Reminiscence 3
自家用車を使って10分、徒歩40分ほどの距離にある街の奥側に、目的の家はあった。クリステア家があるこの街は活気溢れていて、青年は好き好んで行くような場所ではなかったが、買い出しを行う時にはよくこの街を訪れていた。
末娘は近くのアンティーク屋を見て「あっ、あのお店もしかしてつい最近開店したばかりじゃないかしら!よかったら後で寄りましょう!」と青年の腕を引っ張りながら沢山の店に目を輝かせている。青年は「後でですよ」と言いつつも、末娘が迷子にならないように見張りながら、寄り道もせずにまっすぐと道を歩いていた。店が建ち並ぶ通路を通り抜けると、周囲の民家とは頭抜けて大きい、ロイヤリティな洋館が立っていた。青年はドアノッカーで、傷一つないぴかぴかの扉をコンコンと叩く。ほどなくして、初老の女性が顔を出した。母親と同じ色をした濃い茶色の髪をひとつにゆるくまとめている。
「あら、いらっしゃい、ようこそ。ゆっくりしていってね」と、快く招き入れてくれた。この女性は母の実母であり、奥方の妹にとっての義理の母親だった。青年たちにはとっては母方の祖母にあたる人物だ。還暦を迎えたばかりの彼女は、クリステアの一族を夫とともに長く支えてきた才女だった。青年も幼い時より世話になっているが、彼女の立ち振る舞いから溢れる気品の良さは、年老いてなおも変わらない。
ロビーに通されると、青年は僅かに違和感を持った。
洋館内の空気が、どことなくどんよりとしていたからだ。最近は訪れていなかったが、一年前は穏やかさと平穏に包まれていた。けど今はまるで水の底に沈んだかのように重い空気が漂っている。末娘も同じものを感じ取ったようで、眉を下げて不安そうに周囲をきょろきょろと見渡していた。じめじめとした空気の原因は何なのかと、青年は気になり祖母に用件を伝えるついでに、近況を聞こうと口を開いた。
「妹が母の義妹に借り物があったそうで、今日はそちらを返却しに来ました。彼女は今どこにいるか知りませんか?」
その言葉を聞くと、祖母は動きを止めた。祖母はしばらく考えあぐねた様子で黙っていたが、しばらくして諦めたように首を横に振ると「こちらへどうぞ」と言って、祖母は重い足取りでロビーの奥へと向かった。青年と末娘は、談話室と通される。祖母は二人の向かい側の席にゆったりと腰を下ろすと、大きくため息をついた。
「あの子は、しばらくここに帰ってくる予定がないわ」
その言葉に、青年は冷水を浴びせられたかのような衝撃を受けた。帰ってこない?奥方の妹が?いつ?突然家を空けるようなことが起きた?目の前の女性に聞きたいことが山のようにどんどんと振り積もっていく。青年は衝撃で混乱する思考で必死に質問を絞り出す。
「何故ですか?当主としての仕事が忙しいのですか?ここのところ、彼女は大きな仕事はないと聞きましたが」
目の前の淑女に、極めて感情を抑えた声で訊ねる。祖母は目を見開せ、顔を俯かせた後に、額を抑えた。きまりの悪い顔をして、言いづらそうに二人を眺めている。青年は「お婆様」と、思わず強く責めたてるような声で彼女を呼んだ。その声に諦めたかのように、女性は首を小さく横に振る。気品のある顔立ちに宿るのは、重い絶望と悲壮感だった。皺を深くして、彼女は細い声でしぼるように呟いた。呟いた言葉に、青年は意識も思考も全て刈り取られた。
「あの子は、病に掛かってしまったの。高名で実績のあるお医者様にも見せたわ。けど、今の医学では、手出しが出来ない。どんな手を尽くしても治らない……余命半年だと言われたわ……。それを聞いたあの子は、数か月前には次期当主の座を夫に返上して、この家と縁を切ると言って……最低限のものを持って家を出たの……」
今、目の前の女性は何と言っただろうか?
「……嘘ですよね?」と、青年は思わず声を漏らしていた。信じられなかったし、信じたくなかった。女性の言葉を事実として処理し、受け入れること脳が拒否していた。けれども、祖母は首を横に振った。「本当よ。嘘じゃないわ。嘘だったら、どれほどよかったか…。あの子、医療費は勿論、家の援助金も…どうせ死ぬなら自分に投資するのは無駄になると言い出したの。それでも納得できなかったわ。自分の娘を見捨てるような真似、したくなかった。けど娘は頑なに受け取らなかった。そして一人で静かに余生を過ごしたいと告げて……私たちに行き先も告げずに行ってしまったの……」
ごめんなさい。と、ぽろぽろと涙を流す祖母の姿に、青年はどんな言葉を返せばいいのかわからなかった。
いや、違う。正確にはあまりのことに言葉すら一つも浮かばなかった、と言った方が正しい。まるで世界から光と呼べるものが一切根こそぎ奪われたような暗闇に突き落とされたようで、青年の視界はぐらりと歪んだ。
何故、気づいてあげられなかったのだろう。この数か月の手紙の数々が方便だったことに。
彼女は青年に気を遣い、自分が病に倒れたことを必死に隠していたのだ。手紙の上では自分は健康的で次期当主としての仕事を全うしていると綺麗な言葉だけを並べ立て意地を張っていた。すべては青年に死を悟られないようにするためのあの手紙のやりとりをしていたのだと理解する。青年が何をしても死ぬとわかっていたから、彼女は青年に病気の事実を伝えることを選ばなかったのだ。手紙の向こうの奥方の妹は、今もなお青年たちの知らないところで病に蝕まれている。そこまで頭が回った時、青年はどうしようもない絶望感に叩きつけられた。
青年の隣では、末娘が涙を流して「嘘よ。そんなのってないわ!どうしてよ!おばさま!」と祖母に訴えていた。
祖母は何も言えず、そのまま後悔の念に押し潰されそうに、俯いていた。
けれど青年は遥か遠いことのように思えた。あまりにも衝撃すぎて、意識と視界がリンクしていなかった。虚ろな状態のまま青年はそのままふらりと立ち上がる。背後から「お兄ちゃん?」という声が聞こえたが、青年の耳には全く届かなかった。青年は、ロビーに設置された階段を駆け上がり、ある扉の前に立つ。その部屋は、奥方の妹が普段過ごしている部屋だった。青年はためらいなくノックもなしにその扉を開けた。その扉には鍵も掛かっておらず、信じられないほどあっけなく開いた。
扉の先にある大きな部屋には、何処にも奥方の妹はいなかった。
こんなのは嘘に決まっている。彼女が病気だなんて、そんなことが。
けど、祖母は誠実で実直な人柄を持つ女性だ。
ここでこんな大嘘をつくとは思えないし、くだらない嘘などつかない人物であることを、青年はよく、ようく理解していた。
ならば、これは真実なのだ。
彼女が死ぬ。
あの微笑みが、この世から消え去ってしまう。
その文字列は速やかに青年の脳を浸し、全身に彼女の死の恐怖という事実が駆け巡った。
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