第67話 妖狐

 玉藻前はゆったりとした動きで刑部の方を向いた。


 「感謝する。お前のお陰だな?」

 美しい声だった。鈴が鳴るような、澄んだ清流を想像させるような、透き通った声だ。


 「……はい」

 刑部はぼんやりとした口調で答えた。自然と敬語になっていた。


 玉藻前は緩慢な足取りで刑部まで歩み寄ると、その手で刑部の頬に触れた。


 「正直、まだ夢を見ているような感じがする。随分と長い間眠っていたから」

 玉藻前の細い指が、獣の妖怪と化した刑部の頬をなでる。


 「だが、お前の強い妖気に触れていると、これが現実だと、はっきりと解るような気がする。お前がしてくれた働きも、聞かずとも解る。有難う」

 玉藻前の言葉に、刑部は何も受け応えができなかった。そして立ち尽くしたまま、いつの間にかボロボロと涙を流していることに気が付いた。玉藻前の圧倒的な妖気、強さ、妖しさ、カリスマ――、あらゆることが妖怪として優れている。まさに畏怖されるべき存在を目の当たりにしているのだと感覚で理解していた。


 「その妖気の強さは――」

 玉藻前の言葉の続きを、銃声の嵐がさえぎった。


 口火を切ったのは現が最も早かったが、ほぼ同時にその場にいる全員が攻撃を仕掛けていた。全員が本能で、タイミングを逃せば恐怖に飲み込まれてしまうということを悟っていた。


 この妖怪は、一刻でも早く倒さなくてはならない存在だと、全員が感じ取っていた。


 5.56ミリ弾、投げナイフ、.38スペシャル弾、4.6ミリ弾。その全てが一つの濁流や突風の様になり、玉藻前と刑部に襲い掛かった。人間は勿論、妖怪であってもひとたまりもないはずだ。


 「久方ぶりの会話を、邪魔するものではないよ」

 玉藻前が刑部の方を向いたまま、右手だけを一行の方へ突き出していた。刑部の頬に触れているのとは逆の手だ。掌をこちらに向けているような格好だ。


 放たれた全ての銃弾、投げナイフがその前で静止していた。地面に落ちる訳でもない。宙に固定されたかのように、玉藻前の掌の数センチ前で浮いている。


 一行はそれを見て、攻撃を続けることができなくなった。誰もが眉間に皺をよせ、深刻な表情をしていた。武器を構えたまま、次に取るべき行動を考える。


 「金属のつぶてを飛ばす武器か。存外、進歩しておらんようだ」

 玉藻前が、刑部の頬から手を放し、宙に浮いている銃弾や投げナイフを見た。突き出した手をクルリと回し、手の甲を一行に向けるような仕草をした。


 途端、浮いていた銃弾や投げナイフが向いている方向を正反対に変えた。


 一行は次に起こるであろう事態を想定し、ジリジリと後退を始めた。急な動作をすることも、武器を背けることもできない。


 「これは、返してやろう」

 玉藻前が、手首を振るような動作をした。銃弾と投げナイフがその動きを再開した。放たれた際の速度そのまま、玉藻前たちでなく一行に向かって飛んだ。


 同時に、一行は弾かれるように回避行動を取った。横っ飛びに転がる者、顔を腕で隠しつつ後ろに飛び退る者、その場に伏せる者。様々だった。


 飛来した大量の弾丸と投げナイフが一行に襲い掛かる。弾丸と投げナイフの大多数は地面を抉るに終わったが、そのいくつかは一向に命中した。


 それらはプレートキャリアにめり込み、腕や脚などをかすめた。幸い致命傷を負ったものはいなかったが、全員が怪我を負っていた。辺り一面には派手に砂埃が舞っている。


 ぐう、と呻きながら印付と磐船が起き上がった。それぞれMDRXとネゲヴを杖の様に使い、体の支えにしながらだ。そして銃を構え直した。印付は肩に、磐船は脚に傷を負っている。深くはないが、浅くもない怪我だ。プレートキャリアにも二、三発の5.56ミリ弾がめり込んでいた。


 颯は顔を隠すように掲げた左腕の前腕部を、かすめ飛んだナイフで切り裂かれていた。さらにプレートキャリアにもナイフが突き刺さっている。いつもの涼しい顔はなく、呻きながらそれを引きぬくと、そのままそのナイフを構え直した。左腕からは血がしたたり落ちる。


 辰宮は4.6ミリ弾で頬を裂かれていた。頭部に銃弾を受けなかったのは不幸中の幸いとも言えるが、ダラダラと流れ出て頬を真っ赤に染める血は、気を散らせる。他人の傷を癒せる辰宮の血液ではあるが、その持ち主である辰宮本人の怪我を治すことはできない。


 源は一番軽症であった。プレートキャリアに一発の.38スペシャル弾を受けたのみだ。それも.38スペシャル弾は拳銃弾の中でも強力とは言えない弾薬だ。とは言え、それなりの衝撃はある。警察官としてのキャリアの中でも、撃たれた経験などは無かった。撃たれたというその状況自体が、大きなショックだった。


 「おや、この程度なのか? それとも私がまだ寝ぼけているのか? まあ、誰も死んでおらんのは誉めてしかるべきところか」

 玉藻前がやや口角を上げながら首をかしげた。何気ない動作だが、その所作には何故なぜだかゾクリとさせられる怖さがあった。


 「ああ、まだ寝ぼけてるんじゃないか? かすり傷を負わせただけだ」

 現が言いながらスカーを構え直した。現も自身の5.56ミリ弾で傷つけられていた。上腕と脚に怪我を負っている。特に上腕は抉られたような傷だ。出血もひどく、現の服を赤く染め、腕を伝ってポタポタと血が流れ落ちている。


 「そうか。では目がめるまでの間、お前が奴らの相手をしておくれ」

 玉藻前がそう言いながら、突然刑部の腹部に手を突き入れた。手首から先が、刑部の腹部に完全に埋まっている。刑部も、驚きのあまり声も出せずに自身の腹部を見たが、すぐにその手は引き抜かれた。傷一つ負っていない。


 「少しばかり妖気を分け与えた。同じ狐狸の妖怪として、どれほど強いのか、私に見せておくれ。の末裔よ」

 玉藻前はそう言うと後ろに下がった。


 一行は銃口の向きを玉藻前から刑部に変えた。


 「……いぬがみぎょうぶ。『隠神刑部いぬがみぎょうぶ』。それで刑部おさかべか」

 現が呟いた。小さな声だったが、源にはやけに大きく聞こえたように感じた。


 「ああ、なんて嬉しい。なんて良い日だ」

 刑部が震えた声を発した。歓喜の声だった。その声は徐々に唸るような、低いものへと変わっていった。半人半妖のような姿であった刑部の体がより変化していく。体が何倍にも膨れ上がるように膨張していき、着ている黒い服が破れた。中から現れたのは人間の裸体ではなく、熊のような剛毛に覆われた獣の体だ。いつの間にか尾まで生えている。茶色く太い尾が背後に揺れている。顔も造りそのものが獣のそれへと変わっていった。爪も牙も、よりその鋭さを増した。


 最終的にはそこには完全な妖怪狸の姿があった。人間としての要素は、少しも残っていなかった。身長は二メートルを超えている。二足で立つその巨体は、狸と言うよりはヒグマの様だ。絵本やアニメで描かれているような可愛らしい妖怪狸などとは似ても似つかない。爛々らんらんと光る黄金色の眼はひどく不気味で、その鋭い爪と牙は人など簡単に引き裂くだろう。


 「さあ、行くぞ。

 刑部の低くこもった声が響いた。

 


 

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