Reminiscence 5
幼い彼女の声が、青年の脳を鮮明にしていく。
洋館から一番近い鉄道へと駆け出して行く。一日に数本しか出ないような辺鄙な駅だ。
深夜に一本だけ寝台列車が走るこの鉄道は、不便さ故に普段は誰も使わなかった。ここで待つよりも徒歩や車で向かう方が早いからだ。こんな深夜だから猶更寄り付かないし、そもそも知っている人かどうかも怪しいぐらいだ。終点までの切符を買って、駅員に見せると、そのまますり抜けるように改札を通る。ホームに飛び出ると、いよいよ寝台電車が出ようとしているところだった。青年は駆け足で扉をくぐると、背後で扉が閉まる音が聞こえた。青年はほっとして、そのまま少しでも体を休めようと適当なベッドへと腰掛けた。こんな時間だ。自分以外の乗客などいるわけもない。青年だけが、多少の灯だけが室内に存在していた。たたたたと雨が電車を叩く音だけが聞こえる。青年は言いようのない寂しさに、息を吐いた後に僅かに顔を上げた。月の見えない雨夜を駆ける箱は、ガタゴトと音を鳴らし、青年のみを連れて、終点へと向かう。依然として、雨は止む気配はなかった。
終点につく頃には、時刻は5時になろうとしていた。夜の静寂は今なおも続くが、何処か朝の気配をぬるく感じられる。
青年は扉が開くと同時に駆け出した。雨の中で、服も靴も随分と汚れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。今彼の目に映っているのは、奥方の妹の姿だけだった。青年は息を切らしながらもまあるい石を探す。すると、走って10分のところに、円形の石があった。すぐその周囲を確認すると、石のすぐそばに整備されている道があるのが見えた。青年はその道をまっすぐに進んでいく。他の道には一切見向きもせず。視界にもいれることもなく、前だけを見て走り続ける。駆ける森の中は世界が死んだかのような静寂だった。青年の荒い息と足音だけが、森に木々以外の命を吹き込んでいた。
白い光が青年の瞳を小さく焼いた。
青年が森を抜ける頃には雨は止み、世界には夜明けが訪れていた。
それがわかるのは、いままさに青年の目の前で夜と朝が混ざり合うような空が広がっていたからだった。どうやら、この森は小高い崖の上にあるらしい。遠く遠くには、美しい海が光と共に煌めいている。草木の絨毯の上には、一つの一軒家が建てられていた。古い伝統的な作りをした家だったが、時代に取り残されているというわけでもない。何処かの絵本に出てくるかのような民家だった。
青年は、そのまま吸い寄せられるように扉のドアノッカーに手をかけ、コンコンとノックする。「はい」という声が、青年の耳に届いた。扉を開くと、そこには30代半ばほどに見える使用人服を着こんだ女性が立っていた。ブルネットの髪を持つその女性に、青年は見覚えがあった。あの約束の時に遠くにいた人物とよく似ている。その女性は青年を見ると、心から嬉しそうに、そして安堵したかのように微笑み歓喜の声を上げた。「ああ!お待ちしておりました!お嬢様がお待ちです!さあ、急いでお入りください!」と、青年を急いで家へと案内する。青年の頭は混乱していたが、この女性についていくことにする。おそらくこの女性は自分のことを知っているし、青年を待ちわびたかのような反応をしていたから。玄関先で雨でぬれた靴を脱いで、青年は女性の背中をついていった。靴下も随分と酷い有様で、床にシミをつけてしまっていた。
「こちらです」という女性の声に視線を向ければ、目の前には木製の扉があった。
女性は何処か浮足立った様子のまま、どこか興奮したような声で扉の向こうにいる人物に声をかけた。
「失礼いたします。お嬢様、貴女にお客様です」
その扉をゆっくりと開ける。
扉が開いていくのと同時に光が隙間から零れて出て、青年と女性の二人を包んでいくかのようだった。
扉が開き切った後に見えた光景を見た時。
青年は、呼吸をすることを忘れた。
窓から零れる朝の陽ざしがベッドで身体を起こしている女性をきらきらと照らしていた。
雪のようなウェーブロングの白い髪に、宝石のように美しくきらめく桜色の瞳は、夢を見ているかのような心地で自分を見つめている。
もしも夢であったのならば、出来れば一生目覚めたくないと思ってしまう程に現実味がなかった。
女性はこちらを認めると、あの時と全く変わらないひだまりのような微笑みを作った。
青年の心に、光が灯る。二度と会えないと思っていたぬくもりを目にして、気がつけば涙を流していた。滲む視界の中で、青年は女性を抱きすくめていた。青年の服は雨で随分な有様だったというのに、彼女はその様子を全く気にせずに、彼の背中に手を回して、幸福で零れ落つ笑みを共に想いを囁いた。
「覚えていてくれたのね。あの時の約束を、忘れないでいてくれたのね。もしかしたら一度は忘れてしまって、思い出したのかもしれないけど、けど、どっちにしても嬉しいわ。ありがとう。本当に。ちゃんと遊びに来てくれて__」
彼女の言葉を、青年は頬を濡らしながら聞いていた。
彼女がまだ生きている。
この世界に存在してくれている。
その事実だけで胸が嬉しくて、青年は時間を忘れて、奥方の妹を体を強く強く抱きしめた。
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