Phalaenopsis
その言葉が、決定打になった。
何も言えなくなった少女は涙を溢れされたまま、青年の身体を留めるように抱きしめた。
小さな体では彼を繋ぎ止めるなんて出来るわけもないというのに、何処にも行かないように彼を抱きついていた。何処にもいってほしくなくて、ここで終わってほしくなくて。なによりも少女の傍にいてほしくて。その想いだけで彼を離すことが出来なかった。
不意に頭に、温かいものがぽんと触れた。青空の下で流れるそよ風のような優しさが伝わって、少女の感情が心のうちから沢山溢れて止まらない。ゆっくりと顔を上げた先には、青年が優しい笑みを浮かべている。少女の頭を丁寧に、触れるように撫でて。
彼の瞳を煌めかせる祈りが、少女の瞳に映る滲んだ桜色の空をより輝かせる。
その輝きは輝きと言うにはあまりにも儚くて、けれども少女の心を灯すのは十分過ぎるほどに美しかった。
判っていた。
青年はとっくの昔に、答えを出していることを。
自分の言葉では青年は決意を変えないということも。
それでも、どうしても、言わなければいけなかった。
きっと青年と全てをさらけ出して話せるのも、これが最後だから。
「本当に、本当に大丈夫かな?……おじさんがいなくても、生きていけるかな……」
青年は、微笑んだ。
少女の白い頬に、血で濡れた手が触れられる。少女はその手を、自分の両手で包み込んだ。血で塗れていても、彼の手から伝わるぬくもりははまるで陽だまりのようで、少女はそのぬくもりを手放したくないと思ってしまう。
それでも、別れを告げなければいけない。
我儘を言うなら、別れを告げるまでの時間、この刹那に身を寄せるぐらいは許してほしい。願わくはその刹那が少しでも長く続いてほしいと願いながら、青年の顔をじっと見つめる。青年は、今にも泣きだしそうな笑みを浮かべる。
そして、一気に少女と青年の距離がなくなった。
少女は突然の行動に意識を取られて、声を忘れた。
額に熱が伝う。
青年が、少女の額に唇を合わせていた。
唇から伝わる愛に、少女の瞳からは涙がこぼれていく。
自分は、こんなにも愛されていた。たくさんの人に支えられて、愛を貰って生きていた。
少女は、青年から心を受け取るのと同時に、自分の中に宿る命の音がどんどんと脈打っているのを感じていた。
まるで、青年の愛で動く心臓のよう。
少女の心とちっぽけな全身が、いっぱいに叫んでいる。
生きよう。
一度きりしかない人生を生きてやろう。それがきっと、彼の望みでもあるのだから。
少女は、青年にいっぱいの愛を返すように微笑んだ。満天の星空のような瞳と共に。
悲しみと絶望で終わる別れなんて、あまりにも辛いから。
だから、別れを告げる時は、あふれるばかりの笑顔で__。
「俺は、貴女を信じています」
温かな繋がりが断たれる。
二人の距離が、少しずつ開いていく。
「人はみんな、音を持って生きています。自分しか奏でることの出来ない、他の誰にも歌うことのできない声。俺が居なくてもその音を見失わずに、自分だけの歌を紡げると信じています。どうか、生きてください。自由に生きて、思うがままに歌って、貴女の望むがままに。病気に打ち克てた貴女なら、この洋館でも優しさを見失わなかった貴女なら、きっとこの世界を生きていける。世界は残酷です。全ての命に微笑みかけるわけではありません。けれど、どうか忘れないで__貴女を心から愛する人は、貴女が覚えている限り、変わらずに貴女の心の中に灯り続けることを。その灯りさえあれば、この世界に怯えることなんて、ありませんから」
少女は、万感の想いで彼の言葉を聞き入っていた。
その言葉を最後に、青年は少女に背を向けた。
青年は、ゆっくりと、確実に奥の扉へと歩みを進める。廊下には血染めのナイフが転がっていたが、青年はそれには気にも留めることなく、まるで導かれるようにひとつ、ふたつ、靴音を響かせながら歩いて行く。
まるで、死刑台に向かう罪人のように。
扉の前にたどり着くと、青年は迷いなくその扉をゆっくりと開けた。青年の背後にいる少女も、初めてその部屋の内装を認めることが出来た。その部屋は、二階にある個室や一階の客室よりずっと広くて、たくさんの楽譜で溢れかえっていた。テーブルにも、机にも、棚にも、沢山の音がそこにたくさん残されている。間違いなくここは、青年の部屋だと解る。低めの棚の上に置かれた花瓶に咲くコチョウランが、僅かに揺れている。三階の窓から零れる僅かな光が、青年を迎え入れるように煌めいていた。
もうすぐ、夜明けだ。
その部屋の中央には、ロープが吊り下げられていた。まあるい円形の隙間が、口を開けて待っているよう。
まるで青年のために用意されたのかと思うほどだ。
ご丁寧に、ロープの下には椅子が置かれている。初めから青年がこの選択を選ぶことを判っていたかのように。
手作りの処刑台のようで、少女は息が詰まる。誰が、あの紐を吊り下げたのだろうと、疑問が浮かぶ。
ああ、けれど、それがわかることはきっともうないのだと、少女は涙を流したままで死へと歩む青年を見つめていた。
やめて!いかないで!少女はその気持ちを必死に押し殺す。本当は、今すぐにでも青年を止めたかった。いますぐにでも彼の手を繋いで、洋館から連れ出したかった。けど、少女にはそれが出来なかった。青年もまた、望んでいないだろうから。
青年は、ずっと首に巻いていたマフラーを地面に落とす。
青年の首にこびりついた細い痕は、これまでの青年の苦しみを象徴しているかのようだった。
首に刻まれた苦悩を見た少女は、彼に対する溢れる想いに溺れそうになった。
椅子の前までたどり着いた時、もう一度、少女の方へと振り向いた。
彼の表情は、夜空の星のように美しい。
死に対する安堵ではなく、これから前に進む希望の光を宿しているようで。
少し間を置いた後に、彼は少女の瞳を見て問いかける。
「彼女は、亡くなるその日まで幸せだったのでしょうか?」
誰を示しているか、少女はすぐに分かった。
自分の大切な人を看取ることが出来なかったことは、青年にとっての最大の後悔になったことだろう。
二人で眠りにつく事も、共に生きることも叶わないまま、今日を生きた。
もう今はいない両親の話を少女は思い出す。
祖母にまつわるエピソードを心から愛おしそうに語る母親を、父親はとても愛おしそうに微笑みながら見つめていた__。
少女は、溢れんばかりの想いをぶつけるように、いっぱいの大声で彼に伝える。
せめてこれから死を迎える青年が、ほんの少しでも悔いがないように。
「わたし、ばあちゃんが亡くなった頃に生まれたからわからない。けど、けどね!おじさんには言ってなかったけど……わたしの名前、ばあちゃんが考えてくれたんだよ!じいちゃんと同じでね、お花の名前から取ったんだって!だからきっと、ばあちゃんは元気だったし、幸せだった!亡くなる時も、生きていた時も、きっとおじさんを想って生きてた!だから……だから、大丈夫!おじさんも、いっぱいいっぱい、数えきれないぐらいに、たくさんの人に愛されてたよ!わたしにも、ばあちゃんにも、お父さんとお母さんにも、家族の皆にも!いっぱいの夜空の星みたいに!」
青年は。
愛おしさに満たされた表情で、心から嬉しそうに笑った。
「ありがとう。貴女と共に過ごす日々は、俺にとって代えがたいものでした__」
光に包まれようとする優しい笑みと共に、青年は少女の名前を呼んだ。
溢れるばかりの、愛と共に。
「ルピナス、愛しています」
温かな光と共に、少女に背を向ける。
少女はそこから動くこともなく、目を背けずにじっと、青年の背中を見つめた。溢れ出す涙で何もかもが滲んだ世界は、まるで水面のように小さく揺らいでいる。窓から零れていく光がどんどんと強まっていて、まるでこの世界が真っ白な光に包まれて行くようだった。
彼の姿を見届けたいのに、忘れないようにちゃんと覚えていたいのに。
涙を拭っても止まらなくて、水の中を覗き込んでいるみたいに朧げになっていた。
だから、なのだろうか。
__彼がロープを手に取った時、青年の手を優しく取って微笑む女性の姿が見えたような気がした。
死に連れていく入り口に、彼は首を差し出す。
差し出した先に見える窓の外の世界には、あまりにも美しい青空が彼を迎え入れていた。
夜明けが訪れる。
歩み出すように彼が椅子を蹴るの同時に、少女の意識も光に包まれていった。
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