第18話 喧嘩

 それ以来、クロードの気分次第で呼び出され、教えられたルートを通って部屋に行く。クロードの屋敷は広く、遅い時間ということもあって使用人に出くわすこともなかった。部屋で会うと、クロードは決まって体を求めてきた。そして満足すると、クロードは「部屋に居ないと家の者に怪しまれるから」と、自分の部屋へと戻っていく。私はひとりで朝を迎え、すごすごと家へ帰る。そんな会い方を何度か繰り返した。

 未婚で経験者の女は結婚が難しい。クロードのお手つきになってしまった私に、きっと貰い手は現れないだろう。けれど、このままクロードが私を貰ってくれれば問題ない。そう無理やり思い込むことで、この先の不安をかき消そうとした。だが、沼に沈んでいく感覚は消えず、心にいつも痼を残していた。

 会っている間は不安を忘れられたが、クロードが去った後には虚しさがだけが残った。会う回数を重ねるたび、身が削られていくような気がした。

 身支度も程々に、急いで自宅に戻って、着替えてから仕事に行く。クロードは大人しいメイクと服装を好み、普段の格好で会いに行くと、ひどく嫌がった。理由はわかる。自分のものにジョセフの色がチラついているのが嫌なのだ。

 一度、寝坊してそのまま仕事に行ったことがある。


「悪夢でも見てるのか……俺の店にダサい女がいる」


 私をひと目見るなりジョセフが言った。「目を覚ますところからやり直してくるよ」と、頭をおさえながら二階へ戻っていった。一緒にいたアナも「うちのブランドっぽくはないよね」と、苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、その場で店の服を購入し、急いで着替えてメイクも直した。社割が利くので良かったものの、予想外の出費は痛手だった。

 仕事も全く手につかなかった。気付けば、ついクロードのことばかり考えてしまう。そのせいで、お客様の注文の商品を間違えたり、伝言を伝え忘れたりと、初歩的なミスが多くなった。

 ついにジョセフに呼び出された。


「いったい、どうしたんだよ?」

「すみません……」


 頭を下げた。床を見つめながら、自分がひどく惨めでしょうがなかった。


「だったら、ちゃんと集中しろ。お客様に迷惑がかかるんだぞ。うちの店への信頼を、俺たちが裏切ってどうすんだよ!」


 ジョセフが怒るのは当然だった。仕事にプライベートな問題を持ち込むのは間違っている。お買い物を楽しみに来店されるお客様には、関係のない事なのだから。

「本当に、すみません……!」深く頭をさげながら自分の足元が歪んでいくのを、ただ見つめていた。



「──はあ……」


 深いため息が出る。

 閉店後、お店の掃除を終えたところで、ローランが二階からおりてきた。「今日はもうあがってください」と、微笑む彼に挨拶をして、お店を出た。


 独りの帰り道なんて慣れっこだったのに、いつもより孤独に感じた。次はいつクロードに会えるのかな、とつい考えてしまう。ダメだとわかっているのに、寂しさを紛らわしたい気持ちが勝って縋りたくなる。

 すれ違う女性たちがみんな、幸せそうに見える。自分と違って誰かに大切にされているのだと思うと、羨ましくなった。


 クロードは決して「好き」だとか「やり直そう」とは言わなかった。


「わたし、結婚しなきゃいけなくて……」


 ある日、思いきって言ってみた。彼の機嫌を損ねるかもしれないとも思ったが、削れていく心をを埋めるような、確かな言葉が欲しかった。


「そうなんだ」


 クロードは相槌をうっただけだった。

 続きを求めるように「だから……」と呟く。


「なら、会うのをやめるか?」


 身だしなみを整え終えたクロードが、平然と聞いてきた。まるで、自分には関係ないような言い方だった。

 私が首を横に振ると、無言で出て行ってしまった。

 やっぱりね、と、どこか冷静に思った。不思議とショックはない。だが、こめかみに熱いものが伝って「あ……」と声をもらした。


──わたし、傷付いたんだ……。


 やめることはできるのに、〝いつか、もしかしたら──〟とありもしない可能性に縋ってしまう。

 そうやって、少しずつ、心を殺していくのだ。



***



 お昼休憩に行こうとした時、アナに呼び止められた。


「ねえ、ルーちゃん。今日、うちで一緒に夕食しない?」

「うち?」

「そ。私の家」


 アナの家にお呼ばれされるのは初めてで、嬉しくなった私は、久しぶりに晴れやかな気持ちになっていた。

 家に遊びに行くなんて、まるで友達みたいだ。


「うん。行きたい!」


 私が微笑むと、アナはどこか安堵を込めた笑みをこぼした。


 アナの邸宅は、中流階級のなかでは敷地が少し狭めで、使用人の数も最低限という印象だった。アナの母親は料理が趣味で、料理人を雇っていなかった。初めて味わう〝母の味〟は、料理人が作るものとは別の、暖かいものを感じた。


「今日、このまま泊まっちゃえば?」


 ご馳走になってまでさすがに悪いから、と遠慮したが、アナの両親にも誘われて、泊まることになった。

 アナも私と同い年で独身だが、結婚願望はなく、今は好きな仕事をしていたいのだと話してくれた。彼女の両親は娘の結婚を心配はしているものの、無理強いすることはなく「やりたいようにやりなさい」と言って「まったくしょうがないんだから」と笑った。

 自分の両親はそんな言葉なんてかけてくれない。両親に理解され、自由に生きられるアナを羨ましく思った。



「一緒のベッドなんだけどいい?」


 食事を終えてアナの部屋に案内された。部屋に入るなり、アナがベッドに腰掛けて尋ねた。アナのベッドは一人用ではあるが、女性ならば二人並んで寝られそうなくらいの広さはある。私は快く頷いた。


「アナは将来が不安になったりしないの?」


 ベッドの上に向かいあって座り、話の流れで聞いてみた。


「なるよ。漠然と、このままでいいのかなって。でも、今好きな事をやめて結婚を選んでも、どっちにしろ後悔すると思うの。あの時、満足するまで続けていれば良かったなーって」


 アナは、笑みを絶やさずに言う。


「どっちにしろ後悔するなら、今の気持ちを優先したいの」

「仕事に理解してくれる人もいるかもしれないよ?」

「居ればいいけどね。何度かお見合いしたりしたけど、良い顔はされなかったよ。みんな、早く子供を産んで欲しいみたい」

「子供、欲しくないの?」

「うーん、欲しくないと言ったら嘘になるけど……。今はいらない。それよりも、やりたいことがあるから」


 苦笑いをするアナに、つい口調が強くなる。


「でも、好きなことばかりしてられないよ。この先もずっと仕事があるとは限らない。女は結婚するもんだし、定年だって男の人より短いじゃない? もし経営難にでもなって解雇されるとしたら、私たち、女からだよ」


 つい、きつい言い方になってしまい、すぐに後悔した。私から聞いたことなのに説教するなんて。自分が人のことをあれこれ言える立場ではないのに、このところずっと情緒不安定で自分が嫌になる。


「将来のことは、その時に悩むよ。まだ若いからそんな悠長なことを言えるんだって言われたりするけど、私の人生だし。自分で選んだことだから、バカにされたって平気」


 胸を張って言い切るアナに、少し苛立ちをおぼえた。

 私には、アナのような生き方はできない。アナの生き方を否定したいわけではない。だが、心のどこかでは、あまい考えだと思っている自分もいる。


「ルーちゃんは、最近どう?」


 ふいに聞かれて、ギクリとする。


「このところずっと元気ないなー、と思って……」


 目の奥が熱くなる。だから今日、誘ってくれたのか。アナならきっと、私の気持ちをわかってくれるかもしれない。

 思い切って、クロードのことを相談してみることにした。


「もう会うのやめた方がいいと思う」


 予想どおりの返答だった。


「そんな想いしてまで関係を続けたって、ルーちゃんが辛いだけだよ。だって、もしものことがあったら、その人責任とってくれるの?」


 アナの言うことはもっともだ。しかし、言うのは簡単だが、こんなにも惚れ込んでしまった相手との関係を断ち切るのは、とても容易なことではない。


「最低だよ、ルーちゃんの気持ち知ってて利用するなんて」

「でも、本当は悪い人じゃないの」


 咄嗟に庇ってしまう自分がいた。

 何を言っているんだろう。アナは私のために怒ってくれているのに。

 けれど、クロードのことを悪く言われるのは嫌だと思った。


「こんなひどいことされて何言ってるの。とにかくいったん距離を置いて、冷静になりなよ」


 それができたら悩みはしない。同じような経験がないから言えることだと思った。


「ジョーは、このこと知ってるの?」

「言ってない……」

「言いにくいかもしれないけど、相談した方がいいんじゃない?」


 いったい、どう話せというのだろう。「やっちゃった!」とでも言えというのか。そんなの死ぬほど恥ずかしい。それに、あんなに忠告されていたのに破ったのだ。非常に気まずい。


「無理だよそんなの。こんなこと言えるわけないじゃん……」

「なら、愛想つかすまでとことん続ける?」

「それは……」

「でも、どっちかしかないよ。思い切って断ち切らなきゃ、取り返しがつかなくなることだって──」

「そんなことわかってる!! でもできないから困ってるんじゃない。簡単に言わないでよ!!」


 つい感情的になって声が大きくなった。八つ当たりだった。


「……ごめん。やっぱり、今日は帰るね」

「──え、でも……」


 ごめん、と、もう一度だけ謝った。

 アナの両親にも引き止められたが、適当な理由をつけて丁重に断った。馬車を用意するといわれたが、挨拶をすませて逃げるように帰路についた。

 歩きながら、アナのひどく困惑した顔を思い出す。

 自分はなんて救いようのない奴なんだろう、と思った。

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