Reminiscence 11
主人の隣に座っていた奥方が、けれど。と小さく言葉を零す。
どこか迷うように、心苦しそうに告げる彼女の言葉には、困惑がにじみ出ていた。
「けど、使って……貴方たちが危険な目に遭うような魔術なら、私は反対よ。本当に、その魔術が効くのかも、わからないのよ?私も妹を助けたいと思っているけれど…。それで家族が傷つくことがあったら……。私はきっと耐えきれないし、それはきっとあの子も望まないわ。どうして妹が姿を消したのかは分からないけれど、誰かの命を犠牲にして生きたいって思うような子とは、思えないの。」
そう話す母の表情には、何処か確信のようなものが見えた。
青年は、思わず「けれど」と口に出そうとしたが、どうにか堪えることが出来た。
母の言葉に続けるように当主は、冷酷に告げた。
「それに、誰が保証出来る?次は使わないと。よく聞きなさい。確かに、彼女の境遇には同情しよう。だが、それは私たちの家が関わる事ではない。あくまでも彼女は、クリステア家の者だ。勿論私も出来る限りのことはしよう。病気を研究する機関に、資金の援助をする予定だ。……心苦しいが、私に出来るのは数少ない。後は、彼女の気の持ちよう次第だ。もしかしたら、治療法や……薬が彼女が存命している間に出来るかもしれない。私たちは医者ではないんだ。後は専門の方にお任せするしかない」
彼の言葉で、その場は静寂に包まれた。父親の言葉の全てが、青年が妹二人に言おうとした意見そのままだった。
今にも圧死しそうな重い空気に、青年は息苦しさを覚える。
全く間違えではない。いやむしろ、彼の言っていることは正しい。正しいから、この場の誰もが父親に何も言えないのだろう。
文句のつけようのない正論だ。
けれども。それでは間に合わないのだ。
たとえ完治する薬が完成したとしても、彼女がその時に生きていなければ何も意味がない。
言葉だけで諦められるならば、苦労はしなかったのだろう。けれど、この愛だけはどうしようもなく手放しがたかった。どれだけ正しい言葉をかけられようが、彼女を救えないのならば、そんな理論はただそれらしい言葉を並べ立てているだけの文章で、意味のそれなりに込められている文字列でしかない。青年は、気持ち悪い感覚を吐きだすように息を吐く。その後、青年は己の父親に顔を向けた。
彼の瞳に迷いが生じていることに、青年は気がついていた。その瞳に青年はとても見覚えがあった。あの再会の日、当主としての決断を話す奥方の妹も同じ色をしていたから。合理的に言葉を盾のように話しながら、その内側では感情を見せぬように必死に覆い隠しているような、曇り空とよく似た瞳。青年は、その雲を晴らすように唇を開いた。
「使ったらその場で破り捨てればいいじゃないですか。その羊皮紙を。いいえ、破るだけでは駄目ですね。燃やしましょう。跡形もなく。この世から消し去るんです。その羊皮紙だけを消すのは不安でしょうか。では、地下書庫にあるすべてのものを廃棄しましょう。どうせ魔術の存在は、俺たち一族しか知らないんです。今代で魔術という存在を消し去ってしまえばいい。……妹たちがここまで言っているのです。一度ぐらいは自由にさせてみたらいいじゃないですか。もう少し信じてみたらどうなんです?彼女なりに誰もが不幸にならないように選んだのがその羊皮紙だったのですから。それにですね。俺も彼女を助けたいんです。彼女が亡くなってからでは遅いんですよ。彼女が亡くなった後に医学が発展し、治療法が見つかったとしてもです。死者に治療は施せないんですよ。もう手遅れなんですから」
全く正論ではないが、青年が思っていることを全てそのままに、目の前で苦悩を示す壮年の男性にぶつける。当主でもあり、自分を育ててくれた父親に、思いの丈を伝える。目の前で皺を深く刻む父親は、青年の言葉を聞いて険しい顔でしばらく考え込んでいた。
「わ、私も!私も協力したいです!」慌てて手を挙げたのは、使用人であるメイドだった。大声だったため、その場にいる全員がメイドに注目することになる。メイドは一斉に自分に目線が向いたことで「あ」と驚いたような声を出したが、ぶんぶんと振り払うように首を横に振り、覚悟を決めたようにきゅっと服を掴んで全員を見た。彼女のよく通る声は、この洋館にいる住人に例外なく届いた。「私、最初は危ないかなって思ってたんです。けど……お話を聞く限り、やる価値はあるのかなって。それに、私と弟は、あの子とは幼馴染だったんです。だから、幼馴染を救いたいんですっ。お願いします。私たち姉弟にも手伝わせてくださいっ」と勢いよく頭を下げた。
多くの縋るような視線を受けながらも、なおも父は首を縦に振らない。
しかし、今の彼には当主としての厳格さと、父親としての柔和さが混在していた。彼も彼で迷っていることが、青年にもよく伝わってくる。奥方の妹を助けたい気持ちはあるのだろうと感じていた。もしも感じていなかったら、もっとバッサリと長女の提案を却下しているだろうから。魔術の行使というタブーを侵さなければいけないが、魔術のようなデタラメなことをしなければ彼女の命は確実に救えない。そんなジレンマに陥っているようだった。
ふと、青年は思う。
魔術の"何"に、父は怯えているのだろう。
青年も、あの羊皮紙に限ってはかなり悍ましいものを感じていることは事実だ。
けれど彼はそうではない。彼はあの羊皮紙だけではなく、地下書庫にある「魔術」という存在そのものを忌避している。父はあの地下書庫にある魔術書と呼ばれた本の山を、先祖代々から伝わる遺産だとは口にしていたが、目に見えて分かるほどに嫌悪感を示していた。先祖が大切にしてきたものというだけで捨てていないだけで、本当は今すぐにでも消し去りたいはずだ。おそらく父は魔術に対する知識はこの家族の誰よりも豊富であり、故に魔術のメリットもデメリットをよくよく理解している。理解した上で、父はデメリットの方が大きいと捉えた。ならばその理由は?魔術を悪用されないように、それも事実だろう。ただ、もっと別の理由があるように思えた。それは家族が邪道に転がり落ちるという悪影響だけではないだろう。
だからこそ、青年は問いかけた。
「お父様、魔術の何を恐れているのですか?」と。
父はすぐには答えなかった。額を手を当て、苦汁を飲ませれたような顔をしている。
その場にいる全員の目線が、主人へと注がれる。主人はその目線に当然のように受け止め、テーブルに手を置いた。
そうして彼は語る。魔術の何に恐れていたかを。
「全ての魔術には、対価が要求される。かつて私がざっと目を通した魔術だけで、命が要求されるものがいくつもあった。……天気を操る魔術の対価は、5人以上の心臓を切り刻むことだ。そうすることで一時間のみ自由な天気にすることが出来る。鉄を金塊に変える魔術もあったよ。だが鉄を金塊に変えるには、何人もの命を捧げなければいけなかった。多くの魔術というものは、生物の死骸の上で成り立っている。魔術は、存在するだけで人を堕落させるものだ。こんな邪悪なものを使うことなど、信じられない。父から魔術は消えるべきものだと教わってきたし、私も、あの地下書庫にしまいこまれた魔術の存在を嫌っていた……だが」
父親はそこまで告げると、祈りを捧げるように両手を握り締めた。何に祈っているのかは、青年にはうかがい知ることは出来ない。過去の自分に対する問いかけなのか、それとも先の見えぬ未来への漠然とした不安か。そのどちらともとれるような恐怖と困惑の表情が、彼の心境を如実に語っている。
魔術の行使には対価が必要。
それ自体に青年は何の感情も抱かなかった。ある特定のものに対価を支払うこと、それは魔術に限らず至る所で存在しているからだ。商売だってそうだ。今こうして集まっている全員だって、時間という対価を支払い話し合っているのだから。問題はその対価の内容だ。何故ここまで臆していたのか腑に落ちた。魔術というものは、随分と持つ趣味が悪いらしい。父親が躊躇するのも頷ける。
青年は、父親がどんな人生を歩んできたのか知らない。父親である以前に彼は一人の人間だ。青年が生まれる前から、様々なことを経験してきたのだろう。その中で、彼は魔術に対して自分なりに考え抜き、多くの人が持つ魔術に対する見解を知った上で、この結論に至ったのだろう。それでも、青年は彼の言葉に納得はしても、首を縦に振ることだけは出来なかった。
言葉を続ける。出来る限りに冷静に、けれども隠し来れない強い願いを込めて。
「妹が持ってきた羊皮紙の魔術の対価は、そこまでのものでしょうか?一人、一滴分の血ですよ?確かに多少の痛みは必要ですが……。正直、俺もこれで病気が治ったら苦労はしないと思っていますよ。ですがお父様、全ての魔術がそんな地獄めいたものではないでしょう。それはお父様もよく判っているはずです。残念なことに、俺たちが取れる手段としては一番はっきりとしていて、今すぐにも実行出来るものがこの魔術なんです。繰り返しますが、俺たちには時間があるとしても。彼女に悠長な時間は残されていません。……魔術は確かに危険です。最悪、言葉一つで世界を滅ぼすことの出来る代物なのは判ります。お父様の言う通りにした方が危険も少ないでしょう。でも、俺は、俺の家族を信じています。それでも信じ切れないのでしたら、この場で羊皮紙を破り捨ててください」
魔術は、何のために作られたのだろうと、はじめて青年は思いを馳せる。
青年は、長女や主人のように魔術についての知恵があるわけでもない。興味があるわけでもなかったし、これから先は、もう二度と一生関わっていくこともないだろう。けど、青年は魔術の興りは、きっと邪悪な理由から始まったものではないと信じている。人の手で作られたものの大半の存在には、作り手が願う純粋な夢や希望で満ちている。こうすればきっとよくなるだろう。今よりも素晴らしいものになるだろう。そんな理由で世界にものが溢れていく。魔術だって、世のため人のために作られた結果に過ぎない。
であるならば、重要なのは使用者の意志なのだ。善き人が使えば善い力になり、愚者が使えばただの邪法となる。そして青年は、自分たちの家族が愚か者ではないと心から信じている。わざわざ存在を消し飛ばすような封をしなくても、そんなことをする必要がないぐらいには、どうしようもないお人好しであると、青年は知っている。生まれてから今日まで、この善人たちに囲まれて育ってきたのだから。
「私は……既に過去に縋る老人だったのかもしれん」と、首を軽く横に振りながら、独り言のように呟いた。
主人は「聞きなさい」と洋館に居る全員に語る。家族や使用人たち全員が、彼の言葉に耳に傾けている。
そしてそれは、青年もその一人だった。
「本来であるならば、私は当主としては役目を終えているべき人間だ。凝り固まった思考では、どうしても偏った判断をしてしまいがちになる。……魔術に関してもそうだ。私は魔術は忌避されるものだと教わってきた。だがそれは…私個人の話であり、君たちには全く関係のないことだ。だから、君は、どう考えているのか聞きたい。おそらく君がこの場では一番冷静な判断を下せるはずだ」
その言葉を最後に、当主は口を閉じる。まるで判決を待つ被告のような態度で、これまでずっと黙り込んでいた長男をじっと見つめた。
しばらくの沈黙があった。
青年は祈るように、長男を見つめる。出来ることならいいよと言ってほしいが、青年が言ってもこの場では何の効力も持たない。
当主は、彼に選択を委ねた。次期当主として立つ長男に。もしもこの場で辞めようと彼が一声出したら、それで終わってしまう。彼女を救える方法が失われる。そうしたとしても、別の方法を探せばいいだけの話であることはわかっている。もとよりこんな方法、期待する方が間違いであることはわかっていた。次は、もっと真っ当な方法を見つければいい。
こんな嘘みたいな方法で救えるなんて、きっと家族の誰もが心の奥底ではありえないと思っているはずだ。言い出した、長女ですらも。
けれど今はこれしか明確な方法がなかった。
青年と写し鏡である彼は、羊皮紙を手に持ったまま言葉を発さず、ただ黙している。長女も、末娘も、使用人の二人も、そして両親も。この場にいる全員が自分と同じ瞳をしていることに気がついた。長男はふいとこちらを見やる。階段の時に覗かせた感情がそのままそっくり眼球に変えたような、美しく色づいた紅色の瞳が、青年を確かに射抜いた。
かさ、と紙がこすれる音と共に、長男が羊皮紙をテーブルに戻す。
そして顔を上げ、全員を見渡した後に長男は口を開いた。
父と似たような語り口調だが、それよりも遥かに親しみやすい次期当主としての言葉が、洋館全体を満たす静寂を貫いていく。
「僕は、一族を崩壊させるような実害がないのであれば、魔術の行使はしてもいいと考えているよ。全て魔術に依存するのはよくはないよ。けれども、彼が言うように、魔術というものはただの力だ。その使いようは、僕たち使用者に委ねられる。この羊皮紙に限ってなら、僕は行使しても構わないと思う。それで一人の命が救われる可能性があるのなら、やる価値はある。そう思うよ。まあ、魔術の効果がなかったら、そういうものだと納得してもらうしかない。もしもこれで救えたとしたら、彼女を助けることでクリステア家に恩を売ることも出来るだろうしね。彼女は全員から好かれていた、きっと多くの人も喜ぶだろうから」
青年は、彼の言葉を聞いて、目を見開いて長男の方へと顔を向けた。許可を出すなんて思わなかったからだ。
長男は情が深い人物だが、全てをその場限りの感情に任せて決断を誤るほどの愚か者ではない。次期当主しての冷静な観察眼もしっかりと持ち合わせている。その上の決断を下したのならば、青年は何も言う事はない。これで彼女を救えるかもしれない。必ず助けられるというわけではないが、僅かな可能性を掴めただけでも嬉しかった。
目に見えて喜んだのは末娘だった。
「やったあ!お兄様!ほんとにほんとにありがとう!嬉しいわ!」
末娘は長男に飛びつくように抱き着いた。長男は末娘の頭を撫でて、困ったように微笑みかけている。長女も普段の静かな微笑みではなく、冬を彩る椿が花開くような笑顔を浮かべていた、テーブルに置かれた羊皮紙を丁寧に、折り目がつかないように拾いあげる。
「倉庫代わりに使っていた地下書庫の奥の部屋が丁度いいと思うわ。広さもあるし、あそこの部屋は音が全く聞こえないもの」
「ならそちらを使いましょう!お姉様!どうか指示を出してね。執事さん、地下書庫の鍵をあけてくださる?お兄ちゃんもメイドさんも手伝って!お父様とお母様は休んでいて!こういうのは、若い子たちに任せればいいのよ!」
はしゃぐ長女と末娘に、メイドも執事も「はい、わかりました」と同時に大きく頷いて末娘と共に地下書庫へと向かった。青年も末娘の頼みに「はい」とだけ告げて、地下書庫の方へと歩き出した。執事の持っていた鍵で解放された地下書庫のに続く階段がある扉に、長女と末娘が嬉々として沈んでいく。メイドが「ああっ、危ないですよー!」と今にも階段から転げ落ちそうな勢いで階段の闇へと消えていく。執事が小さくため息をついた後に「危ないのはどっちだよ……」と呆れたような声と共に、彼女たちの後についていった。
青年も入ろうとして、ふと足を止めた。ロビーにはまだ三人の気配があるからだ。
気になった青年は、三人がいる場所に振り返った。
父親は、杖を軽く握りしめ立ち上がり歩き出す。母親も、父親をいつでも支えることが出来るように彼の傍にいた。夫妻は、長男と向き合った。長男は少し申し訳なさそうに笑みを作る。父もまた軽く笑った後に、その笑みをすっと消す。
「だが、対価を見るに、そこまで強力な魔術だとも思えない。私たち全員で行使したとしても、彼女の病気が治るかどうかわからない。それでもやるのか?」
長男は頷いた。
「だからこそだよ。本当に、何でも願いを叶える魔術なんてものがあったら、きっと血一滴だけではすまされないでしょう?けど、いいんだ。これで治るのなら、きっと全員が幸せになれる。たとえ魔術が紛い物だったとしても、家族に何もなければそれでいい。それにね、僕も彼女が死ぬにはあまりにも早すぎると思っていたんだよ。お父様もそうでしょう?だから、すぐに魔術を使うという提案を拒否することが出来なかったのでしょう?」
「クリステア家に恩を売れる、だなんて打算的なことを口にはしたけど、彼女はお母様の大切な妹で、僕たちと半生を共に過ごしてきた家族でもある。見捨てることなんて出来ないよ。彼も言っていたけれど、彼女が死んでからでは遅いのだから。……みんな、彼女のことが大好きだからね」
長男の言葉は、まるで蓄音機から流れる録音された曲のようだった。
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