Reminiscence 4

どうやって家に帰ることが出来たのか覚えていない。

気がついたら自宅の玄関のドアマットを踏みしめていた。家にたどり着くまで隣にいた末娘がずっと自分の手を握っていてくれていたことに気がついたのも、玄関前で待機していた長男が「おかえりなさい、何があったの?大丈夫?」と心配の声で思考がようやく明瞭になったからだった。自宅に辿り着くまでずっと末娘が自分の手を引いてくれたのだろうとぼんやりとした頭で考えている。青年たちが帰ってきたことに気がついた長女も、駆け足で階段で降りてきた。

青年と末娘の異変にすぐに気がついたのか、長女は眉を下げて、心配そうに二人を見つめている。

「おかえりなさい。……顔色が悪いわ。どうしたの?」

どんよりとした空気の中、先に答えたのは末娘だった。

「お姉ちゃんが。ご病気に罹ってしまったみたいで……しかも治らない、不治の病だって言われたんだって。あたし、信じたくないわ」

震えた声で話す彼女の瞳からは涙が滲んでいる。長女も長男も顔を見合わせて、末娘に詳細を問い詰めていた。

「あ、あたし、知ってるのは、それくらいなの。ごめんなさい」

困惑しておろおろと慌てる末娘の様子に見兼ねた青年が、二人を制するように声をかける。

突然、仲良くしている人が不治の病だと言われたら、聞きたくなるのも仕方がないのだろうか。

けれど、末娘だって詳しくは知らないのだ。末娘に聞いても何の意味もない。

「……彼女も今とても疲れていますから、一旦休みましょう。話をするのはそれからでも遅くはないでしょう。俺も一度部屋に戻ります。何か分からないことがあればノックして呼んでください」

それだけ告げて、彼らの頭を順々にゆっくりと撫でると、くるり、とそのまま背を向けて手摺を掴んで階段を昇ろうとした。三人の心配そうな視線が突き刺さる。その視線を受け止めた青年は、一旦階段をあがろうとした足を止めて、三人の方に振り返ると「大丈夫ですよ」と、言い聞かせるように強く言い切った。そのまま階段を上り、廊下を歩いて、二階にある自分の部屋の扉を開けてすぐに音を立ててバタンと閉めた。普段は青年は三階の部屋を使っていたが、今は三階に行く気力もなかった。

青年は、そのままベッドに倒れ込んだ。その衝撃で、ポケットにしまってあった手紙がはらりと布団に落ちる。青年は、その手紙に目を留めると、ゆっくりとした動きで手紙をつまみ、そしてそのまま握りつぶした。くしゃりという音が青年の耳に届く。もう一度手を開けば、くしゃくしゃに折られた手紙がそこにあった。

彼女の姿が脳裏を過ぎる。

美しい雪のような純白の髪と、桜の花びらをそのまま映したかのような穏やかで優しい瞳が、幸せそうに微笑んでいる姿。

もっともっと早くに気がつけていたら。自分の感覚があまりに馬鹿だったばかりに、彼女の苦しみを無視し続けていた!

彼女の苦しみにひとつも気がついてあげれなかった。彼女を侵す病気も許せないが、それ以上に地獄に気がつくことが出来なかった自分が何よりも腹立たしくて、今この場自分を引き裂きたいほどに怒りと怨みが全身に満たされていた。

悔しくてたまらなかった。己の愚かさに、青年は唇から血が出るほどに噛みしめる。


慈悲深い神とやらがこの世を愛おしく眺めているのなら、どうして彼女から目を逸らしているのか。

俺の命など心からどうでもいい。どんなに惨い死を迎えようが構わない。彼女を救うためならば、俺は自らこの首を紐で吊り上げましょう。どうか彼女の命を助けて下さい。彼女の未来を取り戻させてください__。


願っても願っても、現実は全く変わることはなく。

青年の心は空虚な部屋に融け、誰にも届かず消えていった。



その日の夜。青年は夢を見た。


……夢だということを珍しくはっきりと認識していた。いわゆる明晰夢というやつだった。

まだ幼かった頃の青年と奥方の妹が、小指を結んでいる。青年も奥方の妹も、無垢で純粋だった頃。木陰で微睡んでいても、誰もがかわいらしいわねと微笑んで見守ってくれていた。あまりに懐かしい記憶。

10歳の誕生日にお祝いにきてくれたあの日、彼女と言葉を交わしていた。


いつかはあそびにきてね

そうしたら、そこでふたりでくらしましょう。約束よ。


陽だまりのような微笑みが、青年をきらきらと照らしていた。




青年は、汗だくになりながら目が覚めた。

時刻を見れば深夜の2時頃で、誰もが寝静まっている時間だった。

窓の外を見れば、ざーざーと雨が降っている。雨の音で起きたのか夢で起きたのか、もはや判別はつかない。

けれども青年のやるべきことは決まっていた。

こんな夜更けだというのに青年の意識は完全に覚醒していて、反射的にすぐに身体を起こし、最低限のものを持つ。扉から出るのが当然なのだろうが、今は玄関や裏口に向かう時間すらも惜しいと思えて、青年は自分の部屋の窓をがらりと開けた。

二階とはいえ、当たり所が悪ければ死ぬだろう。骨を折る可能性すらある。

青年は、窓のすぐ近くに生えている樹に注目する。あの樹に生える太い枝を掴むことが出来たら、少しはましになるだろうか。

ためらいもなく窓から自らの体を放り投げた。浮遊感が全身を駆け巡り、雨の冷たさが全身を冷やしていく。

太い枝に必死に手を伸ばした。これで落ちたら笑い話だ。

そう思っていると、青年の片腕に何か冷たい感覚が伝っていく。上を見れば、自らの手が枝を握り締めていた。

しかし、雨に濡れる中では、すぐに滑って落ちてしまう可能性が高いだろう。今のうちにと上手く樹の枝につかまることが出来た青年は、幹を掴むと、そのまま滑るように木を降りる。

窓の開けっぱなしの自室を眺めた後、洋館に背を向けた。

朝までには帰れないだろう。それでも行かなければいけなかった。


『あなたの家から一番近い鉄道に乗って、終点まで乗るの。だれもおりないような、辺鄙な場所よ。ちょっとあるいた先にね、森があるのよ。空気の綺麗な場所でね、大きなまあるい石が森の入り口のめじるしよ。そうしたらね、森をまっすぐに進むの。まっすぐよ?森をとおりぬけると、海のよくみえるすてきなおうちがあるの』


青年は奥方の妹と交わした約束の記憶を必死に手繰り寄せる。

誕生日をお祝いしに来てくれたあの日、まだ互いに仄暗い事なんて何も知らなくて、だからこそ無邪気に笑い合っていた。二人に訪れる未来は希望に溢れて、明るいものだと根拠もなく信じることが出来ていた。あまりに懐かしくて泣きそうになる。

あの時。

細い小指を交わしながら、奥方の妹は笑って、青年だけにとっておきの秘密を教えてくれていた。

年月という波によって遠く追いやっていた、幼くて拙い約束だ。

彼女が何処にいるかもわからない今は、この約束だけが彼女に続く便りだった。

彼女がまだ覚えているのなら。必ず、奥方の妹はそこにいる。

どうして覚えていなかったのだろうと、拳を強く握りしめながら雨空の下を走り抜けていった。

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