第17話 安売り
酒場から出たほろ酔いのジョセフは、やけに機嫌が良さそうだった。私を家まで送る途中、ジョセフが、酔い醒ましに公園に寄り道したい、と言い出したので、それに付き合うことになった。私もなんだか歩きたい気分だったのだ。
もうすっかり日も沈んでいるので、人通りも少なく、ジョセフの笑い声だけが響いている。大きな池の水面は月の光が反射し、静かな輝きを放っていて、それをぼんやり眺めながら歩いていた。
「理想的な人間がいないのに、なぜ理想的な結婚ができると思う?」
私は「さあね」と面倒くさそうに返した。ジョセフは期待通りの返事が返ってきたことに満足そうに笑うと、池を囲う柵の上によじ登った。まるで選挙演説のように拳を振り上げる。
「それはな、人の理想ってものは確かなものじゃないからだ!!」
「え? そんなこと──」
「ほんとだよ」
「理想なんか、すぐに変わる」と、私を見下ろして言う。
「根本的なことを言ってしまえば、〝好きになった人と結婚することが理想〟だからだ」
「そりゃあ、それが一番よね」
「それに、女はタイプだから好きになるわけじゃない。〝好きになった人がタイプになる〟んだ」
私は頷いた。確かに〝好きになった人がタイプ〟と言う人は結構いる。
ジョセフはどこか楽しげに微笑っている。
「前に聞いた、おまえの理想のタイプ。あれにはクロードが当てはまっている。それは、おまえが奴に惚れてるからだ。でも、もし別の男に惚れていたら、違っていたと思うよ」
「そ、そうなのかな……」
「そういうもんだよ、ルーシーくん」
口髭を撫でる仕草をする。髭、ないのに。
「それを理解していないと、自分が設定した条件に当てはまるかどうか、減点式で相手を見てしまいがちになる。一生懸命出会いを求めているのに、相手がいないと嘆いている奴が、よく陥りがちだ」
ジョセフが「人間関係なんて、会ってみないとわんねえんだー!!」と、湖に向かって叫んでいる。「恥ずかしいからやめてください」と冷静に言うと、「すみませーん」と柵の上からおりてきた。
柵に身を預けたジョセフは、スッキリした表情をしている。
「一度好きになったら、相手が不細工だろうが、ダサい服を着ていようが、髭面で禿げていようが、なぜかそれも可愛く見えてしまう。そこには妥協なんてものもない。──女ってのは、そういう愛情深い生き物だろ?」
目が合ったので、思わず顔を伏せた。ジョセフは誰も言わないようなことを、突然真顔で言ってくる。そんな時、どんな顔をしていいかわからない。今だって、女性全体に対して言っているわけで、自分が褒められたわけじゃない。けれど、自分も女ではある。けれど「ありがとう」と言うのもおかしい。反応に困る。
「──そうだ、当ててやろう!! クロードが、どうやってお前に迫るのか」
「へ?」と間抜けな声が出た。ジョセフはまるで、ゲームが始まる前の子供のように目を爛々とさせている。あたりの人通りを確認してから「五秒前ー!」と、カウントを始めて「アクションッ!」と手を打った。
──なんじゃ、そら。と、思った瞬間、両肩を掴まれ、ジョセフの顔が鼻先に近づいた。
「お前、あいつとデキてるのか」
「──え、ええ、と……」
焦りと憤りを隠せない、そんな表情まで作りこんでいる。唐突に始まった寸劇に、着いていけず、どもってしまった。
「どうなんだよ!?」
「ちが、違います……」
「俺たち、中途半端になってたろ? だからちゃんと話そうと思って来たのに……もう知らないっ!!」
女子か。「クロードはそんなこと言わない」とつっこみ、グダグダな寸劇は終わった。
「──まあ、こんな感じだ」
「全然伝わらないよ」
「いいんだ。やりたかっただけだから」
満足したらしく、ジョセフはやりきった表情をしている。今更だが、めんどくさい奴だ。自由すぎる。
私はこっそり溜息をついた。
「いいな、ルー。何度も言うが、安売りするなよ」
「しないったら」
何度も頷くと、ジョセフはようやく納得したようで、再び歩き出した。
「今や、お前の株価は急上昇!! 女の価値もうなぎ登りだ!!」
ジョセフは両手を頭の上で合わせて鰻になりきっている。「フゥー!」と叫びながらスキップする大の大人を、通りすがりのカップルがギョッとして見やる。
恥ずかしいので、私は他人のフリをしながら、なるべく距離をとって歩いた。
***
ジョセフには家の近くの大通りで帰ってもらった。もし一緒にいるところを家族に見られたら、進展はあるのか、上手くやっているのか、さらには挙式の日程や準備の進捗について、あれこれ聞かれて面倒なのだ。
自宅の門が見えた時、「ルーシー」と男の声に呼び止められた。ぬっ、と現れた黒い人影に驚いて、ひゃっ、と小さく悲鳴をあげてしまった。振り返ると、クロードが立っていた。体が強張る。
「こんな時間まで何やってたんだよ」
怒りを押し殺しているが、声色に苛立ちが含まれている。
動揺する私を見て、クロードの目が厳しくなる。
「別に、食事してきただけよ」
「へえ、今まであいつと一緒だったのか。こんなに遅くまで」
「別にいいじゃない、そんなに遅い時間じゃないし」
「男女が二人で食事だぞ? 普通じゃないだろ」
「ただの職場の上司よ」
「あいつは下心があるんだよ、わかるだろ!」
腕を掴まれた。ゴツゴツした指がくい込んだ部分が、少し痛んだ。
「まさか、あいつとデキてんのか」
「──えっ……」
「どうなんだよ!?」
怒りと焦りが混ざったような顔で迫ってくる。突然のデジャヴに、体が震えた。こんな状況だというのに、小さな感動さえ覚えた。頭の中で、公園でのしょうもない寸劇の回想が流れる。
「なにが可笑しい」
「──べ、別になにも……」
無意識に顔がにやけていたらしい。不愉快そうに眉を顰めるクロードに、慌てて首を振った。
「まさか、あんな奴に本気なのか?」
「そ、そんなわけないでしょう」
「色んな女と遊んでるような、成金野郎だぞ」
「ちょっと変だけど良い人よ。そんな言い方しないで!」
ムッとして言い返すと、クロードは目を見開いた。目の奥の怒りがいっそう燃え上がった。私がクロードに歯向かったのは、これが初めてだった。
クロードが投げ捨てるように私の腕を離した。
「そういえば今日も、色んな男を引っかけてたもんな。どうせ、その格好もあいつの趣味だろ」
「なによそれ……」
一方的に捨てたのはそっちじゃないか。なのに、そんな言い方はないだろう。
「もういい。もう一度、ちゃんと話し合おうと思った俺が馬鹿だったんだ」
冷めた目を私に向けると、背を向けて歩き去っていく。
これでいいんだ。安売りするなとジョセフにもしつこいくらいに言われた。
だが、途端に不安が押し寄せる。今まで連絡のひとつも寄越さなかったクロードが、この後に連絡してくるとは思えない。それに私を失ったところで、彼にはまだマリーがいる。二人はきっと、結婚するだろう。だとしたら、今度こそ、本当に終わってしまう。
最後は、正直な気持ちをぶつけた方がいいんじゃないか。
「──待って」
気づいたら呼び止めていた。言ってしまってから一瞬、冷静になる。クロードが振り返った。
しまった、そう思ったが、次の瞬間にはクロードの腕の中に押し込められていた。
頭の中で「安売りするな」という声が聞こえる。慌てて離れようともがいたが、力が強くてビクともしない。もう二度と触れることはないと思っていた懐かしい香りが、頭の中の声をかき消していく。
「──やめて、誰かに見られたら……!」
一瞬、クロードの腕が緩んだ。互いの体の間にできた隙間に両腕を滑り込ませて、目一杯の力でクロードの身を剥がした。
離れたのもつかの間、今度は片手を掴まれ、再び引き寄せられる。片手を拘束されてうまく抵抗できなくなったところで、後頭部に手を回された。クロードの顔が近づく。強引に唇を奪いに迫る。
咄嗟に顔を逸らしたが、耳から首筋へと舌が這っていく感覚に、身体が麻痺していく。
「や、やだ……!!」
半ば暴れるように、がむしゃらに身をよじって離れた。クロードの呼吸は乱れ、肩で息をしている。私を見つめる目はまだ諦めてはいなかった。
距離を詰めてくるクロードに合わせて後退りすると、自宅を囲んでいる塀に背中があたった。
壁に身を押し付けられながら、顎を固定され、口を塞がれる。普段の彼からは想像できないほどの熱が伝わってきた。
はね退けなければならないのに、全身に狂おしい程の懐かしさと愛おしい記憶がよみがえっていく。
クロードを押していた腕が力なく服の上を滑り落ちる。
やがて意志を失った心は、底なしの沼に引きずり込まれていった。
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