第36話 行先
玄関のドアを開けると、音に気づいたお母様が、真っ赤な顔をしながら奥から飛び出してきた。
「ルーシー! いったい何時だと思って──」
「夜分遅くにすみません」
すまなそうに謝るジョセフに、お母様の顔がみるみる顔が真っ青になっていった。混乱のせいか、続きの言葉が出てこないようで口をパクパクさせている。
「お母様。事情があって、今日は彼をうちに泊めようと──」
事情を説明しようとしたところで、私も言葉を失ってしまった。客間のドアから、うやうやしい笑みを浮かべる父親に続いて、ノエルが出てきたのだ。先にこちらに気づいたお父様が、そのままの格好で固まる。ノエルはそれを不思議そうに見たあと私と目が合ったが、すぐ隣にいるジョセフに視線が移り、再び私に疑問を投げかけるような目を向けた。しかし思わぬ来客に、私も混乱してしまっていた。
張りつめた空気のなか、誰もがアクションを起こせずにいたが、一番に動いたのはジョセフだった。
「──申し訳ありません。コレクション前で人手が足りず、お嬢さんに残業をお願いしたらすっかりこんな時間に。俺はただ自宅まで送っただけなので、これで失礼します」
両親に向けて言うと同時に、ノエルに潔白を主張するように堂々たる態度で会釈すると、様子を伺っていたお母様が、ここぞとばかりに乗っかった。
「──ま、まあ、そうでしたのね。従業員の為を考えて下さる方で、親としても安心ですわ。ご丁寧にありがとうございます」
「とんでもありません」
お母様の遠回しな言い草にも笑顔で返すと、身を翻した。帰ろうとするジョセフを、慌てて袖を掴んで引き止めた。隣からお母様からの圧を感じる。
「待って」
「今日頑張ってもらったから、明日は午後からでいいよ」
「そんなことよりも──」
「もう時間外勤務はさせないと約束するよ。お疲れさま」
私に何も言わせまいと言葉を被せると、そっと手を解いて出て行ってしまう。それを追いかけようとする私を、お母様が腕を掴んで引き止めた。まるで手綱を引くように強く握られる。
「おやめなさい」
反論するよりも先に、ノエルがにこやかに間に入った。
「僕もそろそろ失礼します」
「そんな……もう行かれるの?」
大袈裟に落胆してみせる様が癪に障る。
「すみません。居心地が良くて、ついこんな時間まで居座ってしまいました」
「まあ、でしたら泊まっていかれたら? ねえ、あなた?」
同意を求められたお父様がすかさず同調する。うだつの上がらないその姿に嫌気がさした。
同意を得て満足そうな笑みを浮かべたお母様は、さらにノエルを引き止めようと目論む。
「ルーシーにお話があったのでしょう?」
「ええ。ですが、それはまた日を改めます。──ルーシーさん、また今度」
残念がるお母様を後目に、私は怒りの感情をなんとか抑えながら、ぎこちなく頭を下げた。ノエルは微笑み返すと、颯爽と行ってしまった。
玄関の扉が閉まると同時に、身の内から不満が爆発した。
「放して。なぜ止めたの!?」
「当然でしょう!」
「ま、まあまあ二人とも。そんなに怒ると可愛い顔が台無しに──」
「あなたは黙っていて!」
お父様が場をなだめようとするが、結果、火に油を注いだどけだった。お母様に一喝されたお父様は、肩を落として自室の方へ行ってしまった。
「わからないの? せっかくの気遣いを無下にしたら、恥をかくのは彼なのよ」
「恥?」
「プリドール家とウィルソン家じゃ、差は歴然でしょう。身を引くのは当然だわ。それに家業を継がずに海外へ行くそうじゃない。親御さんが苦労して手に入れた階級を捨てるなんて気が知れないわ」
常識を論じるように話している。
ひどく息苦しい。
「やめて」
絞り出した声は蚊が鳴くようで、誰の耳にも届かない。
「上流貴族とはいえ、所詮は成り上がり。血までは変えられないもの」
プツッと、耳の奥で糸が切れる音がした。
こんな時にまで身分を持ち出すのなんて──。
「私は──!! お母様みたいな人が親で恥ずかしいわ!!」
しん、と静まり返った屋敷に私の声がこだまする。まるで時が止まったようだった。
唖然としていたお母様だったが、みるみる顔が赤く染まっていった。
「どうやら彼の方が分をわきまえているようだわ。あなたの頭は平民以下なのね」
「友達を侮辱しないで!!」
「残念だけど、平民とお友達にはなれないの」
伝わらない。わかっていたはずなのに、改めて思い知らされた。私の声は一方通行でしかなく、お母様の心には決して響かない。
「──何も知らないくせに」
そう言い捨てて、家を飛び出した。背後でお父様が私の名前を呼んだが、振り返ってもやらない。ずっと感じてきた息苦しさから、一刻も早く解放されたかった。
わかってくれない。わかろうともしてくれない。今までも、私の言うことに耳を傾けてくれたことはなかった。話し合いが出来ないのなら、何をしたって無駄じゃないか。
もう家には帰れない。帰りたくもない。けれどこれからどうしよう。
考えるにもやるせない気持ちでいっぱいで、うまく頭が働かない。怒りでエネルギーを使ったせいか、どっと疲れが押し寄せている。
──明日また考えよう。
歩いているうちに、自然と洋装店の方へと足が向いていた。すっかり通勤路が身体に染み付いているらしい。たぶん、ジョセフが店に戻っているはずだ。うちに泊めると言ったのに、かえって気を遣わせてしまった。すぐにノエルが後を追っていったが、何か話をしたのだろうか。気になって様子を見に行くことにした。
洋装店の裏口に回ると、事務所の窓からかすかに明かりが見えた。やはりジョセフはここに泊まるつもりだ。
ドアを開けようとするが、鍵がかかっている。ノックしてみたが、二階にいるジョセフには聞こえないようだ。もっと大きな音をたてなければ。ドカドカと、ほぼ殴るような勢いで扉を叩きまくる。
「おい、近所迷惑だろ!」
突然、扉が開くなりジョセフが怒鳴った。が、私を見ると怒りを忘れて目を見開いた。
「ルー? どうした、なんでいる?」
「喧嘩したから泊めて」
「は?」
拍子抜けしているジョセフの横をすり抜けて、店の中へ入る。
「追い出されたのか?」
「違うわ。私から、出ていってやったの」
「……どっかで聞いた台詞だな」
ジョセフは妙に納得したように頷いた。短い説明でも、おおよそ察したらしい。それから二階の休憩室で紅茶を淹れてくれた。
「なんか、悪かったな……」
淹れたての紅茶を差し出しながら気まずそうに謝るジョセフに、今度は私が間抜けな声をあげた。
「──え? なんで?」
「俺がお前ん家行かなきゃ、こうはなってなかっただろうし。お前んとこ、親が厳しいのわかってたのに甘えちまった」
「そんなの関係ないわ。間違ってるのはお母様よ! 人を身分ではかるなんて──」
はっとして口を閉じたがもう遅い。怒り任せについ口が滑ってしまった。それは不用意にジョセフを傷付けることになるし、わざわざ言わなくてもいい事なのに。感情に流されやすいのは自分の悪い癖なのは、マリーの件で重々わかっていたはずなのに。自分がますます嫌になっていく。
「……ごめん」
「そんなのとっくに言われ慣れてるよ。聞き飽きて
落ち込む私を気遣ってなのか、本心なのか、大袈裟に欠伸をしてみせると軽快に笑った。
「その様子だと、婚約解消の話もすんなり通りそうで良かったじゃないか。俺の海外進出の話が効いたんだな」
「全然良くない!!」
衝動的に立ち上がった。勢いで椅子が倒れ、衝撃音が響き渡る。目を丸くしているジョセフに、食ってかかる。
「なにを平気で笑ってるのよ!? 腹が立たないの!?」
「いやあ……別に?」
「何でよ!! あなたの事を知りもしないで好き勝手言うなんて許せない!!」
「なんでお前がキレてんだよ」
「そんなの──! ……腹が立つからよ!!」
「だから、その理由を……」
いつもなら物怖じしないジョセフだが、今ばかりは私の勢いに負けて、独り言のように言った。
「どうして、外国なの?」
「どうして、と言われてもなあ……」
「……ここじゃダメなの?」
「なに? 寂しいってか?」
ニヤリと口角を持ち上げるジョセフに「茶化さないで!」と、一蹴すると、渋い顔をして唸った。
「階級制度重視のこの国じゃ、いくら頑張ったって見向きもされない。だからミラニアム国へ行く。あそこは繊維工業地帯だから素材も豊富だし、男女共働きなんて珍しくない。働くのが日常である彼女達なら、きっと機能性が高いズボンだって履いてくれるし、汚れが目立たない黒色も好きになってくれる。ミラニアムなら、俺が立ち上げたいブランドに合ってる」
「確かにこの国では、偏った考えがあるけれど……新しいものが受け入れられるまでは時間がかかるものよ」
「そうだな。だったら尚更、
「だったら……その、お父様のブランドを継ぐのが一番の近道なんじゃないの?」
遠慮がちに訊ねると、ジョセフが表情を曇らせた。どうやら、禁句だったらしい。
「それにほら、近くに身内がいれば安心だし……」
慌てて付け加える。あくまで、ジョセフの身の安全を心配しているのだと濁したが、筋は通っている。
国内であればまだしも、海の向こうとなれば、万が一、ジョセフが事業に失敗して路頭に迷っても、すぐに助けには行けない。パリなら手紙が届くまでに最低一週間はかかるだろう。見知らぬ地で、他人に手を妬いてくれる親切な人が、都合よくいるだろうか。
「こんな
あまりにも小さな声だったが、そう聞こえたような気がした。思わず「え?」と聞き返す。
ジョセフは気を取り直すように、首を横に振った。
「いや……ただ、それじゃあ俺が満足しない。自分の力だけでやってみたいんだよ。身分も家柄も関係なく、一から、さ。だから、誰も俺の名前を知らない土地に行きたい」
「それは……永住ってこと?」
「もちろん。でもいつかは、こっちにも店舗を構えられたらいいなあ。その為にコネも作ってきた。……まあ、いつになるかはわからないけど」
「貴族階級を捨てることになるのよ?」
「貴族になりたがってたのは親父だ。俺は望んでない」
そこまでしなくても……、と思ったが、口には出せなかった。あまりにも真剣な眼を向けられて気負けしたのだ。
「そっか。……できるよ、きっと。あなたなら……」
言った途端、自分自身に気持ち悪さを感じた。溝を作りたくないが為に、自分の意に反した事を言ってしまった。
──もちろん、応援してる。だって、ジョーには才能があるんだもの。
素人目だが、本当にそう思う。
引き止めたい理由は、別にある気がする。けれど、それを他人に説明できるほど、自分でも理解が追いついていない。
困惑しながらも、笑顔を取り繕った。
「ありがとう」
何の疑いもなく、嬉しそうに笑うジョセフから、そっと視線を逸らした。
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