第34話 取引

 店に出勤すると、すでに出勤していたローランが笑顔で挨拶をしてくれた。どうやらジョセフはまだ来ていないらしい。

 ほっと胸を撫でおろしたとき、背後で扉が開く音がした。

 振り返ると、ジョセフが立っていた。昨日の今日で気まずい。だが、無視をするわけにもいかない。


「……お、おはよう、ございます」


 思いきって挨拶をしたが、つい目を逸らしてしまった。

「おはよう」すれ違いざまに、そう返された。声色がやけに冷たく感じる。

 ジョセフは振り返ることもなく、一直線に事務所へ行ってしまった。

 この日から、ジョセフと話すのは、業務で最低限必要な会話だけになった。以前は、顔を合わせれば冗談を言ってくるのが当たり前のようになっていたのに、それもしなくなった。

 もう以前のように話す気がないのだと思うと腹が立って、素直に謝れなかった。一度謝るタイミングを逃すと、なかなかできなくなるもので、余計に尾を引く羽目になった。

 それに、ジョセフは本店のアトリエに行くことが多いので、なかなか会う機会もない。



「──さっさと仲直りしなよ」


 これまで静観していたアナだったが、いい加減痺れを切らしたようで、そう言ってきた。


「別に、喧嘩ってわけじゃ……」

「喧嘩じゃないならなんなのよ?」

「……距離感の測り違い?」

「はあ?」


 アナは呆れたような顔をしたが、すぐに相談を聞く体勢になった。


「原因はなに?」


 せっかく心配してくれるのは有難いが、とても言える内容ではない。なんとか夫人のことには触れずに上手く伝えられないものかと考えた末、少し遠回しになった。


「……私は仲が良いと思ってたけど、相手はそれほどじゃなかった、みたいな」

「仲良いじゃん、二人。ジョーがそう言ったの?」

「似たようなことを言われたの。たぶん、プライベートなことまで口を挟まれるのが嫌だったみたい」

「プライベートなことって?」

「……ごめん、それは言えないの」


 どう言ったものか考えてはみたが、さすがに誤魔化せそうになかったので素直に謝った。


「そう……。でもそんな泣きそうな顔していたら──」

「違う。私は怒ってるのよ」

「はあ……自覚ないなんて重症だね」


 反論しようとしたところに手鏡を差し出された。そこには情けない顔の女が映っている。


「お互い冷静になって、もう一度話したほうがいいんじゃない?」


 拒絶されたらと思うと怖くなるが、このまま冷戦状態が続くのはもっと嫌だ。

「そうだね……」アナの意見に頷いた。


 翌日、久しぶりにジョセフが朝礼に顔を出した。日報や客層の動向を説明している間、一瞬、目が合ったのに素っ気なく逸らされた。時間が解決してくれるのを待っていられない。

 今日のうちに、話をしよう。

 そう決めたとき、説明を終えたジョセフが改まった態度で話を切り替えた。


「突然で申し訳ありませんが、この度、一身上の都合で退社することになりました」


 突然のことに、どよめきが起こる。

 聞き間違いだろうか。戸惑っていると、すかさずリンダが質問した。


「そんな急に! どうしてですか?」

「独立したいと思ってる。実は前から決めていて、ずっと準備をしてきた。親父……社長にも、ブランドを継がないことを承諾してもらってる。俺は海外に行って、環境を変えて、そこでゼロから自分の力を試したい」

「コレクションは!?」

「コレクションはやるよ。全部終わらせてから退社する。それまではまだお世話になるので、残り短い間ですがよろしくお願いします」


 朝礼が終わると、ジョセフは慌しく行ってしまった為、話しかける間もなかった。アトリエでの作業がかなり遅れているらしい。

 仲直りする為の、最後のタイミングを逃してしまった。

 コレクションが終わるまでは顔を合わせる機会がなく、その後ジョセフは海外だ。このまま一生会うこともなく、婚約破棄の期日がやってきてしまう。

 ほとんどぼんやりしながら仕事をこなし、気付けば閉店時間を迎えていた。気の抜けたまま締め作業と後片付けをして、売上金を事務所の金庫へ保管する。

 ふと、ジョセフのデスクが目にはいった。

 独立するなんて、一言も言っていなかったじゃないか。てっきり、家業を継ぐものだと思っていた。他のみんなも初耳だったらしく、相当驚いていた。そんな素振りを微塵も見せずに、海外を拠点にする準備を着々と進めていただなんて。

 話す必要があるかと問われればそうではないにしろ、ずっと隠しごとをされていたみたいでなんだか癪だ。どこまでも秘密主義な奴だ。


──少しくらい自分のことを話してくれたって……。


 ゴミをまとめようと、デスクの横にあるゴミ箱を掴んで袋のなかへ傾けた。

 覚えのある香りが鼻をつく。落ちていくゴミに混じって、くしゃくしゃになった手紙に気がついた。

 前に、ジョセフのデスクの引き出しの中に閉まってあった手紙だ。あの時は途中でジョセフが戻ってきたから中を確認できなかった。

 ゆっくりとした動作で、ゴミ袋の中から手紙を拾い上げる。

 なぜだかコレが退社の件に関わっている気がしてならない。

 他人の手紙のやり取りを見るなんて、いけない事をしているとわかっているのに止められない。一応、周りを確認してから手紙の皺を伸ばして広げた。

 文章を読んだ私は、愕然としたのだった。



***



「アナ! ジョーはまだ本店にいるかな!?」


 転がるように階段を降りてきた私の勢いに、アナは戸惑いながら頷いた。


「そうなんじゃない? どうしたの、そんなに慌てて」

「今日はもうこっちには戻らないの?」

「だろうね。たぶん直帰すると思うけど……」


 本店へ行こう。走れば間に合うかもしれない。


「ありがとう!! 私ちょっと行ってくる!!」


 アナに礼を言うなり、勢いよく店を飛び出した。

「ちょっと、どうしたの!?」戸惑うアナの問いを振り切って走った。答えている時間はない。

 本店はモーリアック公爵が所持する繁華街の一等地に建っている。よりにもよって、モーリアック公爵の邸宅にも近い。すでに閉店時間も過ぎている。ジョセフが残業していればいいが、すでに型紙が出来上がっていてもおかしくはない。材料を取り戻さなければ裁断に入れず、作業がストップしてしまう。


 あの手紙はアンリエッタ夫人からの取引の内容だ。


【火を起こすには、新木よりも炭に限ります。燃ゆる火は、貴方が暗闇から出るのを助けるだけでなく、あらゆる望みをも叶えるでしょう。】


 一見、なんの話かわからないが、おそらく文章はあることわざに掛けているのだろう。

〝一度焼け、炭化した木は火がつきやすい〟

 つまり復縁を意味している。


『復縁をしたら、なんでも望みを叶える』

 こんな条件を提示するのはアンリエッタ夫人しかいない。

 それに、ジョセフは夫人の取引に応じるしかないだろう。きっかけは個人的なことでも、会社の命運がかかっているのだ。だが、応じてしまったら、今後二度と夫人には逆らえないだろう。彼女に人生を支配されてしまう。

 その前に、何としてでもジョセフを止めなければならない。

 途中で馬車を拾えばいいと思っていたが、甘かった。こんな時に限って空車の馬車が通らない。ずっと走り続ける羽目になった。

 全速力で道を駆け抜ける私に、通りすがりの人々の物珍しげな視線が集まる。だが、構っていられない。スカートが脚に絡まって時々転びそうになる。日々の運動のおかげで持久力がついたものの、体力の配分も考えずに走っているせいで肺が痛い。けれどここで止まったら一気に肺に負担がかかり、二度と走れなくなるだろう。


 ようやく到着した本店は、すでに明かりが消えていて、扉には〝CLOSE〟と書かれた板がぶら下がっている。事務所とアトリエがある上の階も全て真っ暗だ。


──遅かった!!


 落胆したが、すぐに首を振った。

 街で一番背の高い時計台を見やると、就業時間を過ぎてからまだそんなに時間は経っていない。


──邸宅へ向かっている途中で追いつけるかもしれない。


 残りの体力を振り絞って駆け抜ける。

 走りながら、なんでこんなことしてるのだろう、と自問自答したりもしたが、理由なんて後回しだ。考える為の酸素を、脳へ回している余裕もない。


 モーリアック公爵の邸宅前には警備がついていた。下手なことを言えば、怪しまれる。

 乱れた髪と服を直し、息を整えてから、できるだけ優雅に歩いていく。

 こちらに気付いた警備の一人が、私の前に立ちはだかった。


「失礼ですが、ご要件は?」

「アンリエッタ夫人にお目通り願いたく、参りました」


 令嬢らしく畏まって言うと、耳を疑う返事が返ってきた。


「ご夫人は、先程お出かけになられました」


 一瞬、思考が停止する。


──夫人が、いない。なぜ……? ここで会うはずじゃ……!?


 すぐに、大きな過ちに気がついた。


──しまった!! こんなことに気が付かないなんて!!!!


 夫人はジョセフとよりを戻したがっている。であれば、間男を堂々と邸宅に呼びつけるはずがない。

 会うならば、二人だけになれる場所だ。

 それは一体どこなのか……。


「君、どうかしましたか?」


 明らかに動揺する私に、警備員が訝しげな目を向ける。


「いえ、大丈夫です。……失礼しました」


 笑顔を取り繕うと、逃げるようにその場を離れた。

 空回りしたせいで時間を無駄にしてしまった。どちらにしろ居場所もわらないし、もう間に合わない。取引は止められず、夫人とジョセフは不倫関係に戻るのだ。

 そう考えた途端、腹の底から気持ちの悪い感情が込み上げた。


──それだけは嫌!!!!!!


 なんだか知らないけれど、それだけは、絶対に、我慢ならない。

 けれど、居場所がわからないことにはどうにも出来ない。

 ガクッと、その場に膝をついた。全速力で走ったからか、脚が震えている。うまく力が入らない。

 どうして、こうも上手くいかないのだろう。

 地面に落ちている小石を掴んで、道端の花壇に向かって投げた。八つ当たりだ。

 小石は上手く花と花の間をバウンドしながら花壇を横断し、向こう側の雑草の中へと身を隠した。

 その光景をぼんやりと見つめていると、急に後光が刺したような気がした。まさに閃きとはこのことだ。


──あそこだ!!


 どこからか力が湧いてきて、勢いよく立ち上がると駆け出した。

 来た時よりも速く走れている気がするのは、私の気持ちが急いているのだろう。

 密会の場所は、ここからそんなには離れていない。


「絶対に取引なんかさせない!!」


 どこか誓いをたてるかのように声に出して、目的地へ走る。

 初めて出会った、あの庭園へ──。

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