壊れた精神

少女は、何が起こっているのか理解出来なかった。

長男は、無邪気な子供のように二人に笑いかけている。

何故、この状況で笑っていられるのだろう?

これまで過ごしていた長男の姿と、目の前で笑う姿が合致せず、少女の脳内は混乱していた。


「君のお姉さんのメイドは……亡くなったよ。僕が殺した。メイドを呼びつけて、風呂場に突き落として首を切り裂いた。君も、急所を外してしまったみたいだね。ごめんね。おかしいな。前にもしたことがあるというのに。あの時、僕がメイドを殺したのを見た君は、僕の目の前で首を切って命を絶ってしまったけど……今度はそうもいかないね」

どの言葉をとっても狂気しか感じられず、少女は形容できないほどの恐怖を覚える。言葉が通じないというわけではない。意思疎通も出来ているし、彼の言葉も一応は理解できる。なのに、人間の皮を被ったナニカと言葉を交わしているような感覚だった。

そうして、少女は気がつく。

そう困ったように笑う長男の口ぶりは、過去に経験したことがあるような物言いであることを。

混乱と恐怖と焦燥でバラバラに砕け散っていた少女の思考が、再び一本の線へと繋がっていく。


「お兄さん……覚えているんですか?」

少女は、乾いた舌と唇で、砂を吐きだすように言葉を絞りだす。

憔悴する少女に対して、長男は「はは」と笑った。何処か悟ったような、全てを投げ出したように口の端を吊り上げて。


「そうだよ。君からその言葉出るとは思わなかったけど……。もう、今更言ったって、結末は変わらないか。これで10回目だよ。僕らがこの洋館で死ぬのは。100年前のあの日から、10年毎に蘇っては死んで、蘇ってはまた死んで……その繰り返しだ」


ああ、やっぱりそうなのだ。長男が、今回のループにおける記憶保持者だった。

確かに彼は、先に青年と少女が見つけた主人と、奥方が迎えに行った末娘以外の現場は、誰よりも早く駆け付けていた。まるで未来を知っているかのように素早い対応だったと言えなくはない。その場所で、その時間で命を落とすことを知っていたからなのかもしれなかった。けど、それだってただの偶然かもしれない。一番早く辿り着いたのが長男だったというだけ、という可能性もある。もしも、自分がこの惨劇にまつわる事すべて把握している事実を家族に気づかれないように繕っていたとするならば、この目の前で笑みを浮かべる彼は相当強い心の持ち主だ。

少女は、狂気を孕む真っ赤な瞳に飲み込まれそうになった。

真っ赤な瞳がゆらりと二人を捉える。


彼は微笑む。


「僕が終わらせるんだ。こんな魔術に殺されるぐらいなら。僕が魔術を使っていいと、次期当主として許可を出したんだから、次期当主として責任を取らなければいけない。やっと、帰ってきたんだ……。だから……。もう、全部終わりにしなければ……」


長男の表情が、突然消え失せた。

その表情には何も灯っていない。人間としてあるべき心が全く無くなってしまったかのように、何もなかった。

長男の左手に握られている血染めのナイフが鋭く光る。ナイフに映る少女の顔は、恐怖で歪んでいた。

強い殺意が少女に突き刺さって離れることはなく、今にも少女の全身をズタズタにせんとばかりに何重にも突き刺さってくる。あまりの鋭さに少女は思わず恐怖からこみあげる声を零した。このままでは殺される。そう確信できるというのに、足がすくんで動けない。

硬直した少女に、死に掛けの執事。勝負は明らかだった。

長男が、二人に一歩踏み出すのと同時だった。


執事が、長男に向けて駆けだした。


不意をつかれた長男は驚き、執事のタックルを避けることが出来なかった。2つの身体はぶつかり、その衝動で足がもつれる。二人がロビーの床に倒れ込んだ音が洋館全体に響いた。

執事が、自分を守ってくれたのだ。

はっとした少女は、急いで二人に近づこうと足を動かした。ただでさえ執事の命は危ないのに、こんなところで時間を使っていたら、執事は間違いなく死ぬ。この場から執事を連れ出さなければ。とにかく、長男から距離を離さなければいけない。しかし、執事の「逃げろ」と鋭い言葉で少女の思考は奪われた。

「でも!このままじゃ死んじゃう!」と叫ぶように返した。

少女の言葉に少しだけ笑みを作ったあと、執事は首を力なく横に振った。

信じたくない。また自分の目の前で人が死んでしまうかもしれないなんて!

なおも駆け寄ろうとする少女に、執事は「来るな!」と声を荒げた。

今度こそ、少女の足は止まる。


「どうせ、間に合わない……。なら、君と、お坊ちゃまだけでも、ここから逃げるべきだ……」


少女の顔に苦悩が浮かぶ。

つまり、執事はこう言っているのだ。

自分を見捨てて、青年と少女だけで逃げろと。


少女はどうしたらいいのか分からなかった。

目の前には、ナイフを持ったまま倒れている長男と、腹を抑えて蹲る執事がいる。

少女が取れる選択は2つある。執事を連れて逃げるか、執事をこの場に見捨てて逃げるか。

もはやその選択のどちらかしか選べない。

少女は、助けたかった。

けれど執事の強い目線がそれを許してくれないし、もしも近づいたりしたら、長男のナイフに切り裂かれるかもしれない。なら、執事の言葉通りに逃げる?執事を置いて?そんなことは出来ない。なんとかして、彼を救いたかった。けれど、どんな救う手立ても思い浮かばずに、少女はその場から全く動くことが出来なかった。そんな少女を見た執事は、僅かに微笑む。

口から血と共に、彼は言葉を吐きだした。


「どこでもいい、この場から逃げるんだ……。君は、ここで死んではいけない、これからの未来がある……!どうか、生きてくれ……」


執事がそう言った直後。

執事の首に、長男の持つナイフが突き刺さった。


シャワーのように血が溢れ出る光景を、少女はただ見ていることしか出来なかった。


長男は、無表情で執事を眺めていた。

その視界に少女は一切映っていない。彼の瞳にはこれから間違いなく死ぬだろう執事だけが映っている。執事は苦痛に苛まれた表情のまま、彼を射殺さんとばかりに睨みつけていた。長男はその憎悪を真正面から受けとめたのか、それとも素通りしているのか。少女はそれすらも解らなかった。目の前で起きている光景が、あまりにも恐怖で。

彼はにっこりと微笑み、執事に告げる。


「おやすみなさい。良い夢を」


執事は、朧げに少女を見た。

声の出ない唇がぱくぱくと動いたのを最後に、アンバーの瞳は虚ろに変わる。

少女は、彼が何と言っていたのかわかってしまった。


『逃げろ』


本能が告げている。

逃げなければいけない、と。

長男の意識が別のところへと向いている今しか、少女には逃げるチャンスは残されていない。

けれど、何処に逃げればいい?洋館の外に出ることは不可能だ。ならば、隠れてやり過ごすか?

いいや、長男はこの洋館でずっと過ごしてきた。洋館の構造は少女よりも知っているだろう。

どうした目の前の脅威から逃れられる?!

少女は、地下書庫へと続く扉に目を向けた。一度地下書庫に戻るのも手ではあるのだろうか?


いや。それだけは駄目だ。


あの場には、青年が残っている。魂が抜けたような状態の疲弊しきった青年が。

おそらく今の青年に逃げる気力は存在しない。そのままあっけなく殺されてしまうだろう。

絶対に長男を、彼の下にたどり着かせてはいけない!

その思考が浮かんだ瞬間、少女のやるべきことは決まった。逃げるのだ。執事の遺言の通り。出来る限り青年と長男の距離を離すんだ!

少女は、階段を駆け上がる。少女がいける部屋の数は少ないが、隠れつつ屋敷全体をめぐるように動けば、時間稼ぎぐらいは出来るはずだ。無我夢中に少女は二階へと昇り、そのまま一番近い部屋へと転がりこんだ。

パステルイエローの愛らしい部屋は、こんな状況でも変わらない。

ここは、末娘の部屋だ。部屋に入った瞬間に、少女は彼女との思い出が脳裏を駆け巡る。少女は涙が滲みそうになるが、必死に泣かないように堪えた。クローゼットの中に入ると、少女はゆっくりと音を立てないように扉を閉めた。扉の隙間から漏れる僅かな光だけが頼りだ。息を殺し、音を殺すように必死に震えが止まらない体を抑えようと肩を抱いた。少女は、荷物から形見のアクセサリーを取り出すと、祈るようにそのまま握り締めた。どうか助けて下さい。わたしたちをお救い下さい!時間を忘れ、ただただ必死に祈り続ける。


そして、少女は。

ガチャリ、と誰かが入ってくる音が開いた。


少女は声をあげそうになるが必死に押し殺す。

「こんなところにいるの?」

外から美しい声が聞こえる。緊張と恐怖で限界だった少女では、最初はそれが青年の声か、長男の声なのか分からなかった。

ああけど、きっと長男なのだろう。だって隙間から見えるのは、笑いながら部屋を見て回る血まみれの男性だったのだから。

示し合わせたように、男性がこちらをぐるりと顔を向けた。

その瞳には、狂喜と狂気が溢れんばかりに映っている。少女は思わず声を上げそうになった。

一歩一歩、確実にこちらに向かってくる。

このクローゼットが開かれたら終わりだ。

このまま何もしなければ少女は無惨に長男に殺されるだろう。少女は、もしも見つかった時にどうしたらいいのかを、短い間で必死に考えていた。もしかしたら長男が扉を開くタイミングでこちらから先に戸を開けば、不意を突けるかもしれない。けど、タイミングが合わなかったらそれですべてが水の泡だ。緊迫した状況で、少女の心がそうさせてくれるかわからない。少女の心は恐怖でおぼれそうになった。外の光が失われていく。彼という死神がこちらにやってくる。ぎゅ、と思わず目を瞑った。


直後。

駆ける音が、遠くから聞こえた。

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