妖怪殺しと、人殺しと、その両方と

金子エンシュー

薄闇の世界へ

第1話 すべてのはじまり

 男が深夜の森の中を走っていた。息は既に切れ、ハアハアと呼吸をする度に、肺が焼け付くように痛む。それでも男は走ることをやめようとはしない。痛むのは肺だけではなかった。男は自分の肩に目をやり、服が真っ赤に染まっているのを確認した。紛れもなく、その赤色は自身の血だ。傷というものは目で確認をすると途端にその存在感が増してくる。額にはじんわりと、ベタベタした嫌な汗をかく。

 

 早く、可能な限り早くと、男はとにかく道を急いでいた。早くあの場所へ行かなければ――。

 深夜の森の中の空気はひんやりと湿っており、体中の汗を即座に冷やしていく。空には満月が浮かんでいた。そのおかげで夜中といえども視野は確保できているのだが、その分『あいつら』に見つけられる可能性も高い。いや、既に見つけられているのではないか?いつ襲い掛かろうか、どのように仕留めてやろうか?『あいつら』はそんなことを考えているのではないだろうか?

 男はゾッとして考えるのをやめた。そのほうが――。

 

 考えはそこで途切れた。いや、強制的に途切れさせられた。最初に聞こえたのはヒュッという風切り音。最初に感じたのは右脚に走った大きな衝撃だった。なにか石でも投げつけられたような。そして、次には脚に力が入らないことを察した。


 全力で走っていた男は当然のように大袈裟に転ぶ。顔や体が泥や土、落ち葉などで汚れるのが分かる。

 

 ゲホゲホと咳き込みながら男は顔についた汚れを拭い、右脚を見た。走り続けた疲れと、唐突に転んだ衝撃のせいで吐きそうになったが何とかこらえた。気持ちが悪い。そして、月明かりに照らされた右脚は――。


 男はもう一度吐きそうになった。今度は自分の身に起きた惨状を知ってしまったからだ。右脚の膝から下がスッパリと、綺麗になくなっていた。その傷からは血が止めどなく溢れ出している。地面には血だまりができ、どんどん大きくなっている。鉄の匂いがして、死へ近づいていることが分かる。地面に出来た血だまりに黄色い満月が映し出され、幻想的と言えなくもない風景が作り出されている。男は体中が冷えるのを感じた。不思議と痛みはあまり感じていなかった。あまりにも大きな怪我を負うと、体がその傷を無いかのように思わせるのだろうか。それよりも脚が失われた違和感のほうが大きい。

 

 男は前を見た。先ほどの音の正体がすぐ目の前の地面に刺さっていた。

 矢だ。それも通常の物より遥かに大きい。鏃は先端が二又に分かれているもので、その鏃でさえ人の掌ほどの大きさがある。明らかに人が使用する大きさではない。


 そのとき、後ろからガサガサと枝木を掻き分ける音が聞こえてきた。男は倒れたまま、そちらへ振り返った。顔には大粒の脂汗をかいている。深夜の森の木々の陰から、のっそりと黒い人間が出てきた。否、確かに手も脚もある、一見人のように見えなくもないが、よく見ると明らかに異なっていた。まず背丈。人間の背丈を遥かに超えている。そしてその皮膚はどす黒い赤色をしていて、黒牛のような剛毛が体中に生えている。人間の胴体ほどもある手足は筋骨隆々と言う言葉では表すことができないほどだ。そしてその顔。口には鋭い牙。目は野良犬のように爛々と黄色に光っている。そして、頭は禿頭であるが、太い血管が浮き出ていて、その額には鋭く白い角が生えている。


 ―――『鬼』だ。だ。

 男の心中は雑多な感情でかき乱されていた。

 間違いない。想像上のものであると思っていた。この世ならざるものだと思っていた。つい先ほどまでのことであはるが。逃げなければ、今すぐに。


 男の周りの地面は既に血だまりだ。


 片足のない男が這ってでも逃げようと両手で地面を押して、上体を起こした。その化物――赤鬼を睨みつけながら。しかし、赤鬼は無慈悲にも背中の矢筒から次の矢を弓に番えた。次の瞬間には矢弦から発せられるバヒュンという音と共に、矢が男の胸部を貫いていた。

 

 赤鬼は力尽きた男のもとへゆっくりと近づくと、その手元に落ちていたごくごく小さな箱を拾い上げた。男が走っている間も決して落とさぬようにと握りしめていたものだ。見た目としては何の変哲もない木製であり、大きさも握り締めた人間の掌の中にもすっぽりと納まってしまうほどである。

 

 赤鬼はその箱だけを拾うと男には目もくれず、深夜の森の奥へと消えていった。


 その僅か後、静けさだけが残ったその場所で、力尽きたはずの男がゆっくりと蠢いた。まだわずかに動く右手を懐に突っ込むと、先程赤鬼が持ち去っていった物とまったく同じ外見の小箱を取り出した。小箱は男の血で真っ赤だ。そして霞む目で周囲を見渡すと、すぐ間近にある木の根元に、何か動物が掘ったのであろう穴が開いているのを見つけた。

 

 男は最後の力を出して小箱をその穴へ投げ込んだが、ぐにゃりと全身の力が抜け、いよいよ動かなくなった。

 

 後に残ったのは着物を着て腰に折れた刀を差しただけの男の死体、その死体に吹き付ける冷たい風だけとなった。夜空の満月はいつのまにか雲で覆い隠されていた。

 

 戦国といわれる時代、日本のとある山中での出来事である。


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