■2000年4月23日 洋館にて

「おかえりなさい。もう、心配したのよ。今までどこにいっていたの?」

扉から出てきたのは、まさに貞淑なる貴婦人といった表現がふさわしい女性だった。

女性が青年を見て、心から安堵の声を出した。

長い茶色の髪をポニーテールにまとめ、ゆったりしたドレスを着こなす貴婦人の深いエメラルドの瞳が、青年と少女を優しく見つめている。

少女の服装を確認すると、貴婦人は首を僅かに傾げて青年に尋ねていた。

「そちらの方はお客様?」

目の前の貴婦人を知っているのかと、戸惑いを隠せないまま少女は、青年の顔を確認したが、その青年も目を見開いたまま硬直していた。

しかし、青年はすぐに貴婦人に向き直る。

「旅先で出会った友人のお嬢様です。両親を事故で亡くしてしまった子でして。引き取り手を探すまで、こちらで預かってほしいと死ぬ前に彼女の親に頼まれたのです。よければしばらくこちらに滞在させたいのですが」

青年はそれがまるでさも真実であるかのように貴婦人に説明した。

明らかな虚偽に少女は目を驚愕して青年の顔を見るが、青年は目で「話を合わせろ」と訴えてきたので、とりあえずは従うことにした。

貴婦人はその様子を見て瞬きしたあとに、二人に微笑む。

「わかったわ。けど、先に主人に顔を見せて、事情を説明して頂戴。あなたのことをとても心配していたのよ。ずっと帰ってきていなかったから……今は執務の時間だけど、きっと会ってくれると思うから。ささ、どうぞはいって。長旅で疲れているでしょう?あなたはゆっくりしていって」

その貴婦人の言葉は、前半は青年に、後半は少女に向けられていた。

青年は少女を見た後にしばらく考え込むそぶりを見せたが、再び奥方へと顔を向ける。

「解りました。先に顔を見せます。心配をかけさせましたからね。この子の事情も伝えねばいけません」

貴婦人の言葉に同意した青年に、奥方はにこりと微笑んで頷いた。


その様子を見ながら、少女は首を傾げていた。

二人の会話はまるでずっと前から知っていたような口ぶりだったからだ。


確かに、電車の中でここに来たことがあると言っていた。けれども、今の会話を聞く限り一度この洋館に訪れただけの関係のようには思えなかった。何よりもこの貴婦人は、青年に向けて「おかえりなさい」と言った。まるで、青年の身内だと言っているように。

いったいどういう関係なのだろう?

そんな置いてかれたような気持ちに囚われる少女の想いは知らず、青年は少女に近づいた。

「すぐに戻りますから」ゆっくりとした声で耳打ちして、少女を頭をゆっくりと撫でた後、そのまま洋館の奥へと姿を消した。

青年のブーツの靴音だけが、少女の耳に残っていた。貴婦人は少女と目線を合わせて、幼い子供に言うような口調でゆっくりと話しかけてくる。もしかしたら、自分のことを小学生か中学生だと思っているのかもしれない。少女は自分の小柄さを少しばかり恨んだ。


「ごめんなさい、あの子はきっとすぐに戻ってくるから。主人がまだ執務……忙しい時間だから、会えるのは夕食の時になると思うの。その時まで自由にしていいからね、客室にお通しするわ」


その言葉に少女は頷いて、貴婦人の後をついていく形で洋館に入ろうとした時だった。

「あら!お母様!おきゃくさまがきたの?さっき、お兄ちゃんに出会ったのよ!」

鈴のような愛らしい声と共に、また見知らぬ姿がぴょこりと顔を出した。

茶髪でまあるい紅い瞳をした、愛くるしい印象を与える少女だ。レモン色のワンピースは、彼女によく似合っている。

茶髪の少女は、自分よりも小柄で人形のように綺麗な少女を星が溢れんばかりの瞳で見つめた。

「うすーいふわふわロングの茶色の髪の毛と、桜色の瞳って、あなたって、月下美人のような雰囲気があって素敵ね!とっても綺麗よ!」

そう言って少女の小さな手をぎゅっと握る。

「あなたって何歳?あたし、この家のなかじゃいちばんの末っ子でね、今は16なの。もうすぐ誕生日を迎えるのよ!」

この洋館で一番年下の末娘らしい少女はずいっと顔を近づけて言った。

向日葵のような華やかな顔立ちが迫ってきて、少女は彼女の可憐さに一瞬だけ見惚れてしまった。

「いまは、17歳だよ。もうちょっとで同い年なんだね!」

花が咲いたように笑って少女は告げる。

「お姉様と同い年なんだ!」

末娘は先ほどよりもさらに嬉しそうに目を輝かせた後、貴婦人に顔を向けた。貴婦人は末娘の期待のまなざしにこたえる様に「丁度、お招きしようと思っていたところよ」と、末娘の頭を撫でた。満足そうな末娘は、ふと自分を見つめている少女の視線に気がつくと、顔を赤らめて「やだ!あたしったら……もう子供じゃないのに」と小さく恥じると、少女と導くように、家の中へと入っていった。

貴婦人__末娘の母親らしい奥方は、少女に「よかったら、あの子の我儘に付き合ってあげてくれるとうれしいわ」と、申し訳なさそうに笑った。その穏やかな笑みに、少女は自分の母親の面影を見出していた。

「はい」とだけ言葉を告げる。それ以上は何も言えなかったから。


「あたしが案内するわ!こっちよ!早くお上がりになって!」


少女はこくりと頷いて、末娘の手を取る。

向日葵畑に誘われるように、少女はこの洋館へと招かれた。



少女は改めて、洋館を見渡す。

アール・ヌーヴォーを意識した洋装は、外からみた廃墟と同じ洋館とは思えないほどに美しく洗練されていた。タイムスリップしたのかと思うほどだ。紅いカーペットが敷かれた広いロビーには、いくつかの椅子とテーブルが配置されている。ロビーの奥には二階に続く二つの大きな階段が続いていて、吹き抜けになっているからか、二階の様子をここからでも伺うことできた。

まさに、絵本や物語から飛び出したような、夢の洋館だ。

青を帯びた黒髪をポニーテールにしてまとめている燕尾服の青年が、少女に丁寧にお辞儀をした。

その美しい所作に、少女は急いで頭を下げて返礼する。

「執事さーん!いつもありがとー!」

末娘は笑顔で執事らしき青年に大きな声でお礼を言う。

執事が僅かに口元を緩めているのがわかった。


「ようこそ、あたしたちの家へ!ここはね、あたしたち家族が住んでいるんだけど、みんなとってもいいひとよ。あっ、さっきのかっこいい人は執事さんね!美人で素敵なメイドさんもいるのよ!二人とも、あたしたち家族のとおーい親戚の人でね、一応執事さん、メイドさんってよんでるけど...ちょっと他人行儀な感じがしてほんとは嫌いなのよね。そうそう、ここはロビー、あっちの壁にある奥の扉が料理室と食糧庫で……そうそう、あの廊下の先に客室があるのよ。反対側の廊下には浴場があるの…...そうそう、あのおっきな扉ね!あそこには脱衣所があって、その奥にお風呂場があるの。お風呂場はね、とっても広いのよ!プールみたいで泳げちゃうの!お姉ちゃんには、はしたないから泳がないでって怒られちゃうんだけど……」


末娘は少女の手を引いて、ロビーを通り抜けて、横に並んで三人分は余裕で登れそうな広さのある階段を少しだけ高さのある水色のヒールを履いたままで、慣れた足取りで階段を昇っていく。階段はとても真新しく、ちょっとじゃそっとじゃ壊れることはなさそうに思えた。少女の靴はありふれた運動靴で、少しだけ恥ずかしくなるが、末娘の底抜けに明るい笑顔に、そんな気持ちはすぐに吹き飛んでしまう。少女のまなざしを受けたまま、末娘は歌うように言葉を続けた。しかし、少女は末娘の言葉に時が止まったような衝撃を受けることになった。


「二階はね、あたしたち家族が使ってるフロアなのよ。三階もあるんだけどね、実質お兄ちゃんのステージになっているのよ。もしかしたら、あの綺麗なお歌をまた聞かせてくれるかもしれないわよ!……そう、言っていなかったわ!あたし末っ子って言ったでしょ?あたし、一つ上の姉が一人、二つ上の兄が二人いるの。ほら、あなたをここに連れてきてくれた男性がいるでしょう?それが、あたしのお兄ちゃん」


「え!そうだったんだ……」

少女は思わず素っ頓狂な声を出した。

青年がこの洋館で生まれ育ったことを、この家族に囲まれて過ごしていただろう事実を、少女は初めて知ることになった。それならば、先ほどの奥方との会話も頷ける。青年は自分のことを少女に話したことはなかったから、はじめての青年の過去に触れたような気がした。けれど、どこか半信半疑でもあった。彼は自分のことを少女の叔父だと言っていたが、どういうことなのだろう?それとも、末娘が嘘をついているのだろうか?わからない、わからないが……少女は、感激か、驚きか、それとも別の感情なのか、とにかく、いいようのない不気味な感覚に襲われる。

「どうしたの?」

末娘の心配そうな顔に気がついた少女は、自分の感情が悟られないように「あ、ううん、だいじょうぶだよ!」と言ってその場は取り繕った。


「あ、あそこの部屋があたしの部屋ね。左の階段をのぼって、すぐのところよ!お部屋の配置がね、鏡のようにシンメトリーになっているの。綺麗でしょう?そうそう!お父様の仕事が終わったら、きっと必ずご挨拶してくれると思うわ!お時間はちょっとしかないけど……だからそれまで遊びましょ?ね!」と、末娘は言い終えると、少女にまるでお姫様のような明るい笑顔を向けた。

少女は「ほんとうに、絵本のお姫様みたいだね!」と、末娘に向けて微笑んだ。末娘はそう言ってくれる少女に何か感激するものがあったのか、少女をぎゅむっと強く抱きしめると「かわいい~!」と思わず声を出した。少女は驚いたような声をあげて困惑している。末娘の方が、少女なんかよりも何倍も愛らしい顔立ちをしているのだ。その彼女から可愛いと褒められるなんて、お世辞でも信じられなかった。


「あなたって、本当に本当に、お花みたいで綺麗っ。今日初めてあったばかりだけど、あたし、あなたとお友達になりたいわ!ねえ、いきなりで驚いちゃうかもしれないけど、丁度買ったばかりのワンピースがあるの、よかったら着てみない?絶対あなたに似合うと思うのよ!」

末娘は自分の部屋の扉を開けると、自分の部屋より二回りほど広さがある空間が視界いっぱいに広がる。

少女はぱあっと目を輝かせた。こんな豪華な部屋を見るのははじめてだったから。


パステルイエローの部屋はとてもかわいらしく、末娘にぴったりだった。

末娘は「楽にしていいのよ!」と言って、ぬいぐるみでいっぱいのベッドの上にぽすんと腰掛ける。少女はその隣に座り、荷物から形見のアクセサリーを取り出すと、末娘がぎょっとして「あら!どうしてそれを持っているの?」と、驚愕した声を上げた。扉の周囲に人がいないことを確認してからゆっくりと閉めると、ひそひそ話で続ける。

「そのアクセサリー、誰から貰ったの?」

ふと末娘を見れば、少女の首にも同じ形をしたネックレスが下げられていることに気がついた。

末娘の胸元で揺れる銀色に輝く十字と丸を組み合わせたようなアクセサリーが、困惑した少女を映す。


「お父さんとお母さんの宝物なの」

少女がそう笑うと末娘の大きな瞳がさらに大きくなって、目をぱちぱちとさせる。

「ねえ、それって、誰にも言っちゃ駄目よ。家族の見せてもいけないわ。お父様にも、お母様にも、お姉様にも……お兄様にもよ!約束して、あたしとあなただけの秘密よ。じゃないと、あなたはとっても怒られちゃうわ!」

末娘は眉を下げて、今にも泣きだしそうな顔で少女の手を握った。同じぐらいに驚いた少女は「うん、わかった」とだけ告げると、ぎこちなく宝物のアクセサリーをバッグへとしまう。いったい、自分の両親はなにをしたのだろうと不安になってくる。この屋敷には、どんな秘密や歴史が在ったのだろうと、少女は初めて、未知の土地へ踏みこんだことを実感して怖くなった。

その後は、見たこともないような美しいヴィンテージワンピースをクローゼットから取り出した末娘の「このワンピースきてみてほしいの!」という努めての明るい声色と言葉に、末娘の気遣いを感じられて、少女は不安を一時的にでも忘れることが出来た。主に服の話題で盛り上がり、夕食の時間になっても二人は笑い合っていた。



「夕餉の時間ですよ」と末娘の部屋の扉をノックしたのは青年だった。

少女と末娘は丁度互いのお洋服を交換し合っていたタイミングで呼ばれたので、折角だからこのまま外に出てしまおう!といたずら心が芽生え、顔を見合わせた後にニコリと笑い合うと、二人で部屋から出た。青年は目をぱちぱちとさせて、面食らっていた様子だったが「二人ともよく似合っていますよ」といって微笑んでくれた。少女は「わたしまでいっしょにごはんをたべていいの?」と思わず声に漏らしてしまう。申し訳ない気持ちになってしまう。自分は部外者なのだ。混ざってもいいのだろうか?けれど青年は「この洋館の主人には説明を致しましたので、問題ありません」と少女に告げた。青年の言葉を信じた少女は、ほっと胸を撫でおろす。後日お礼をきちんとしなければと、少女は心に留めることにした。「やったわ!お父様に後でいっぱいお礼を言わないと!」とはしゃぐ末娘に、少女は嬉しくなって微笑んだ。少し前の段を青年が、それを追うように少女と末娘が階段を降りて、ロビーへと向かう。


ロビーに辿り着くと、横に長いテーブルには料理が6人分並べられていた。

空席を見る限り、残りは青年と少女二人だけのようだ。少女は座っている人たちを確認する。壮年の男性が一番豪華な席腰かけているから、きっと彼がこの屋敷の主人なのだろう。黒い髪と紅い瞳は、どことなく青年と似ていた。

先ほど出迎えてくれた奥方が、二人を見てにこりと微笑んだ。こげ茶色の髪を持った少女と同い年ぐらいの女の子は、少女をまじまじと見てすぐに俯いてしまった。俯く彼女の隣の席には、主人に似た黒髪の男性が、フォーマルな服装を着こなし、綺麗な姿勢で椅子に座っている。

その男性に少女は既視感を覚えた。


「ほら!とってもおいしそうでしょう?」末娘が豪勢な料理が並べられたテーブルを見て、少女に笑いかける。その言葉を受けて少女は改めてテーブルを見た。どの料理もとても美味しそうだが、それ以上に初めて見る料理も多く、食欲よりも好奇心が勝った。

「あの料理はなあに?」

コイを野菜を併せたような料理を見て、隣にいる末娘に質問してみる。

「サラムラ・デ・クラップよ!あたしは魚料理が好きなの。あたしの好きなものが貴女のお口にあうかわからないけど、よかったら召し上がってくれるとうれしいわ。執事さんの手料理はプロ顔負けなんだから!」

鼻を鳴らして心から自慢げに、彼女は教えてくれた。いったい、どうやって作っているのだろう?

少女が好奇心いっぱいでその魚料理を眺めていると、少し頼りなさそうな末娘が、少女の顔を覗いていた。

「ねえ、あたし、あなたの隣がいいわ!駄目?」

少女は「勿論いいよ!」と即答すると、末娘がいっきに向日葵のような笑顔に変わり、ちょいちょい、と手招きして、末娘が座る席の隣の空席に案内する。二人仲良く座る姿は、まるで姉妹のようだった。末娘と少女を挟むようにして、青年が隣にさりげなく腰掛ける。6人が席に着いたことを確認すると、壮年の男性がその場にいる全員に聞こえるような声で食前の祈りを口にした。

「貴方への奉仕を続けるために、この食事を祝福してください、私たちの敬愛する主によって、アーメン」


その言葉を皮切りに、夕食が始まった。

和やかに食事は進んでいく。少女は緊張であまり食が進まななかったが、いざ一口食べてみると、末娘の言う通り、料理は絶品だった。けど、味の良しあしは少女は良く判らなかった。長い間病院食だった彼女にとって、肉料理どころか魚料理も、全てが新しくてはじめてのことだったから。


主人らしい厳格な雰囲気を漂わせる男性の胸元につけられているものをみて、少女は目を疑った。

少女が持っているアクセサリーと似ていたからだ。

ただし、主人の身に着けるアクセサリーは、豪華な作りになっていて、どこか十字架を模した鍵のようにも見えた。少女は思わずああ、と声を零しそうになった。そういえば末娘も、形見のアクセサリーと同じ形のものを持っていた。ぱっと見渡してみていれば、場所は違うが、この場にいる全員が同じものを身に着けていることがわかる。どうして、その戸惑いの声を、よく通るテノールの声がかき消した、主人の鋭利な紅い瞳が少女に向けられる。少女は思わず縮こまってしまった。


「彼女は、しばらくこの屋敷に滞在することになるので、よく知っておくように」

主人はテーブルにいる家族に向けて告げる。

その声に慌てて少女は、丁寧に礼をしながら軽い自己紹介をし始めた。とはいっても、一言二言ぐらいの簡単なものだ。

「はじめまして、しばらくの間ここでお世話になります。よろしくお願いします」

そう言って少女が頭をぺこりと下げると、主人は少女に顔を向けて、皺を深く刻み微笑みながら告げる。

「何かあったら、娘や息子たちを頼ってくれて構わない。勿論、妻や私でもいい。慣れないところで暮らしていくのは大変だろう。君の部屋はまだ準備ができていないから、今日はメイドに客室に案内しよう」

そう言い終えると、主人は静かに食事に戻っていった。

この家族の寛大さに、少女は驚愕してしまう。

この人たちは、見も知らぬ人間をここまでかいがいしく受け入れてくれるのだ。青年は、一体主人になんと説明したのだろう?

主人の言葉に、末娘はと席から立ち上がり、自信満々に真っ先に宣誓した。

「もちろんよ!だってあたし、彼女のお友達だもの!」

末娘の様子を、男性が「こらこら、食事中に席を立たないの」と優しく注意する。

少女は、その男性の顔をじっと凝視してしまった。

あまりにも、自分の隣で黙々と料理を食べている青年とよく顔立ちが似ていたから。いや、似ているというレベルではなかった。黒曜の髪も、ガーネットの瞳も、身長も、声ですら、寸分違わず同じで、鏡写しのよう。青年がもう一人いるような感覚に、少女は戸惑いを覚えてしまって、彼をと青年を見比べてしまう。青年が眼鏡を外したら、それだけで見分けがつかなくなってしまいそうだ。

どうりで、既視感を覚えるわけだ。

少女がじっと見ていることにきがついたのか、青年とそっくりな男性は、少女に行儀よく微笑んだ。

「ああ、はじめまして。お父様からは君の話は聞いているよ。何か分からないことがあったら気軽に聞いてほしいな」

その微笑み方も青年とそっくりで、少女は驚きを隠せない。

「は、はい、よろしくお願いします」そう男性に言うと、焦りながらも頭を下げた。

「お兄様ったら、すぐに女の子を射止めて。次期当主様だからって!英雄色を好むっていうけれど。駄目よ、何人の女性を泣かしてきているの?あたしがこの子を守るんだから!あっ、紹介するわね。お兄様はとっても優秀で、一族の次期当主様なの。けど、あんまりにも素敵な人だから、沢山の女性の心を弄んできた悪い人なのよっ」

末娘は男性をじっとりとした瞳で見ながら、ぷっくりとリスのように頬を膨らませ、少女を守るように抱きしめた。その言葉にふっと気が抜けて、末娘をぎゅっと抱きしめ返す。お兄様、と呼ばれた男性は驚いたような表情をして取り繕う。

「待って待って、お客様に嘘言わないで、僕はそんなことしてないよ!今まで女性とお付き合いしたことないもの!あと食事中に抱き着くのはお客様にご迷惑だからやめてあげなさい」

そういって、末娘に再び注意していた。末娘はつーんとそっぽを向けていて、彼はさらに落ち込んだ様子だった。

少女は、まるでその様子が、以前家族ドラマで見た、個性的な妹弟たちをまとめる苦労性の長男みたいだなと思った。

少女は末娘に抱きしめられたまま、その長男に「お兄様なんですね。あの……彼とはどんな関係なんですか?」と笑みを作り、青年をちらりと見ながらも訊ねた。

男性__同じ顔の長男の様子を見て、青年は食事の手を止める。

長男は同じ顔の青年をちらっと眼で見る。その後に少しばかり声の調子を早くして、自慢げに言葉を続けた。


「僕と彼は双子なんですよ。ほら、よく似ているでしょう?昔は、よく間違えられていたぐらいなんだよ」


その言葉を聞いて、少女は思わず持っていたナイフとフォークを取り落としそうになった。

末娘ではなく、目の前の男性までが、青年のことを「家族」だと言い切ったのだ。

再び少女の心は驚きで、大きく揺らいだ。本当に?彼が?ここで?

隣にいる青年への疑心が次々と湧いてくる。隣にいる彼は誰なのだろう?少女は、いますぐにでも問い詰めたくなったが、それらは全部、今問うべきことではないと必死に抑えて、食事に集中することにした。あまり美味しくはなくなってしまったけれど。



食事が進む中で、少女はこげ茶色の長い髪をした女性が、自分を見つめていることに気がついた。

彼女が身に着けている紺色のワンピースは、美女の淑やかな印象をより強めている。

女性にしては多少低いアルトの声で、少女に言う。

「はじめまして。ごめんなさいね、ご挨拶が遅れてしまって。本当は夕餉の前にご挨拶するべきだったのだけど……部屋で本を読んでいたら……時間を忘れてしまって、貴女が来たことに気がつかなかったの。しばらくの間になると思うけど、仲良く出来たら嬉しいわ」

美女はそう少女に笑いかけた。緊張しているのか、笑顔が固い。

少女も同じようにぎこちないけれど、長女に小さく笑った。

末娘が向日葵のような笑顔だとしたら、目の前の女性は夜の静かな海を思い出させる微笑みだ。

少女はしゃんと背筋を直す。無礼な態度は出来ない。

「はじめまして、勝手にお邪魔してすみません。しばらくここにお世話になります」

そう言いながらも、頭を下げた。末娘の話から想像するに、彼女が一歳上の長女なのだろう。

同い年のはずなのに、大人びた雰囲気に加え気品に溢れていて、少女は思わず敬語になってしまう。

「元々、誰とでも仲良く出来る子だけど……ここまで懐くのは珍しいのよ。凄いわ」

あたたかいまなざしで末娘を見て、そう長女は淑やかに笑む。ひとつひとつの視線や動きが綺麗で少女は見惚れた。

奥方は、娘と息子が楽し気に話す様子を見て、淑やかに微笑んでいる。

「本当に、あなたがきてくれてよかったわ。難しいと思うけど……本当の家族のように頼ってくれていいからね」

奥方が少女に向ける目線は、母親が子に向けるような慈愛を込められていて。

少女の瞳の裏に、再びかつての母親が自分を愛おしそうに見つめる瞳が見えた気がした。

少女は、母親の桜色の瞳を思い出しながら、僅かに「はい」と声を出した。

リラックスしていいと言われても、ずっと病院暮らしで、なおかつ青年以外との個人的な関わりを持ってこなかった少女にはなかなかに難易度が高くて、さらに身体がカチコチになってしまった。


「あの、いいですか」

これまで一言も言葉を出さなかった青年が、声を出した。

緊張の糸が張り詰めていたからか、バッとそちらを振り向いてしまう。青年は、今はいつもならつけている手袋を外していた。

「このコップは俺のではありません。彼のではないでしょうか?」と、手に持っていたコップをこつりとテーブルに置いたあと、同じ顔をした男性へと目を向けた。男性は驚いたようで、自分のコップを確認している。少女は、二人のコップを見比べるが、特に違いは見つからない。まるで青年と男性のように、寸分たがわず同じだった。どこで見分けがついたのだろうと思う。青年の目が素晴らしいのか、何か別の理由か。いずれにせよ、少女のあずかり知らぬところであるのは確かだったのだから、少女は少し寂しさを覚えてしまう。

そんなことを考えながら食事を勧めていると、突然「ああ~!」と気の抜けた声が聞こえた。

その声の方向を見ると、焦った様子のメイド姿の女性が駆け寄ってくるのが視界に映る。

執事と同じオレンジ色の瞳と鼠色の髪を持ったメイドは、素朴だからこそ、というのか、とても安心感を与える顔立ちをしていた。


「ご、ごめんなさい!うっかり、間違えてしまって!今交換いたしますね!」

メイドはコップを取り落とさないようにして受け取る。今にも転びそうな雰囲気に、少女は手伝おうと席を立つが、メイドは「お客様はくつろいでいて大丈夫です!お任せくださいっ」とにこりと笑うと、こつこつとした足取りで、その場を離れていく。その途中で滑って転びそうになったが、どうにか体勢を整えたらしく、駆け足でその場を去っていった。

数分も立てば、メイドが戻ってくる。彼女の手には先ほどの同じコップが手に収まっているように見える。

少女には、間違えたと言われるコップと、今の彼女が持つコップの違いが全く判らなかった。正しくテーブルにコップが配置されると、長男は青年に「そこまで気にしなくてもいいのに」と、困ったように微笑んでいた。

「兄さん、それってどうやってわかったの?凄いわ、魔法でも使ったの?」

長女は、何処か興奮したような様子で青年に問いただしていた。

末娘は青年と長男をきょろきょろと見比べた。

「きっと、長年のカンってものね!本当、お兄様とお兄ちゃんは昔は家族でも見分けがつかなかったぐらいにそっくりだったもの。双子特有の力があるのね」末娘はそんな事を自信たっぷりに言い切った。いい事を言った!と全身で主張しているように。

「あはは、そんな力があったら苦労してないよ……」

長男は頬を掻きながら困ったように笑っていた。


全員の視線が集まる中、青年は彼らの会話に一切参加しようとせず何食わぬ顔をして食事を続行していた。さらにすっかりと完食している。青年は「ごちそうさまでした」と告げると、食器を持って席から離れ、足早にその場を去っていく。まるで、その場から逃げ出すような速さだった。少女は思わず席を立ち、追いかけたくなったが、まずは目の前の豪華な食事と戦わないといけないと思い直し、青年の背を追うことを我慢する。末娘が好きだというを魚料理を一口分、ぱく、と口内に放り込んだ。


夕食会が終わる頃には、時刻は19時になっていた。

少女は真っ先に青年のところへと向かった。奥方に聞いてみると、どうやら青年はキッチンにいるらしい。

「あの子、執事さんに用があったみたいで、結構長居しているみたいだけど……呼びましょうか?」

奥方のその言葉に、少女は「お気遣いありがとうございます、大丈夫です、終わるまで待ちます!」といって、ロビーにある客間で待つことにした。青年が出てきたのは、それからさらに30分のことだった。席に座る少女を見て、足早に近づくと彼女の隣に座る。

静寂がその場を支配したが、先に破ったのは青年だった。少女に顔を向けて「夕餉はどうでしたか?」と聞くと、少女は「うん、とっても美味しかったよ」と、静かに微笑んだ。

二人の間に、ぎこちなさが漂っている。

沈黙が辛くて、少女は会話を続けようと必死に話すための話題を捻りだした。


「ねえ、おじ、ええと、お兄さんは、どうしてあのコップが双子のご兄弟のコップだってわかったの?」


青年は、すぐには話さなかった。

少女の素朴な質問に僅かに目を見開いたあとに、顔を伏せる。その様子には、何処か寂しさのようなものがふわりと漂っている。

呼び方に何か思う所があったのだろうかと、少女は口には出さずに考える。今は自分は「知人の娘」なのだから、「おじさん」というのは少し違和感を覚える。だから、表現的には正しいはずだ。実際に自分は彼の姪ではないのだから、間違えではないはずだった。そのはずなのに、心臓に膿が出来たような苦しさを覚えていた。こんな言い回しなんて、本当はしたくなかったから。

遠慮なく、おじさんとそう呼びたかった。けれど、今は呼ぶことが出来ない。

青年は、手袋の嵌められた両手に目線を落として、唇を開いた。

「俺は、手で触れたものの記憶を見ることが出来ます。ですが、これが厄介で……力の制御が出来ないんですよ。素手で触れたら、無条件にその物の記憶が頭の中に流れ込んでくるのです。長く触れ続けるだけ記憶をさかのぼることが出来ますが、その分体力を使います。先ほど、俺は手袋を外して食事をしていましたから、それであのコップが俺のではないと解りました」

どうか内密に、自分の両手を軽く握り告げる青年に、少女は静かに、誰にも気づかれないほどの振れ幅で小さく頷いた。

物の記憶を見ることが出来るなんて、まるで物語の中に出てくる魔法みたいだと、少女は思う。

確かにいつも青年は手袋をつけていたが、それはこういうことだったのか。

彼の話が本当なら、手袋をつけないと四六時中、別の情報が頭の中に入ってくるということになる。うっかり素手でペンを触れたら、ペンが覚えている記憶が勝手に流れ込んでくるのだろうか。少女のお気に入りのファンタジー小説のワンシーンで、物の記憶を見て重要な事件の手掛かりを見つけるというものがあった。けれど、日常生活においては基本的には必要ないだろうし、物の記憶を見れるなんて言われても、普通の人は信じられないだろう。

それは確かに物事に集中することが難しくなるし、疲れるかもしれない。

少女は、物の記憶を覗くことが出来る能力を持っていたことには驚かなかった。


驚愕以上に。

青年が、自分に言ってくれなかったことがある。

それが、とても寂しく思えた。


少女の寂しさは、そのまま言葉となり青年に零れる。

「けど、どうして言ってくれなかったの?」

もどかしい気持ちで問いかけた。

少女の質問に、青年は当たり前の事のように答えた。

「貴女と二人で暮らしていく上では、言う必要がないと思ったからですよ。物の記憶を見てまで、気になることはありませんから。貴女はまだ退院したばっかりですし、心配させるわけにもいきませんしね。疲れるといっても、少し触る程度ならほぼ日常生活には支障ありませんし、俺が気を付ければいいだけの話ですから。貴女には俺のことを気にせずに過ごしてほしかったんですよ」


その青年の言葉が、少女の琴線に触れた。

食事会の時からたまっていた不満を内側から破裂させるように。


「ちゃんと言ってくれたら怒らなかったよ!なんで言ってくれなかったの!もう知らない!」


先ほどよりも大きな声で青年に、怒りの言葉を投げつけた。


とても身勝手なやつあたりだと理解していた。

けれど、どうしようもなく、たまらなく悔しくて、何よりも悲しかった。

だって、もしも言ったとしても、多少の気遣いが増えるだけで、何も変わらなかっただろう。彼の能力のことも、生まれのことも。知ったところで、少女は青年のことが大好きなのだ。どうして躊躇する必要があったのだろう?10年間の時間の中で、自分がこれほど無力でか弱い存在だと彼に思われていたことに、少女は泣きそうになった。

それが、全くの間違いではないのだからなおさら救いようがない。つい一週間前までは、自分は病院から出れなかった、体の弱い、小さいお人形のような女の子だったのだから!


は、と少女が顔を上げると、青年の端整な顔は悲しみで歪みきっていた。

少女は、その表情を見て、目を見開いたまま首を横に振った。

彼を悲しませた。

辛い気持ちをさせてしまった!

自分の言葉のナイフのせいで!

少女の心にも、後悔が次々と湧きだしてくる。

けれど少女はあまりにもその場にいるのが苦しくて、客間の席から乱暴に立ち、そのまま階段のほうへ逃げるように後にした。

その場に一人残された青年は、布に覆われた両手を強く握り締め、唇をぎゅうと噛みしめた。

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