑顔でお礼を言ったが、しばらくして少女は首をかしげることになった。

執事が、時が止まったように少女を凝視していたからだ。

その瞳は、何処か懐かしいものを見るような、戻らない何かを見たような……かつて失ったものを、もう一度目にしたようなそんな歓喜と驚愕がないまぜになって融け合っていた。

「どうしたんですか?」と心配して声をかける。

執事は見るからにうろたえた様子で目をさ迷わせたが、すぐに表情を取り繕って、皿を持ってその場から逃げるようにキッチンから姿を消した。

いったいどうしたのだろう?

何か思う所でもあったのだろうか。

少女は残っているパンが冷めないうちに、皿を持ってテーブルへと向かうことにした。


朝食の準備を終えた頃に、青年と長男、そして遅れて長女が階段から降りてきた。

青年は何処に行ったのだろうと思っていたのだが、どうやら二階にいたようだ。青年がいることに、少女は安堵感を覚えた。「おはようございます」と明るく三人に向かって挨拶すると、青年が一番に「おはようございます」と美しい声で紡いだ後、階段を足早に降りて少女の傍に立つ。

「自力で起きるのは珍しいですね。体調はどうですか?」青年は少女を労りの言葉をかけると、少女は「だいじょうぶだよ!もう、おじ……お兄さんったら心配性だなあ、ちゃんと一人で起きれるもん」と言って、ほっぺを膨らませて顔をぷいっと背けた。青年はいつまで子ども扱いしてくるのだろう?こんなくだらない事で不満を持ってしまうから、子ども扱いされてしまうのだと思うと、自分の未熟さが恥ずかしい。

「おはよう。仲がいいんだね」

長男が二人ににこやかに声をかけてきた。青年は「何だかんだ一緒に暮らしてきましたからね」と、僅かに微笑む。何処か自慢げで、陽だまりを得たような優しい笑みに、少女も嬉しくなってしまう。長男は驚いたような瞳を青年に向けると、嬉しがる少女の方へ顔を向けた。青年と同じような形をした唇が震えたような気がする。

なんだろう?

少女が長男の言葉を聞く前に、背後から長女の少し焦りの混じったアルトの声が、彼の言葉をかき消してしまった。


「あの子が来ていないわ。いつもは、一番早く起きてご飯を待っているのに、どうかしたのかしら」

長女の言葉に、長男の瞳が驚きに揺れる。まるで信じられないような表情を浮かべている。

この屋敷に来てから一日しか立っていないから、少女はこの家族について何も知らない。

ただ、少女は10年間暮らしてきた青年については見える範囲の程度はわかるように、この家族にも、家族にしか分からないようなことが沢山あるのだろう。これから知っていくことになるのだろうか?そうだったら嬉しいけれど。

家族から伝わるわずかな違和感に影響されたのか、少女は荷物の中にあるアクセサリーに手を伸ばしそうになったが、ぐっとこらえた。

見せるわけにはいかない。末娘との約束だったから。

「本当だ、変だね。けど、寝坊しているだけかもしれない」

そう言うと、長男が階段を上った先にある末娘の部屋を見つめていた。心配した奥方が「じゃあ、起こしてくるわね。朝食の準備も出来ているから。主人は……朝から自室で仕事なのかしら、もう、本当にあの人ったら……」と愚痴をこぼしながらも階段へと向かう。一緒に行こうと、少女が奥方の後を追おうとしたが「いいのよ、貴女はここでまっていて。お手伝いもしてくれたんだから」と微笑む奥方に、少女は立ち止まり、そのまま見送るしか出来なかった。

こつん、こつん、奥方の履くヒールの音が、屋敷をとんとんと響いて消えていく。

ロビーにいる全員が、その様子を見つめていた。長男は「僕も見に行った方がいいかな」と、その場にいる全員に問いかけるように呟くと、長女は「大丈夫よ。貴方が言う通り、きっと寝坊しているだけだわ」と返したが、その瞳は不安に震えていた。

奥方が階段を登り切り、末娘の部屋に入った直後のタイミングで、客間の方面からメイドが現れる。疲れた様子で、足元をふらつかせながらも、皆がいるテーブルへと歩いてくる。「ああ、やっとお洋服のお取替えがおわりまし……って、あれ、皆さまどうかしたんですか?」と首をかしげている。「…お前、もうちょっと体力をつけた方がいいんじゃないか」と、今にも倒れそうなメイドに目を向けたのは、呆れた表情をしている執事だった。「そんな、わたしだって毎日部屋で筋トレして……う、うう……私の存在価値って……」とすぐに目を潤ませて泣き出しそうな顔をした。本当にこのメイドは、感情豊かで見ているだけでこちらも和んでしまう。少女はその様子を見て微笑んでしまった。

「あっ、今笑いましたね!見ててください。私だって弟みたいに優秀になって見せるんですから」と、両手をぎゅっと握り締めて全員に宣誓した。

その時だった。


劈いた悲鳴が聞こえた。


その場にいる全員が、凍り付く。

少女もまた、その悲鳴に意識を奪われた者の一人だ。どっと汗が噴き出していく。いったい何があったのだろう?何が?あの声は奥方のものだった。けど、昨日聞いたような穏やかとたおやかさを秘めた声なんかじゃない。尖っていて、狂っていて、黒板をひっかいたような不快感と焦燥感が沸き上がるような声だ。


先に一番早く動いたのは長男だった、迷いなく階段を上っていく。それと同時に、二階のほうから末娘の部屋とは反対方向から扉が開く音が聞こえた。視線をそちらに見やれば、主人が杖を持って二階の廊下を渡っていた。自分もいかなければ、そんな焦りと強迫観念にとらわれる。

何があったの?!あの子は大丈夫なの?!

混乱していく思考のままで、聞きなれた声が少女の耳に届く。青年は、長女に何かを告げると、そのまま階段を上っていった。長女は少女の傍に近寄ると、どこか緊張した様子で少女を見た。

「大丈夫?」

長女は少女の両肩を優しく触れ、少女を落ち着かせる調子で語りかける。

少女は「は、はい、大丈夫です」と、震えた声で答えることしか出来なかった。


再び、絶叫が聞こえた。

ぐずぐずになって、涙をまじったような声で、奥方が泣きながら叫んでいる。

それに耐えきれなくなった少女は、長女の手を振り切り、階段へ駆け出した。背後から「待って」と呼び止める声が聞こえたが、それも少女は聞き流した。一刻も早く様子を確かめなければならないと、少女は足を動かす。長い間病院で錆ついていた少女の足は、まだまだ走ることに慣れていない棒のようなものだった。なかなか彼女の部屋に辿り着かない。早くついて、着いてよと足を必死に鞭打った。


ひとつ、ふたつと、段を飛ばして走っていく。長い階段を、少女はようやく登り、二階の廊下を踏みしめた。すると、扉の前には青年が立っている。青年は、石になったかのように硬直していた。彼の表情には、戸惑いと驚愕と恐怖が入り交じっていて、部屋で起きていることの深刻さを物語っている。いったい何があったの?!と、少女が声をかけようとしたその時、主人と長男に部屋から連れ出される奥方が見えた。奥方は目を見開いて、虚ろな瞳で涙を流しながら、ぶつぶつと呟いていた。


「嘘、嘘よ。どうして、突然骨に、あの子が消えちゃう、おねがい、やめて。きえないで。きえないでよ。どうして 。はなして、離してぇ……!あの子がきえちゃう……。わたしたち、私たちの大事な子が、ねえ、離して!離してよ!お願い!あの子のそばにいさせて。あ、ああ!きえる!いや、嫌!」


明らかに常軌を逸した発言に少女は、全ての時間が停止したような感覚に襲われた。

自分の心臓がバクバクと震える。今にも爆発してしまいそうで、恐怖で潰れてしまいそうだ。

奥方の瞳に、少女はひどく見覚えがあった。

それは、その瞳は、自分が両親を失った時の__!


信じたくない。そんなの嘘だ。確認しなければ。

少女は、ただ衝動のままに足を動かして、末娘の部屋を覗いた。



これは、一体どういうことだ?



不可思議な出来事が広がっていた。

自分は、頭がおかしくなったのか?幻覚でも見ているのだろうか?

そう、思うぐらいに、この状況が理解できなかった。あまりにも現実的では無さ過ぎて。

パステルイエローの愛らしい部屋は、昨日と変化はない。昨日、末娘とたくさん遊んだ部屋のままだ。

ただ、違和感があった。

居るべき人物がこの場には居ない。


末娘が、どこにもいないのだ。


部屋の何処を確認したって、末娘の姿はない。

少女は混乱と恐怖に滲んだ脳内のままで、部屋の奥に設置されている窓に目が行った。そのまま、吸い寄せられるように歩いていく。最初は窓から逃げたのだろうか?と考える。けど、よく見たら窓はぴったりと閉められているし、そもそもここは二階で、まともに窓から飛び出たら落ちて死んでしまうだろう。なら、どこかに隠れているのだろうか?きっとそうに違いない。きっと、別の場所にいるはず。

明らかに狂った状況を直視しても、少女は都合のいいように思考が流れていた。

ここで、窓ばかり注意していた少女は、はじめて窓のすぐそばにあるベッドに意識を向けた。

ぬいぐるみがたくさん置かれていて、普段はこのぬいぐるみたちに囲まれて眠りについていることが簡単に想像ができるような、"かわいい"がたくさんつまったキングサイズのベッド。そのベッドの中央に、女性が着るような愛らしいネグリジェドレスが、まるで眠っているかのようにぺたりと広がっている。けれど、やはり末娘はいなかった。少女の目の前に映るのはその服か伸びるように広がる、大量の赤色の液体だけ。

一体、なんなのだろう?何が起きているのだろう?

その赤はベッドを染め上げていて、まるでその赤い染みが服を着て眠っているようだった。鉄臭い不快なにおいが、少女をじっとりと異常へと引きずりこんでいく。あまりにも異様なベッドを見て、まさか、と。少女は、混乱すらも目の前の恐怖に侵されていく。

もしかして、この染みが、末娘とでもいうのだろうか?

ありえない。だって、こんなことが起きるなんて__!


「おじさん、なにがあったの?おねがい、おしえて。ねえ……」

少女は、青年に聞いた。聞いてしまった。

この部屋で何が起きたのかわからなかったから。

単純に、気休めの言葉でも欲しかったのかもしれない。

大丈夫だよと、心配ないよと、末娘はどこかで隠れているだけだと、そう言って欲しかった。

そっちの言葉のほうが、たとえ嘘偽りでも、一時でも安心できるから。

けど、目の前の青年がそんな言葉を嘯く性格ではないことを、少女はよくよく知っていたし、同時に、嘘を言ってほしくないとも思っていた。

青年は迷っていたようだった。とてもとても言うのを躊躇っていて、少女に言うべきか言わないか、思考を巡らしているのが少女でもわかった。

3秒ほど、沈黙が流れる。その沈黙が、昨日よりも比べ物にならないほど、重い。

こつ、と靴音を立てて、青年は少女の前へと歩み出し、少女の瞳を見つめた。


絞り出すような、震えた声。普段の落ち着いた様子では想像できないほど、青年は憔悴していた。

青年は唇を噛みしめた後に、口を開く。

少女に聞こえるか聞こえないかのような声量で、言いたくないと明らかにわかるような態度で。

青年の言葉は、少女が思っている以上に残酷で、そしてこれ以上なく、わかりやすかった。


「俺も、わかりません」

「彼女は俺たちの前で、塵になりました。残ったのは、ベッドに広がる服と血だけです。何故、こんなことが起きたのかわかりません。俺が来た時には既に、ベッドの上に骸骨が横たわっていたのです。あれが、あの骸骨が、妹だったとは、信じたくありません。ですが、ああ、おそらく、あの骸骨が妹だったのでしょう。ベッドに残されている服は、末娘がよく着ていたお気に入りの服でしたから__」



彼の言葉から告げられる真実が、残酷に部屋に響いていく。

響く音が少女の耳を幾度も反芻して、染み込むように全身を毒していった。



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