perdendosi

まさに、茫然自失とはこの事だ。

少女は、しばらくその言葉の意味も理解できなかった。何回も何回も青年の言葉を繰り返し反芻して、ようやく呑み込むことが出来たのはそれから5分経った後のことだ。その意味を理解出来た時、この魔術の残酷さに少女は身を震わせる。見てはならないものをこの目で直視してしまったかのような恐怖だった。やはり、と言えばそうかもしれないが。それにしたってこれはあまりにも悪趣味だ。何もかもが人間を弄ぶように作られているとしか思えない。

この魔術はやはり、血を捧げるだけでは終わらなかった。

血を捧げる行為はあくまでも一部だ。この魔術に血を捧げるということは、願いを叶えるために命を捧げることと同じ意味を持つ。青年を含めたフローレア家は、この魔法陣の上で血を捧げた瞬間から願いを叶えるために死ぬことが確定していた。少女は、その事実を受け入れたくなかった。だって、あまりにも惨すぎる。こんな凄惨なことが真実であるわけがない。

不治の病に侵された奥方の妹の病気を治したい。その願いのために知らずにこの家族は命を捧げたのだ。唯一僥倖と呼べるのは、フローレア家の願いは無事に聞き届けられていることだ。間違いなく奥方の妹は救われていて、青年と共に生きたのだから。

少女は、奥方の妹がどうか病気が治った真実を知らないままでありますようにと祈った。


青年は虚ろな表情で、ぼうっとしていた。まるで全ての糸が切れたように座り込んでいる。

その瞳には何も映っていない。羊皮紙も、この部屋も、少女すらも、柘榴の瞳は何処かもわからぬ場所を映していた。

ああ、と少女は息を漏らした。


今の青年は全てを拒絶している。


少女には、判る。判ってしまう。かつての自分もそうだったのだから。

両親が亡くなった時も、少女も両親が死んだ現実を受け入れることが出来ず、目に見えるすべてを拒んで一人で閉じこもっていた。

だから、青年がこうなってしまう気持ちは、痛いほどに分かる。

少女は、青年の名前を弱々しく読んだが、彼は反応を示さない。普段はどんな形でも反応してくれるのに、今の彼は黙したまま俯いていた。少女の心はズキズキと痛む。自分の行動で大切な人たちをまとめて地獄に突き落としてしまったと知ってしまったら、誰だってショックを受けるに決まっている。もしも、青年の立場だったら少女は自らの心を壊すことを選ぶだろう。青年も、もしかしたら心を壊してしまったのだろうか。それも仕方ないのかもしれない。100年間も生き続けて、辿り着いた真実がこれなのだ。長い間永遠をさまよい続けて、唯一見えた光明だと思っていた道を進んだ結果、この有様だ。誰も彼を責めることをなんて出来ないし、責める資格もないだろう。

人形のように動かなくなってしまった彼を見て、少女の瞳から涙がにじむ。

少女は青年を抱き占めた。少女に伝う青年の冷たさにこらえきれずに、一筋の涙を流す。


「おじさん」

「おじさんは悪くないよ。だって、奥さんのために一杯頑張ったんだもん。奥さんのところにすぐに向かったのは、奥さんには救いになったと思う。病気と一人で戦うって、すっごい寂しくて、つらくて、怖いの。いつ死ぬかもわからなくて、眠るのも怖くなっちゃって……。おじさんは、奥さんにとっての希望になったんだと思う。おじさんがきてくれるから、頑張れるって……だから……。きっと、おじさんの家族も、おじさんのこと恨んだりしないよ……」


青年は何も応えなかった。

けれど、その瞳には涙が溜まっている。

二人は音もなく、ただ静かに泣いた。

静寂に満たされた中で、二人だけが確かに生きている存在だった。


「ちょっと、上に行ってくるね。おじさんはここで休んでて」

少女は、階段に繋がる扉を見て、青年にそう告げた。座り込んだままの青年の反応はやはりない。少女は、青年の頭を小さな手で撫でてから、青年から少しずつ離れると、彼に背を向けて1階へと続く階段へと向かった。青年と離れるのは怖い。怖くて恐ろしくて倒れてしまいそうだし、青年が隣にいないというだけで、不安がどんどんと湧き出て止まらない。改めて、少女にとっての青年が、いかに存在が大きいかを思い知らされる。

けど、ここから一人で頑張る時間だ。

探さなければ、魔術を止める方法を。青年が命を終わらせる方法以外の、別の道を。

少女は、青年の命を見捨てたくなかった。まだ彼と一緒に生きたい。

彼と一緒に星の数ほどにたくさんの出来事を経験して、遠いいつかは青年の辛い思い出を洗い流せるような日々を作りたい。

そう、心から思った。


ロビーまで戻ると、真っ先に少女は鉄の匂いに顔をしかめた。

地下書庫に充満していたものと同じ匂いが、僅かにこちらにも漂ってくる。いったいなんだと思えば、床に紅いものがてんてんと続いていることに気がついた。少女の顔は青くなる。脳裏に地下書庫の奥の部屋に並べられる棺桶が過ぎった。そのてんてんとつづく道を追うように、少女は駆け足でロビー内を進む。その道は、客室の方へと続いているようだった。急いで客室に続く廊下に出る。廊下に広がる光景を見た瞬間、少女は思わず叫んでいた。心臓が破裂しそうなほどに早く動いている。


廊下には、血の道が出来ている。そして。その血の道の終点は、少女に料理を教えてくれると教えてくれた人物。

執事が、苦しそうに息を喘がせながら、客室の扉の近くで血を流して倒れていた。



「執事さん!」

執事の顔からは生気が抜け落ちており、腹からは血が溢れ出ている。このままだと間違いなく死んでしまう。

少女は「そんな……とりあえずお部屋につれていきますから!わたしの肩に捕まってください!」と執事の肩を支えた。執事は、力なく頷くと、どうにか壁に手をついて、ふらつきながらも立ち上がった。執事は大量の脂汗を流しながらも、ぜえぜえと息を吐きながら言う。

「いいえ。風呂場に、つれていってください、姉貴がそこに……。ロビーまで、でたら、あとは、大丈夫です……」

執事の言葉に、少女は焦りはさらに増していく。身体から流れる冷や汗が止まらない。

執事だけではなく、メイドにまで身に何か起きたのだろうか。怒涛の展開に少女の心は追いつかない。今にも死んでしまうかもしれない執事は、肺に空気を詰め込みながらも、浴場のある方角を睨みつけていた。メイドは無事だろうか?長男は!?

一体、自分と青年が地下書庫に籠っている間、何が起きた?!

青年は大丈夫なのだろうか。あの状態で襲われたりしたら___。

そう思うと、少女の顔はさらに青くなる。けれど、今は気にしている余裕はない。

執事は浴場に行きたいと言っているのだから、彼をそこまで連れていかなければ!

今にも倒れそうで、少女の心の焦燥感が大きくなっていく。「もうちょっとです」「がんばってください」と執事に声をかけながらも、少女は執事を導くように歩みを進めた。しかし力の抜けた成人男性の身体を、小柄な身長の少女がスムーズに支えられるわけもなく、合わない歩調のままで目的地へと向かう。浴場は、反対の廊下にある奥の扉の先にある。今二人がいるところは客室のある廊下だから、ちょうどまっすぐにロビーを抜けて進めばすぐに辿りつくはずだ。



ロビーに向かっている最中のことだった。


かつり。という軽い靴音が、少女の耳に届く。

気になった少女は、誰かいるのだろうとそちらへと顔を向ける。

メイドが心配してやってきたもしれない。青年が立ち直って迎えに来てくれたのかもと、そんな淡い気持ちを抱いていた。

しかし、少女の現実に広がる光景は、甘い幻想を打ち砕くのには十分だった。

呼吸を忘れる。

今すぐでも逃げるべきなのに、この目の前で立ちふさがる存在から目を離すことが出来ない。

隣にいる執事が、目を吊り上げて睨みつけている。

彼の瞳には、憎悪と怒りが滲み出ていた。

どうして、と少女の声が床へと零れ落ちた。



「ああ、まだ生きていたんだね」



血に塗れた長男が、赤く染まるナイフを片手に青年と全く同じ顔で、美しく微笑んでいた。

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