第19話 愛情の意味
次の日、閉店後の締め作業は、よりによってアナと二人だった。昨日のこともあり、会話は最低限の業務連絡のみで、二人の間には気まずい空気が流れていた。時折、アナの視線を感じたが、気付かないふりをした。
教務を終えて、帰り支度をする。薄いメイクに直して、洋服も着替える。今日はこの後、クロードと会う約束があったのだ。
ジョセフが二階にいるうちに店を出ようと、早足になる。
「ルー、ちょっとこい」
ちょうどドアノブに手を掛けた時、ジョセフが二階から叫んだ。
しまった。またダサいとか散々言われるんだ。それになんで私だけ、と不満に思った。
「おつかれさまです」
すれ違いざま、アナが一瞬、バツの悪そうな顔をした。嫌な予感がした。
──まさか、ジョーにばらした……!?
勝手に話すなんてひどい、と内心で憤慨する。せめて一言あってもいいんじゃないか。
悶々としながらジョセフが待つ休憩室へ行くと、ジョセフは腕を組んで座っていた。テーブルには紅茶が置かれている。この妙な空気で察した。
──バレてる……!!
「座れよ」
ジョセフが穏やかに言った。大人しく向かい合うように座る。ジョセフは私の格好を見るなり、物言いたげな顔をしたが、それには触れなかった。
「……まあ、とりあえず飲め」
ジョセフはどう切り出そうか考えているようだった。勧められるままに一口飲む。いたたまれなくなって、唇をかみしめる。
「誰だって間違いはある。だからってなにも、人生終わりってわけじゃない。何度だってやり直せばいいんだ」
「いいよ、もう……」
「なにも男はクロードみたいな奴だけじゃない。この世の半分は男なんだ。もっと良い奴だって──」
「そうじゃないの」
苛立ちにまかせてジョセフの言葉を遮った。
「そんなことわかってるの。でも、好きなの。理屈じゃなくて。私みたいなのは、落ちるところまで落ちないとわからないんだと思う。だったら、そうするしかないんだよ」
途端に感情が暴走し、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「どうして私は誰にも大事にされないの? みんな浮気したマリーに味方して、どうして私は悪者なの!? 泣かせたから? 先に泣いた方が勝ちなの? 泣きたいのはこっちなのに!!」
ずっと、心にためていたものを吐き出していた。
「どんなに頑張っても、結局見た目で判断されるんだよ。みんな、可愛い子の言うことを信じる。努力なんて目に見えないもの。それよりも見た目が良いほうが、無条件で大事にされるんだよ」
ジョセフが静かに口を開いた。
「お前は十分大事にされてる」
「どこがよ。じゃあなんで私は幸せじゃないの? 大事にされてたら、もっと幸せなはずじゃない!」
言葉と一緒に失笑がもれた。気休めの慰めなんかいらない。
「どんなに尽くしても雑な扱いされる。それでも嫌いになれなくて……私ってなんなんだろう、こんな人生、生きてて何になるんだろうって……。こんな惨めな気持ち、あんたにわかる!?」
「わかるよ」
「わからないよ! 男のあんたにわかるはずない。自分だって不倫してたくせに!!」
ジョセフが黙る。
はっ、としたがもう遅い。今のは失言だった。でも、謝るもんかと思った。実際そうだったんだから、と自分に言い訳して、出ていこうとドアを引こうとする。──が、後ろから伸びてきた手にドアを押さえられ、それを阻まれた。ビクッとして、振り返る。
「──わかる」
ジョセフは真顔だったが、その眼はどこか哀愁を漂わせていた。咄嗟に目を逸らしてしまった。
今度は、私のほうが黙ってしまう。
「おまえが大事にされないと感じるのは、愛情を勘違いしているからだ」
ひどいことを言ったのにもかかわらず、ジョセフの声は落ち着いている。
「クレームをおそれて、顧客の言いなりになっていたら、モラルの境界線が曖昧になる。そうなったら、良好な関係は築けない。俺たちは、顧客のために出来るだけのサービスはする。けれど、出来ないことはきちんと説明して了承してもらう。ブランドの存在価値を下げるようなことまでは絶対にしちゃいけないんだ」
「──でも、そのせいで離れていったら?」
恋愛とどう関係があるんだ、と思ったが、つい聞いてしまった。
「逆だよ。何でも言うことをきくのは誠意じゃない。適当にあしらっているのと同じことだ。そんな店はすぐに潰れるし、誰も悲しまない。非難を恐れて意志を貫けなくなったら、それこそ誰にも必要とされなくなる」
ジョセフは、私をまっすぐ見つめて、諭すように言った。
「いい関係を続けるためには、きちっと境界線を示してやらないと、相手は迷子になる」
「……そうかもしれない。だけど、それは接客の話でしょう!」
「接客だろうが恋愛だろうが、同じ人間関係だろう」
ぐっ、と押し黙る。
言い返す言葉が見つからなかった。
「クロードに捨てられることをおそれて身を削るのは、愛情とはいわない。相手の言いなりになっているだけだ」
口調は穏やかだが、胸に深く突き刺さるものがあった。本当は、心のどこかではわかっていたことだ。それを突きつけられた。
「相手を喜ばせることだけが愛情じゃない。鬱陶しいと思われようが、嫌われようが、間違っていることは間違っていると言ってやるのも愛じゃないのか。相手のためっていうのは、そういう事だろう」
唇をかんでいる私に、ジョセフが改めて問いかける。
「おまえは誰にも大事にされていないのか? 本当にそうなのか。よく考えろよ」
最初に浮かんだのは家族だった。鬼のような母でも、出ていけと言われて本当に出ていったら、心配してくれていた。無理矢理婚約者を演じているジョセフにも、もう何度も助けられている。
そしてアナも、本気で心配してくれていたのに、私は突き放してしまった。
「人間なんてみんな間違いだらけだ。俺だって間違える。もうこんなことやめようと思っても、どうにもできずにズルズル引きずったりする」
私は息をのむ。いま、ジョセフの目には公爵夫人が見えている。衝撃を受けた。
この人、本気だったんだ。
「おまえに秘密を知られたのは、区切りをつける良いきっかけだった。俺は全て捨てたっていいと思っていたけど、相手はそうじゃなかった。それでようやく目が覚めたよ。──前に、なんで俺がこんなことまでするのか聞いたよな」
ドキリとする。ずっと知りたかった答えが明かされる。
「大物との不倫。誰もが飛びつくような美味いネタだ。それなのに、おまえはずっと黙ってた。それで思ったんだ。──こいつは人の不幸に味をしめるような、そんな奴らとは違うんじゃないかって……だから、協力しようと思ったんだよ」
我慢していたものが抑えられなくなって、熱いものが頬を伝った。
ジョセフはドアから手を離した。私は出ていくことを迷っていた。
「ルー、おまえはいい奴だよ」と言われて、耳を疑った。ジョセフがまっすぐ見つめてくる。冗談でもお世辞でもないと伝わってくる。
「ひどい目にあったのに、泣くことも愚痴も言わない。そんな奴が搾取されていくのを黙って見ていられるほど、俺たちはおまえに無関心じゃない」
言葉がでない。
〝涙だけは見せない〟──人知れず自分を保つための唯一の意地だった。それを見透かされていて、ひどく動揺していた。
「とはいえ、おまえの人生だ。何をとるか、誰と付き合うのか、決めるのはお前自身だよ」
私の代わりに、ジョセフがドアを開けた。
「ここが分岐点だ。このままクロードと関係を続けるか。それとも、奴と別れて新しい道へ進むのか……」
ジョセフは一呼吸おくと、穏やかだが、不思議と内に響くような声で言った。
「生き方は自分で選べ」
ドアの向こうへ出でいけば、身が滅ぶまでクロードに尽くすことになるだろう。だがもし、ここに留まるなら、見つかるかもわからない婚活を続けるのだ。
私は迷っていた。身のうちで、感情と理性がぶつかり合う。
「やり直せるのかな」
「当たり前だろ。爺さん婆さんになってからだって結婚してる人もいるくらいだ」
「独身お手つきだよ」
「こうも言えるぞ。──経験豊富」
思わず吹き出した。なんだか悩んでいるのがバカらしくなってくる。こんなどうしようもない私にも、心配してくれる人がいる。本気でぶつかってきてくれる人がいる。もう少し頑張ってみようと思えた。
「まずはそのひどい格好をやめるところからだ」
私は改めて自分の着ているものに目をやった。
うん、これはないな。変というわけではないが、ワンシーズン前に流行ったようなデザインだ。正直、あまり好きじゃない。
「あいつセンスねえな」
ジョセフのはっきりした物言いに、また笑ってしまった。
激しく同感だ。私は深く頷いた。
「いい笑顔だ」
ジョセフはおどけて言ったが、どこかほっとしたような笑みを浮かべた。
「あのさ、ひとつ我儘言っていい?」
ジョセフは一瞬、驚いた顔をしてから頷いた。
「たまごサンドが食べたい」
いいタイミングで腹の虫が鳴ったので、ほぼ同時に吹き出した。気が抜けたら、お腹が空いたのだ。
ジョセフは「おやすいごよう」と、快く頷いてくれた。
心に余裕ができたおかげか、不思議と素直になれる。
「──アナに謝らなきゃ。心配してくれていたのに、昨日ひどいことを言っちゃったの。ちゃんと謝りたい」
「迎えに行ってこいよ。いつもの酒場にいるから」
「──え?」
驚いて聞き返すと、ジョセフは安心したように眉尻を下げた。
「お前のことが心配で、話が終わるまで待ってるってさ」
用意しとくから、と背中を押された。振り返ると、ジョセフは「二人前な」と笑っている。せっかく止まった涙が、また溢れそうになる。
私は深く頭を下げると、酒場へと走った。
酒場に駆け込むと、アナはカウンターでグラスを傾けていた。「アナ!」と叫ぶと、驚いた顔でこちらを見た。人目もはばからずに、アナに抱きついて「ごめんね、ごめんね」と、溢れてくる涙がおさまるまで何度も繰り返し謝った。そんな私の背中を擦りながら、アナは謝るたびに頷いていた。
私には、自慢したいくらいの、最高の友達がいる。
心からそう思えた。
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