Reminiscence 1

1890年のあるよく晴れた日のことだった。

雲一つない晴天の空を、窓越しに青年はぼんやりと眺める。当時8歳だった彼は、家族以外に話し相手もおらず、一人でいることが多かった。それでも別に青年は寂しいとは思ったことはなく、ただ漫然とした時間を過ごすのは苦痛ではなかった。

当時では、青年が生まれ育ったフローレア家と、奥方の生家のクリステア家はその地域では富豪層に属する一族としてそれなりに有名だった。この二つの一族の繋がりは1600年まで遡り、約300年の時が経ってもその絆は深く、フローレア家とクリステア家で、一つの家族のようなものだった。勿論そんな気の置けない関係だったものだから、お互いの実家に遊びに行くことは日常的だった。今日は、クリステア家の新入りが遊びに来る日だ。一番下の妹が「とってもかわいくて、あたまがいいのですって、お兄様とお兄ちゃんと同い年なのよ!あたしにからみるとにさいとしうえだけど、なかよくできるかな…」と、はしゃぎまわっていたのが今朝の話だ。

今日来る同い年の子供は、母の血の繋がらない妹で、どうやらどこかの馬鹿が勝手に産ませた子供で、しかも彼女の親は既に亡くなっているらしい。その境遇を憐れんだ母の両親が情けをかけて引き取った不義の子ということを、生来から耳のよかった青年は、両親が父親の部屋で沈んだ声でそんな面白くもない話をしているのを聞いてしまった。青年は来訪者の複雑な事情には全く興味がなく、それをどうでもよく思っていた。そんなもので憐れんでも何も得るものがないと考えていたからだ。

家族が来訪者を心待ちにしている中、青年だけが洋館の最上階にあたる三階の一つしかない大きな部屋のテーブルに座り、一人で歌を歌っていた。二階にも自分の部屋はしっかりと用意されていたのだが、その部屋を使うことはあまりなく、この部屋に居座っていることが多かった。二階は部屋を出入り足音や廊下の話し声で絶えないものだから、青年には喧しく感じられたのだ。三階の部屋はよほどのことがなければ家族の誰もが訪れることはないから、静かに過ごすのには最適な場所だった。そういう生活を送っているものだから、気がつけば家族も、三階の部屋は青年の自室という認識を持っていた。

来訪者を待っていた妹二人が、いつまでもロビーにこない青年を見かねたのか、わざわざ三階の扉を叩いて「お客様をお出迎えしましょうよ」と呼びに来たようだが、青年はその声にも気づかずに歌に没頭していたため、家族の声が耳に入ることはなかった。


青年の歌を遮ったのは、一人の知らない少女の声と、扉を開く音だった。

ノックもせずに扉を開けるだなんて、なんて礼の欠けた奴なんだろうと思いながらも、そちらへと顔を向ける。

そこには、美しい白髪と桜色の瞳が印象的な、青年と同い年前後に見える愛らしい少女が立っていた。

その少女は、瞳にきらきらとした期待を溢れさせていて、おそらく青年の歌を耳にしてこちらに来たのだろうと思われた。そして青年はこの少女こそが、母の義妹なのだろうとぼんやりと思った。青年は目を逸らしたまま「ぶれいなひとだね」と文句を言った。

けれども目の前にいる子供は花のように微笑み、言葉を紡いだ。

「おきゃくさまがきたのに、おでむかえしないのも、とってもしつれいだとおもうわ」

見事に切り返された青年は、大きくため息をついてテーブルから降りる。

少女は花のような美しい笑顔を浮かべたまま、その様子を見つめていた。彼女は、舞うように青年に近づくと、彼の手を取った。

「ねえ、あなた、うたがうまいのね。よかったら、続きをうたってくれたらうれしいわ。わたし、おきゃくさまになってもいい?」

その子供は輝かんばかりの瞳で青年を見つめた。青年は彼女と一切目を合わせないまま「みんなとあそばないの?きみにあうのをたのしみにしてたのに」と静かに、暗に拒絶の意志を込めて返した。しかし彼女は首を小さく横に振る。

「どうしてもうたがきになって、ここにひとりできたのよ。ほんとはロビーによぶつもりでここにきたけど、きがかわったわ。だから、うたってほしいの」

子供は青年に小さく笑いかけた後に、床にぺたりと座った。どうやら青年にその気がなくても、彼女はここに居座るつもりらしい。根負けした青年は、再びテーブルの上に座ると、大きく、腹から息を吸った。目の前の子供は今度は青年のマナーを注意したりしなかった。ただ強く焦がれた瞳をしながら、彼の歌にひたむきに耳を傾けていた。


歌っていると時間を忘れてしまうのは、青年の悪い癖だった。

気がつくと空は夕焼けで赤く染まっていることに気がついたのは、双子の兄弟である長男のノックの音で意識が引き戻されたからだ。青年の歌が止まったと同時に、彼女も音の方向へと振り返る。

自分と同じ顔をした彼はとてもばつの悪そうな顔をしていた。

「ごめんね。じゃましちゃったかな。そろそろかえるじかんだって、おかあさまがきみのことをよんでいたよ」

その言葉は、歌に聞き入っていた少女へと向けられていた。彼女は名残惜しそうに床から立ち上がると、青年の方へと顔を向けて、いっぱいの笑顔で手を振った。

「まるでゆめのようなじかんだったわ。つぎもうたをきかせてね、とってもすてきだったわ。じゃあ……またね」

名残惜しそうに別れを告げると、少女は嬉しそうに駆け出していってしまった。

長男は「げんきなこだったね。けど、きみのうたはとてもきれいだから、きもちもわかるよ」と、目を細めて微笑んでいる。けれども青年は何処か曖昧に「うん」と首を横に振るだけで、彼の言葉を半分は聞き流していた。

青年は、その背中をじっと見続けていた。

彼女の姿が消えるまで、一瞬も目を離すことはなかった。


それからも、その子供__奥方の妹は家に来るたびに三階へと足を運んできた。

毎回彼女は青年に「うたをきかせて」とせがんでくる。最初は彼女のお願いも嫌々ながらに引き受けていたが、そんな時間を長く過ごしていれば、自然と彼女のために歌を紡ぐのが当たり前のようになっていた。そして青年も、その変化を嫌だとは思わなかった。

奥方の妹が家に来るたびに、青年は、ただ一人のために歌を紡いだ。

雨が降る日は雨の夜に寂しさを募らせる歌を、悲しみを乗せて囁いた。またある時は風に吹かれながら旅立ちを祝福する歌を、憧れにも似た気持ちでメロディーに乗せた。寒い日の時は、踊るような声で冬の先にある春の足音に笑いかける洒落た歌を彼女に聞かせた。奥方の妹は歌を歌い終えるたびに「すごいわ、もっとうたってくれる?」と、嬉しそうに笑ってくれていた。

奥方の妹がこの三階の部屋に通うようになってから、自然と自分以外の兄妹も青年のステージに集まることが以前よりも増えた。末娘はこれ見よがしに、青年の全く趣味ではないメロディーの楽譜を持ってきたし、長女も本を持ってきてここで読むようになった。長男も困ったように眉を八の字に下げつつも見に来るようになった。

青年は、以前よりも賑やかで煩くなったと多少煙たがるのと同時に、家族と彼女の声が楽し気なコーラスに聞こえて、心がぼんやりと灯っていくのを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る