透き通るような青空だった

「ねえ__大丈夫?」


その声で、ルピナスの意識は現実へと引き戻された。ゆっくりと、瞼を開ける。

視界一杯には碧空が広がっていて、小鳥たちの歌声が朝が訪れたことを告げていた。ルピナスは、ゆっくりと体を起こす。

隣には、見知らぬ男性がいた。彼の着る学生服は、よくよく見ればルピナスが通っている学校と同じものだった。ブルネットの髪を短めに整えた青年は、ルピナスを心から労わるような表情で見つめている。


夢、だったのだろうか。


「あ、よかった!君、ずっとここで倒れていたんだよ。起きなかったらどうしようかと思った……立てる?」


ルピナスは「ううん、大丈夫。立てるよ」と微笑み、自分の足で立ち上がる。

ルピナスの目の前には、廃墟と化した洋館が打ち捨てられている。

ボロボロに朽ちた壁も、崩れ落ちている柱も、割れた窓から見えるロビーも、人の気配も、今を生きる者たちから置き去りにされ、過去の遺物へと変わり果てていた。誰がどう見ても、ここで誰かが暮らしている様子は見られない。

青年と訪れた時と同じような壊れた洋館がそこに建っている。

まるで、在るべき時間を取り戻したかのように。


かつて、ここには一つの幸せの形があった。

ありふれていて、取り立てることもないような、けど誰もが享受してもいい当たり前の幸せが、満ち溢れていた。

たとえ他の誰もが知ることはなかったとしても。

ルピナスだけは、ちゃんと覚えている。


「ここはさ、俺のばっちゃんがお仕えしてた女の人がよく遊びに行ってた洋館でさ。今でもたまに見に来るんだよ。年月も経って、大分ボロボロになっちゃってるみたいなんだけど……今でも残ってるって凄いよな。この洋館で暮らしてた人が、ここで生きていたんだって、現代を生きる俺たちに伝えているみたいでさ」


その言葉を聞いて、ルピナスの心に一気に感情が溢れ出す。


ルピナスは、心のままに洋館へと駆け出した。

見知らぬ誰かは驚いたようにぎょっとさせると「ちょっと待って!危ないよ!」と後をついていく。

何もかもが崩れ落ちた室内には、やっぱり命の気配など何処にもなくて。それでも確かめたくて。

洋館内を駆け巡る。


この広いロビーで、家族は同じテーブルで食事をしていた。

ルピナスは、この場所で彼らと夕食を共にしたことを、はっきりと覚えている。向日葵のような笑顔の末娘に、緊張した様子の長女、穏やかな長男に、夫妻で見守る主人と奥方、料理を運んでくれたメイドや執事。隣に座っていた青年も、ここで当たり前のように暮らしていたのに。テーブルのあった場所には、ただの瓦礫と木材だけしか転がっていなかった。料理を作るキッチンを覗いても、人の系なんて全くない。廊下の奥にある浴場を見ても、湯船にはなんにも入っていないし、水どころか割れたガラスが床に散らばっている。ここで、長女と末娘と一緒にお風呂に入ったのに。

青年と二人で身を寄せ合った客室ですら。

全てが、時間に壊されてしまっていた。


ルピナスは階段を使って二階へと駆けあがっていく。

二階の廊下も崩れていて、今にも崩れ落ちそうだと思わず進むことを躊躇するほどだ。

一部の部屋なんか、瓦礫でふさがっていて入れそうにない。

この洋館の様々な場所で、家族が微笑み合う姿が脳裏に鮮明に浮かんでくるのに。

目に広がる世界には、彼らは最初からなかったかのように存在していなかった。


ルピナスは、そのまま三階へ続く階段を駆け上げる。


三階の廊下に出ると、彼の部屋に続く扉は今でもそこにあった。

あの部屋で。

自分の道しるべになってくれていた青年は、紐と椅子で飛び出していった。

心臓が跳ねて、走るスピードが速くなっていく。

そうして、ルピナスは今にも転びそうになりながら、彼がいた部屋の扉を開けた。

彼の気配を探して。彼の面影を見つけ出すために。


鮮烈な青がルピナスの瞳を焦がしていく。


低めの棚の上に置かれた花瓶には、もう何もない。

かつて使われていただろうベッドやテーブルも、五線譜が刻まれた紙も、何もかもが朽ち果てている。

彼を連れ去ったロープも、影も形も残っていない。

ただ、部屋の中央で倒された椅子だけが、この場で何が起きたのかを明確に示していた。

開かれた窓の向こうにある透き通るような青空が、少女の心まで染み込んでいって、空の色が滲んでいった。


彼は何処にもいなかった。

夜のような黒い髪も、柘榴のような紅い瞳も、優し気な微笑みも、大きな手も、彼の声も。

何処にもいなかった。

何処にも。

何処にも。



溢れる涙を共に、その場で崩れ落ちる。




すぐ背後から近づく足音が聞こえる。

学生服の彼は、ルピナスの傍まで駆け寄った。彼女が大粒の涙を流して泣いていることに驚いた様子だったが、すぐに悲しそうな表情を浮かべると、涙に沈みゆくルピナスの身体を抱きしめた。ルピナスはその温かさに、わんわんと子供のように泣きじゃくった。

心から満ちていく悲しみが、涙と共に溢れ出て、全てが終わってしまった洋館を濡らしていく。

いつかはルピナスも、この洋館で暮らしていた家族のように、青年のように遠い過去になっていくのだろう。

時計の針は止まらない。永遠に歩みを続けていく。その針の音が置いていかれる日は必ず来る。

そして過ぎ去った時間が戻ることも、変わることはない。

それでもルピナスはここで生きている。

生きようと、決めた。


どくんどくんと、心臓の音が聞こえる。

彼の優しい歌声が、少女の命を奏でていた。


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