第35話 決着

 ようやく庭園の入口が見えた時、ちょうど中からジョセフが出てきた。


──間に合わなかった……。


 ずっと走りっぱなしで足が震えているが、気力だけでやっと立っている。

 ジョセフは、息を切らしながら立ち尽くす私に気がつくと、目を丸くした。


「ルー、なんでここにいる?」


 まったく、どうしたもこうしたもない。

 こっちの気も知らずに、きょとんとしているのが癇に障る。何から言ってやろうかと考えているうちに、だんだん腹が立ってきた。


「……どうした?」


 歩み寄ってくるジョセフを睨みつけると、ピタリと足を止めた。


「仕事を辞めるって?」

「ああ、そのことか。言ってなくて悪かったな」

「謝って済むはずがないでしょう!!」


 突然怒鳴られて、ジョセフの肩がびくりと跳ねた。


「──いや、辞めるのはだいぶ前から決めていたし、海外で俺のブランドを立ち上げる夢がようやく……」

「そんなことを言ってるんじゃない!!」


 再びジョセフがきょとんとした。なぜ怒られているのかわからない、という表情だ。

 急に店を辞めることを怒っているのではない。いや、それも身勝手で腹が立つが、それよりも──。


「あなたの夢は、あんな人に叶えてもらうものじゃないでしょう!?」


 あんなに楽しそうに語っていた夢を、夫人との取引によって叶えようだなんて、心底落胆している。ただでさえ、仕事を辞めて海外へ行くという話も受け止めきれないというのに。


「本気なら、正々堂々勝負しなさいよ!!」


 フリーズしていたジョセフだったが、ようやく状況を理解したのか、思い出したように口を開いた。


「でも、そうでもしないとコレクションに出られないし、そうなったら親父の店だって存続できるかどうか……」

「他の方法を考えましょう!?」

「何ができるっていうんだ。元は俺の過ちによって起きた問題。この身一つで解決できるなら安いもんだろ」

「バカ言わないで!! 本当にそれで納得できるの!?」


 ジョセフが口を噤んだ。


「〝自分を安売りするな〟って言ったのは、あなたじゃない!!」


 自己犠牲なんて物語上のスパイスでしかなく、実際はそんなに良いものじゃない。他人事なら絶賛できても、身近にいる人にとっては見るに堪えない。

 ジョセフが口元を抑えて俯いた。肩を小刻みに震わせているのを見て、今度は私が仰天する。微かにもれる嗚咽が耳に届いた。


──泣いている? あのジョセフが?


「……ふ、ふふ……くっ……」


 しかし、なんだか様子がおかしい。

 嗚咽に耳を傾けていると、突然、ジョセフが盛大に吹き出した。


「ぶっははははは!!!!」


 いったい、なにが起きたのだろう。

 目の前で人が笑い転げている光景を、ぼんやりと眺めながら状況を整理する。

 どこに笑う要素があったのかはわからないが、馬鹿にされているのはわかる。


「──はは、あはは……もしかして、俺が取引するのを止めにきたの?」

「……え? だ、だって、今度こそ本当に取り返しがつかなくなるかもしれないんだよ?」

「そうかそうか。で、心配になって駆けずり回ってきたの」


 笑いの余韻を残しながらも、幼い子を宥めるような口調が癪に障る。

 状況をのみ込めずにいると、突然、頭を両手でぐしゃぐしゃと撫で回された。

 

「あはは、ルーはホント良い奴だよなあー」

「ちょっと、やめてよ!! ああ、髪が……!!」

「よーしよしよし……」


 ニヤケ顔がいけ好かない。まるで愛犬を愛でる手つきで撫でてくる手を、叩き払って逃れた。威嚇する私を、愉快気に「どうどう」と手懐けようとしている。猛獣か、私は。

 揉み合っていると、第三者の声がした。

 

「やっぱり、そういうこと……」


 振り向くと、アンリエッタ夫人が腕を組んで睨んでいる。とても友好的には見えない、威圧的なオーラを放っている。

 途端に緊迫した空気にのまれた。


「忠告してあげたはずよ。この人と結婚したら破滅するって」


 当然、夫人の敵意が私に向けられた。底知れぬ悪意の眼に身体が硬直する。

 突然、肩にぽんっと手を置かれた。見上げると、ジョセフが哀れんだ目をこちらに向けている。


「お前さ、同情するくらいタイミング悪いよね」

「誰のせいよ!」


 なんとも緊張感のない物言いに、思わず言い返すが、相手は笑うだけだった。

 こいつ、腹立つな。しかし気が抜けたせいか、不思議と緊張も解けていた。


「無視しないでもらえるかしら」


 緩んだ空気が、夫人の一声で張り詰める。微笑んでいるが、目が笑っていない。

 ジョセフは、今更夫人に気が付いたようなリアクションでとぼけている。


「──おや、貴女との話は終わったはず。まだ何か?」

「仕事も家も捨てた途端、急に強気だこと。でも、本当に失うものは無いのかしら」


 ジョセフは両手を天に向けて肩を竦める。


「私なら、その女の父親を解雇させることだってできる。親族共々路頭に迷わせたっていいのよ? それとも、夜道に気をつけて、と忠告しておいた方が──」

「その前に、俺がアンタをめちゃくちゃにしてやろうか」


 ジョセフが夫人の襟を掴み上げた。その背からどす黒いオーラが放たれている。今にも夫人に手を下してしまいそうな勢いに、さっきの言葉は本心なのだと感じる。まるで別人のような裏の顔に恐怖を覚え、止めに入るべきなのに躊躇する。


「まあ。どうやって?」


 夫人が挑発する。どこか高揚感のある笑みに、人間離れした艶がある。その笑みが、さらにジョセフの顔に深い敵意を刻ませていく。

 まさに一触即発だが、むしろそれ以上の悪意を期待しているような夫人の表情は異常だ。ジョセフがすっかり夫人のペースに巻き込まれてしまっている。このままでは本当に取り返しのつかない事になってしまうかもしれない。


「──わ、私は!」


 急に声をあげたせいで裏返った。

 格好はつかなかったが、二人の意識をこちらに向ける事には成功したようだ。


「私は勘当される身なので、父が解雇されても直接私に影響がなくなるし……それに、実は既にお手付きなので襲っても意味がありません!」

「……それがなんだと言うの?」

「む、無駄な労力です」

「そう。女として終わってるわね」


 援護のつもりで言い放ったものの、呆気なく撃沈した。夫人の冷めた視線が弱々メンタルを貫く。

「自虐かよ……」傷つき打ちひしがれている横で、ジョセフが苦笑いしている。表情から黒い陰は消えていて、いつもの様子に戻ったことにホッと胸を撫で下ろした。


「──秘密の宮殿スクレ・トリアノン


 その言葉に、夫人が息を飲んだ。が、涼しげな表情を崩さなかった。


「そう呼んでいるそうですね。表向きはあなたの書斎であり、趣味に興じるための別邸。しかし実際は、雇っている若い執事達と楽しむための〝娼館〟と言ったほうが良いでしょうか。あなたの欲深さには軽蔑を通り越して感心しますよ」

「嫌だわ、そんなこと一言も話してないのに。どこで知ったのかしら。私にだってプライバシーがあるのに、恥ずかしいわ」


 ぽっと色付く頬に手を当てるが、本気で恥ずかしがっているようには見えない。


「このことを、モーリアック侯爵はご存知ですか?」

「いいえ。それくらい、あの人に知られたことろで、どうってこともないわ。夫はそんなことよりも、私に捨てられることを恐れてる。試しに告げ口してみる?」

「まさか。こんなことをお知らせする為に、わざわざモーリアック侯爵のお時間を割いて頂く必要ありませんよ」


 顔色ひとつ変ずに聞いていた夫人だったが、この時わずかに眉尻が持ち上がったのを、私は、おそらくジョセフも見逃さなかっただろう。


「実は最近、信頼している友人にプレゼントを用意したんです。当然サプライズなので、彼はまだその存在を知らないんですけどね」

「何の話かしら?」

「その贈り物、俺の身辺で何かあった時に届くよう、手配しておきました。所謂、終活ってやつですよ──」

「はあ?」

「俺は海外に行く身だし、人間いつどうなるか分からない。準備が早いに越したことはないだろ?」


 言葉の意味を飲み込めずにいる夫人の耳元で、声のトーンを落とした。


「友人は記者なんですよ」


 夫人から笑みが消える。


「きっと中身を見たら、泣いて喜ぶと思いませんか?」

「私を脅すつもり?」

「まさか、滅相もない。ただの忠告ですよ。いくら温厚なモーリアック侯爵でも、あなたのしている事が世間に知られたら、対処せざるを得ない」


 奥歯を噛み締める夫人は鬼の形相そのもので、幼い子供ならばひと目で泣き出すだろう。


「あんた、この私にそんな事をして──」

「あなたもタダでは済まない」


 夫人が言い終わる前に、ジョセフが物言わせぬ口調で遮った。


「失うものがあるのはあなたの方だ。まさか、たった一人のの玩具オトコの為に、全てを手放すほど愚かではないでしょう?」


 二人が睨み合う。

 頃合をみて、ジョセフが終戦を申し出た。


「あなたのする事に口を挟む気は無いですよ。お互い、関わっても何一ついいことは無い。これからは無関心でいましょう」


 しばらく緊迫した空気が続いたあと、ジョセフを見る夫人の眼から光が消えた。天秤は保身へ傾いたらしい。


「……ふん、興ざめだわ」


 夫人は心底つまらなそうに言うと、髪をなびかせて行ってしまった。

 夫人の姿が見えなくなると、ジョセフは崩れ落ちるように尻もちをついた。


「はあー……マジやべぇ女だ。チビるかと思った」

「夫人を脅すなんて、いつの間にそんな準備をしていたの?」

「いや、あれは嘘」

「……は!?」


 今日一番の大声が出た。


「お前が巻き込まれそうだったから、咄嗟に出たんだ。仕方ないだろ」

「全部ハッタリだったってこと!?」

「いい機転だったろ?」


 一気に全身の力が抜ける。通用したからいいものの、墓穴を掘っていたらこっちまでタダじゃ済まなかっただろう。

 呆れと安堵が混ざった、大きな溜息をついた。


「……取引に応じなかったのね」

「うん」

「な、なんだあ……」


 当たり前だろ、という顔で頷かれて落胆する。それなら最初から、必死に駆けずり回る必要もなかったのだ。


「けど、ピンチなのは変わらない。材料はパァだし、デザインも変えられない。もう打つ手がない。コレクションは辞退かな……」


 消えてしまいそうな声で言うと、ジョセフは頭を抱えた。冗談抜きで追い詰められている。当然だ。コレクションの成功と将来の保証を得られるチャンスを、自ら捨ててしまったのだから。

 珍しく落ち込んでいるジョセフに、手を差し出した。


「帰りましょう」

「……俺はいいや」

「でも、こんなところで悩んでたってしょうがないでしょう。今日はもう休んだ方がいいわ」

「あの家には帰らない」

「またお父様と喧嘩したの?」


 図星をつかれて気まずくなったのか、ジョセフは視線を逸らすと、不貞腐れた口調で言った。


「仕事辞めて海外に行くって言ったら、親父がブチ切れて「縁を切る」って言うから出てってやったんだ」

「つまり……追い出されたの?」

「違う! 俺から出ていったの!」

「家出?」

と言ってくれないか」


 どっちにしろ追い出されたのでは?

 という疑問は飲み込んだ。この親子のことだ、お互いにカッとなっての事だろう。

 いつだったか、自分が母親に追い出された時の事を思い出す。行くあても頼る人もいなかった、あの時の絶望感といったらない。


「今夜はどこに泊まるつもり?」

「それはアテがある」


 そう言うと、ジョセフは店の鍵を顔の前にかざした。


「店で寝泊まりするつもり!?」

「辞めるまでは俺がオーナーなんでね」


 決してドヤ顔で言う事じゃない。職権乱用もいいとこだ。


「ソファも布団もないのにどうやって寝るつもりなの?」

「床に雑魚寝する」

「ええっ!? 汚いわよ」

「雨風しのげればどこでもいいんだ」


 さすがに冗談だろうと思ったが、顔が本気だ。

 店は掃除しているとはいえ、土足で出入りしているのだ。決して綺麗とはいえない。

 まったく、神経が図太すぎるのも考えものだ。


「……それなら、今夜はウチに泊まったら?」


 言ってしまってから、自分がなにか、おかしなことを口走ったと思った。

 ジョセフも「え?」という顔をしている。


「ほら、コレクション前に風邪でも引かれたら本末転倒だし! 一応! 婚約者だし、泊まるくらい変でもないでしょう。部屋もあるし……」

「それは助かるけど……マジで言ってる?」


 真意を確認するような眼差しに一瞬狼狽えつつも頷いた。勢いで言ってしまったとはいえ、口にしたことを取り消すのは気が引ける。多分お母様がいい顔をしないだろうが、後で事情を説明すればいい。

 腹を括ろう。どん、と胸に手を当てる。


「と、友達なんだから、これくらい当然でしょ!」

「……ありがとう」


 ジョセフはきょとんとしたものの、素直に礼を言った。

 赤らむ顔を隠すためにそっぽを向く。〝友達〟というワードを否定されなかったのに安心したのと同時に、妙に嬉しかったのだ。

 それに「友達だから」なんて、ちょっとクサかったかもしれない。


「ただし、今日だけよ。明日はちゃんと帰って、お父様とちゃんと話をしなさいね」

「えー……友達じゃないんですかー?」

「友達だから言ってるのよ」


 不満気なジョセフをピシャリと叱ると、今度は不服そうに「考えとく……」と呟いた。

 まったく、素直じゃないんだから。

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