第12話 本音と建前
「パン屋のおかみさん、なんか言ってなかった?」
紅茶を口に運ぼうとして、一瞬手が止まる。言われたまま伝えて良いものなのか迷って、当たり障りのない伝言を選んだ。
「あー……ジョーによろしくって」
「他には?」
完全に何かを期待している目を向けた。口元が緩んでいる。
「女の子をパシリにするなって──」
「孔雀野郎って?」
戸惑いながら頷くと、ジョセフはゲラゲラと笑いだした。油絵タッチの柄物のブラウスを着ている様は、年配の人の目には〝孔雀〟に見えなくもないだろう。しかし、そんな個性的な柄も、彼にはよく似合っている。
「そんなラブコールを受けたら、行かないわけにはいかないな」
「どこがラブコール?」
「パシるなってことは、自分で来いってことだろ。つまり、俺に会いたいってことじゃん。まったく、可愛いんだから」
「……違うと思うよ? 気持ち悪いって言ってたし……」
「素直じゃないだけだよ」
「えー……」
どういう思考回路だろう、と甚だ疑問だが、おかみさんの満更でもない表情を思えば、これが日常の何気ないやり取りなのかもしれない。ジョセフは言い寄り、おかみさんがディスりで言い返す。正反対の愛情表現が定着しているのだろう。
そんな関係性とは無縁の私にとっては摩訶不思議であり、でも、少し羨ましい気もした。
「おかみさん、面白い人だった。毒舌なのに全然嫌味がなくて、お客さんもみんな笑ってた」
「それは彼女が本音で接してるからさ」
「本音?」
「一人一人との距離感でもって、本音と建前を織り交ぜて会話しているんだ。だから嫌味がなく、裏表を感じさせないのさ。本音で接してくれる相手には、誰だって安心するだろ?」
うん、と頷いて同意する。
「それに、どんな言葉が返ってくるのか、興味をひかれる。褒め言葉なら誰だって言えるからな。人は想定外のできごとに惹き付けられるもんなんだよ」
「でも、おかみさんだから、あんな大胆なこと言えるんだよ……。私が言ったら、普通の悪口になっちゃう」
「たしかに、おかみさんは上級者だな」
距離感をはかるのが絶妙に上手いから、とジョセフは何度か頷いた。
「でも、応用できる。褒めて、男を上手にたてつつ、そこに本音をぶち込め」
「……難しいよ!!」
「アナなんか上手いぞ」
ジョセフは親指で店頭の方角を指した。
そういえば、アナもなかなかの毒を吐くが、聞いていて嫌な気持ちにならない。
「魅力的な人がどう接しているのか、よく観察して盗め。それを自分らしく使いこなすんだ」
ジョセフがなぜ、無理矢理おつかいに行かせたのか、分かったような気がした。人と話す機会を増やし、手本となる人との関わりを持たせる。
そして、衝撃の事実に気がついてしまった。
──転がされてるのは、私のほうじゃないか!?
なにが、手のひらで転がせ、だ。まあ、沈没フラグ船に便乗したのは自分なのだが……。
それにしても、偽装の婚約に巻き込んだとはいえ、私を就職させたり、婚活を手伝ったりと、そこまでする必要はない。私がどうなろうと、半年後に問答無用で婚約を破棄すれば済む話なのに。
──私のこと、嫌いなんじゃないのかな?
夫人との関係が終わってしまった原因である私は、恨まれて当然なのだ。
ジョセフは呑気に「青果店はしくったなあ……」とボヤいてたが、私の表情を見るなり、すぐに何かを察知したようだ。
「──どうした?」
「ううん、別に……」
なんだよ、とさらに訪ねてくるあたり、誤魔化しは効きそうにない。だが、正直に聞くのは怖い。悩んだ末、思いついた別の話題にすり替えることにした。
「……クロードに会ったの」
ジョセフは目を見開いた。どうやら、うまく誤魔化せたようだが、話題の内容が憂鬱なのには変わらない。
「いつ?」
「さっき。すれ違っただけだけど、多分、私には気付いてない、と思う……」
「とんでもない強運だな」
「もはや悪運だよ」
頭を抱える私に対して、ジョセフは愉快そうに笑っている。人の気も知らないで、と恨みごとを身の内でごちった。
「気まずくて隠れちゃった」
「なんでだよ!? 堂々と見せろよ!! 今のお前をさ!!」
「そんなこと、できないよ」
「なぜ!!」
「なぜって……」
いくら綺麗にしてもらったとはいえ、あのマリーに比べたら月とスッポンだ。
口ごもる私を見て、ジョセフはすぐに図星をついた。人をよく見ているせいか、やたらと察しがいい。
「未練タラタラかよ」
「だって!! だあってぇえええ……!!」
テーブルに情けなく崩れ落ちると、楽しんでいる笑い声がした。ひどい。
「初恋なんだもん……」
「とはいえ、どこかで踏ん切りつけないと次に進めないぞ。でなきゃ、俺だって困るし、お前はもっと悲惨な末路だ」
「わかってるよ、わかってるけど……」
忘れられない、と霞む声で呟く。
しばしの沈黙を破ったのはジョセフだった。
「そんなに忘れられないなら、奪い返せ」
何か、ひどい聞き間違いをした。
聞き返すと、もう一度、はっきりと告げられた。
「マリーから奪い返して、結婚しろ」
「はあああ!? 無理よ!! 絶対無理!!」
「そうとは限らない。マリーが現れなければ、お前ら結婚してたんだろ?」
「……た、たぶん……?」
「もしこれから、クロードから何かしら連絡があれば、まだ可能性はある」
悪い冗談かと疑ったが、ジョセフは大真面目な顔をしている。
「連絡なんかこないよ」
「今日すれ違ったのが、お前だと気付いていたら……」
「でも、話しかけてもこなかったもの」
「その後で気付くことだってある」
期待を持たせるようなことを言われたら、余計に忘れられなくなってしまう。
「いいか、もし連絡がきても、無視しろ。
「そんなことしたら、せっかくのチャンスを逃しちゃうんじゃ……?」
「いいや、逆だ」
ジョセフは手のひらを裏返す仕草をした。
「破局のあとに連絡してくる理由なんか一つだ」
「まだ気持ちが残ってるから?」
「違う!! 相手の様子を探るためさ」
どういうことだ、と首を傾げてジョセフを見やる。
「自分にフラれて、さぞ落ち込んでいることだろう。その惨めな姿を見れば優越感に浸れるだろう?」
「ひ、ひどい!! いくらなんでもそんなことする人じゃ──」
「ないとも言いきれないだろ。人間ってのはな、辛い状況にあると、自分以上に不幸な奴を見て安心する生き物なんだよ。自分のほうがまだマシだ、ってね」
「そんな、こと……」
ない、と断言出来なかった。マリーが現れ、クロードとの結婚が脅かされた時、私はマリーの悪い噂を粗探しした。それでクロードの気持ちが戻ってくるのではないかと、淡い期待を抱いていたからだ。しかし、現実はそんなに上手くはいかない。人から聞いたマリーの噂といえば〝彼氏をマリーに紹介するな〟というものだった。マリーはいつも笑顔で人あたりも良く、清楚で、そのうえあの美貌である、男はみんな彼女に惚れてしまうらしい。
同性は警戒する噂だが、異性の反応は違った。それどころか、藁にもすがる思いでとった行動が、クロードにバレて自分をさらに貶めることとなった。
確かに、あの頃の私は間違いだらけだった。幸せがこぼれ落ちていくのが怖くてたまらなかったのだ。
──私は、嫌な奴だ……。
俯いた私の肩に、手が置かれる。顔をあげると、ジョセフと正面から目が合った。
「人は弱い。そうでもしなきゃ、精神を保てないんだ。防衛本能だと思って受け止めるしかない。それが嫌なら、人前で不幸な
笑顔は防御にもなる、と、ジョセフは笑ってみせた。つられるように、私もぎこちなく笑って返すと、緩く頬をつねられ「二十点」と言われた。それに思わず「低っ!!」と呟くと、不思議と自然に笑えた。
「奴から連絡がきたら知らせろ。その間に──」
ジョセフはいつもの得意げな笑みを浮かべた。
「スープを極めておけ」
なぜ、突然スープ?と、首を傾げながら、料理名を復唱して聞き返す。
「さっき話した思い込みの心理は、かなり使える。それに、極めるのは一品で充分だ。それがスープ」
「スープなんて、見栄えしないよ? 普通はもっと……例えば、お菓子とかの方が女の子らしくない?」
よりによって、めちゃくちゃ単純な料理じゃないか。それを極めたところで、もっと手の込んだ料理を作れる女子は沢山いる。
「要は使い所だよ。付き合う前の、料理アピールなんてほぼ無意味だ。俺に言わせれば、むしろ逆効果だね」
「うそ!?」
嘘じゃない、とジョセフは首を横に振る。
「それで成功するとしたら、元々男のほうも気があったか、全くモテない奴くらいだろうな」
「なんで!? 喜んでくれるんじゃないの?」
「モテる男は、他の女からも貰ってんだよ。いいか、手料理をあげるってことは、告白してるようなもんなんだ。言いかえれば、簡単に手に入る女。つまり、自ら価値を下げる行為なんだよ!!」
「女子力高いのに!?」
「手は出しても付き合うには至らないな。簡単にいえば、チヤホヤと自分を持ち上げてくれるファンみたいなもんさ。その括りにされたら、這い上がるのは難しいと思え」
ひどい話だ。耳を塞ぎたくなるのを我慢して、疑問を投げかける。
「じゃあ、スープは?」
「いくつかレパートリーをマスターしておけ。そして、ここぞという時に、披露するんだ」
「ここぞという時?」
ジョセフが笑みを浮かべる。ついさっきした、あの悪い笑みだ。
「男が風邪をひいた時さ」
「また、ずいぶんベタな……」
「ベタだが効く!! 人間、弱ってる時が一番の狙い目だよ」
確かにそうかもしれないが、だんだんと自分が計算高い女になっていきそうで嫌だ。それに、人の弱みに付け入るなんて、良心の呵責に悩みそう。
「そうだとして、普通、お粥とかじゃないの?」
「確かにお粥は定番だ。だが、人によっては固形物が受け付けない時がある。でも液体なら喉を通ることもあるだろ? 病人の食欲の具合はその時じゃなきゃわからない。でもスープならすぐに応用が効くんだ。米を入れれば粥の代わりになるからな」
「た、確かに!! しかも、いつも台所にあるもので作れる」
「二日酔いにだっていい」
いいか、と、ジョセフが言い聞かせるようにトーンを落とした。
「これをクロードにやってやれ。必ずお前の手で作るんだ。スマートにこなせれば、弱った奴の目には、お前が女神に見えるだろう」
女神は大袈裟だと思うが、自分に置き換えて考えると、人にして貰ったら確かに嬉しい。それからジョセフは、思いついたように付け足した。
「間違っても、味の感想なんて聞くなよ。邪魔しないように、ゆっくり食わせてやるんだ。本でも読みながら待っててやればいい。それで男はお前といる空間に安心感をおぼえるはずだ」
なんて戦略的な思考をする人なのだろう。目からウロコで言葉が出ない。ある意味で感心しながらジョセフをじっと見つめた。
「あんた、詐欺師に向いてると思う」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「いっそのこと、恋愛本でも書けばいいのに」
それはどうだろう、と、微妙な笑みで返すジョセフに対し、私は心底感心しながら頷いた。
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