第30話 決別
その日、ジョセフが店に戻ってくることはなかった。もともとジョセフはオフの日だし、サブのローランがいるから問題はないのだが、発注した品がどうなったのかは聞けずじまいだった。
夕暮れの空を眺めながら歩く。考えてみれば、こんな風に街中を歩いて帰るなんて、仕事を初めるまではしたことがなかった。普通、貴族令嬢は仕事なんてしないし、街中を一人で歩いたりしない。どこかに出掛けるなら、必ずお供を連れているものだ。ならば私は、もう普通のお嬢様ではないのかもしれない。こうして歩いていても、きっと誰も私が貴族だなんて思わないだろう。ノエルが私のことを〝強い〟と表現したのも分かるような気がした。
『上手くやりなさい』
急に母親の声がして、気分が落ち込んだ。
そんなこと、簡単に言わないでほしい。やれと言われて出来たら、こんなに苦労はしない。娘が人より不器用なことくらい、親なら見ていてわかるものじゃないのか。
そんな事を考えているうちに、公園の入口を横切った。以前、酔っぱらったジョセフと歩いた公園だ。あの時は、破天荒なジョセフの行動についていけず、変な奴と関わってしまったと、戸惑うばかりだった。──といっても、まだほんの三ヶ月前のことなのだが。
──人の順応力って凄いな。
なんだか懐かしくなって、少しだけ寄り道することにした。
あの日と同じように、大きなため池に沿って歩く。あの時、ジョセフに散々忠告されたのに、クロードの顔を見たらコロッと情に流されてしまった。
『生き方は自分で選べ』
ジョセフに諭されていなかったら、今もダラダラと関係を続けていたかもしれない。そうだったら、自分は今頃どうなっていただろうか。あの時に比べたら、今の自分の方がまだマシな気がする。
日が半分ほど沈んで地平線を赤く染めている。途中で空の青と溶け合い、補色同士のグラデーションを作り上げている。それをぼんやりと眺めた。
──私はどうしたいんだろう。
初めて胸のうちにある、悶々としていたものに目を向ける。
今の自分は幸せなのだろうか。決して不幸ではないが、幸せとも言い難い。けれども、どうなったら幸せと言えるのかもわからない。
結婚したら幸せになれると思っていた。結婚している人達が幸せそうで羨ましかった。けれど、その笑顔の裏には様々な苦悩や努力があるのだと、今なら想像できる。きっと結婚後も苦難は続くのだろう。
「幸せって、なんなんだろう?」
今ここにジョセフがいたら「自分で考えろ」と言われそうだ。前にも一度、そう言われている。
たしかに、こればっかりは自分にしかわからない。
「──あっ……」
おもわず声がもれた。
ストンと、ずっと引っかかっていたものが落ちたのだ。答えは既に出ているじゃないか。
小さく微笑うと、再び歩き出す。
今頃になってようやくわかった気がした。
寄り道をしていたから、自宅が見えてきた頃にはすっかり暗くなってしまった。
母親と喧嘩してから、ろくに口もきいていないから気分が沈んだ。家よりも職場にいる方がずっと気が楽だ。
俯いていた顔を上げると、門の前に誰かがいるのが見えた。こちらに気づいた人影が、早足で向かってきたので、怖くなって数歩後ずさった。
「ルーシー!」
月明かりに照らされて浮かんだのはクロードの顔だった。表情はどんよりとしていて、眼にいつもの力がない。家に帰っていないのか、髪はベタつき、服はよれていて皺になっている。
反応する間もなく、腕の中に強く抱きしめられた。お酒の匂いが鼻をつく。かなり飲んでいるようだ。
「すまない、俺が悪かった」
「な、なに急に……」
「俺にはお前が必要なんだ」
「やめて。放してよ」
急に何を言いだすのか。互いの体の間に両手を差し込んで、引き剥がそうとする。それに抗うように、クロードが力ずくで顔を寄せてきたので、必死に身をよじった。
「やめて、やめてったら……」
「お前じゃなきゃだめなんだ。ルーシー、やり直そう。な、俺のこと好きだろ」
「い、嫌……!」
強引に身体を引き寄せられ、片手で顎を持ち上げられた。無理やり口を塞がれそうになるのを、寸前で顔をそむけた。クロードの舌が首筋を這う。その感触に、ゾクッと震えた。
ひどい男だ。まるで見世物のように婚約破棄をしておいて、散々もてあそんだ挙句、マリーとの結婚が上手くいかなくなったから復縁を迫るなんて。
クロードにされた仕打ちがフラッシュバックのように脳裏を過っていく。カッと頭に血がのぼる。
「や、めなさい……! この、変態!!」
がむしゃらに暴れた拍子で、偶然、膝が男の急所を蹴りあげてしまった。クロードは痛みに堪えられず、膝から崩れ落ちた。それを見下ろしながら、乱れた服を整える。
「冗談じゃない! 誰があなたとなんか!」
地面にうずくまっているクロードに向かって、昔もらった指輪を投げつけた。いつか突き返してやろうと、鞄に忍ばせていたものだ。指輪はクロードの身体に当たると、乾いた音を立てて地面に横たわった。
目に涙が込み上げる。なぜこんな人を好きだったのか、今はもうわからなくなっていた。同時に、この人からようやく解放されたのだと思った。
「二度と私の前に現れないで!!」
これで本当に終わったのだ。もうこれ以上、関わらないほうがいい。クロードの横を通り過ぎようとした。
「辞令が出たんだ……」
蚊の鳴くような、弱々しい声だった。
「あそこは辺境地で仕事もほとんど雑用みたいなものだ。それにいつ戻ってこられるかもわからない……」
つまり、左遷ということか。辞令のことは同情するが、仕事が上手くいかないからといって私にしたことへの言い訳にはならない。
「そもそも軍に入ったのは自分の意志じゃない。うちの家系が代々軍人だったからそうしたけど向いてなかった。どんなに頑張ったって後から入隊した奴らがどんどん出世していって……。俺なんか……。けれど、それを見せるのが怖かったんだよ……」
クロードが落とした涙が地面が濡らしていく。丸まった背中が小さく、頼りなく見えた。その姿は、幼い頃から知っているクロードとは、まるで別人だった。
クロードに出会ったのは九歳の時だった。父親に連れられてうちの屋敷を訪ねてきた。対面した瞬間、心臓を射抜かれたような衝撃を受けた。典型的な一目惚れだった。両親から彼が婚約者だと聞かされた時は、人生の全ての運を使い果たしてしまったのではないかと思ったくらいだった。
しかし、人生とは思いどおりにはいかないものだ。親同士が決めた約束などで、人の心は縛れないのだと思い知る。
クロードが自分に気がないのは、子供ながらにわかっていた。彼は、人前では私を気遣い、優しい言葉をかけ、婚約者として文句のない立ち振舞いをしていたが、二人きりになると、急に仰々しい態度になった。それが寂しくて、なんとかクロードの気をひこうと、我儘を言ってみたり、わざと躓いてみたりもした。子供の浅知恵で思いつくことは全てやった。が、どんなに頑張っても、胸のうちにある不安は増すばかりだった。
学園に通ってからも、クロードはすぐに人気者になった。階級が高いのにも関わらず、誰にでも気さくに接するクロードは、常に人に囲まれていた。彼を狙う女子も多かった。クロードが婚約していることを知ってもなお、アプローチする人が絶えなかった。張り合うのがおこがましいくらい綺麗な子ばかりで、彼女たちがクロードに接するのを、陰でやきもきしながら見ていることしかできなかった。
それでも我慢できたのは、親同士の決めた婚約という契約だけは覆されることはないと、自分に言い聞かせて不安を誤魔化してきた。
クロードの婚約者であることが、自分の存在意義であり、全てだった。私の世界は彼を中心に回っていたのだ。
そのクロードが、泥で膝を汚しながら泣き縋っている。
「もともと結婚する気はなかったんだ。自分のことでも精一杯なのに、他人のことを養う余裕なんかない。軍なんか入るんじゃなかった。辞めたところで笑い者だし、親からは恥晒しと追い出される。それをお前に知られるのが怖かったから、何もかも順調なふりをしてた。本当の俺を知っても受け入れてくれたマリーに逃げたんだ。そうやってずっと自分を偽ってきた」
マリーはそのことを知っていた。対して私は、ずっと傍で見てきたはずなのに、クロードが苦悩していたなんて思いもしなかった。どうしてもっと大事にしてくれないのか、なぜ私だけをみてくれないのかと、いつも不満に思っていた。自分のことばかりで、クロードとちゃんと向き合っていなかった。
苦しげにすすり泣く声が暗闇に響く。
「──プリドール伯爵は、そんな俺を見抜いてたよ。マリーとの婚約を否定されて、正直、ほっとしたんだ。最低だよな。俺はそんな臆病な男なんだ」
夜会の日、婚約を認めてもらえなかったというのは本当の話しだったのか。マリーが自室に引きこもって泣いていたということは、きっと彼女は本気だったのだろう。
同時に、異業種交流パーティーでマリーが見せた、驚いた顔が浮かんだ。クロードの嫉妬心を煽ろうと、ジョセフが一芝居をうった時、その思惑通りにクロードは私の腕を引き、止めようとした。それを目の当たりにしたマリーは悲しげに目を伏せるだけで、文句のひとつも言わなかった。
言えなかっただけなのかもしれない。
マリーは人前ではいつもニコニコしているが、それ以外では伏せ目がちで、困るとすぐに泣いてしまうほど脆い。それでもあの容姿のおかげで、まわりからはいつもチヤホヤされている印象だった。
クロードとの婚約解消の原因になったあの事件までは、私もマリーに対してそんなイメージしかなかったが、真実はそうではないのかもしれない。彼女は彼女で、クロードの気持ちがどこにあるのかわからず、いつも不安を抱えていたのだとしたら──。
ジョセフがマリーを〝お人形さん〟と皮肉っていたのは、彼女の違和感を察していたのかもしれない。
──なんていうか、拍子抜けだわ。
傍から見る限り、二人が幸せそうで羨ましかったのに、真実とは見ただけではわからないものだ。クロードもマリーも、そして私自身も、傷付くのが怖くて臆病になっていた。
深くため息をつくと、しゃがんでハンカチを差し出す。クロードは涙で濡らした顔を私に向けた。
「辞令のことは気の毒に思う……。それでも最後は、自分で決断するしかないんだと思う」
以前までの私は、クロードに対して〝結婚〟という言葉を何度も口にしていた。それは単に自分の不安を消したいが為の行為だった。それがクロードにひどくプレッシャーを与えていただなんて思いもしなかった。恋人として、婚約者として、クロードが抱えているものや心のうちを知ろうとしていなかった。
今向き合わなかったら、一生後悔するような気がした。
「あの家じゃ、俺には発言力がない。弟たちの方ができがよくて、誰も俺のことには興味がないんだ。あの家での存在価値は、名誉や功績。軍人という肩書きがあったから、首の皮一枚繋がっていられる。だから……」
「たとえ反対されても、バカにされても、そこに自分の意思があるのなら胸を張るべきよ。だって、自分の幸せは自分にしかわからないじゃない。どう生きるかは、自分で決めるべきだと思う!」
誰かさんの台詞を拝借したのは、自分もそれに当てはまるからだ。
「あなたなら、大丈夫」
クロードは勉学だけではなく、人付き合いを大事にしていて、友人達の誘いを断るところは見たことがなかった。授業が終われば、軍の訓練生として講義や演習にも参加していた。それなのに成績を落とすことは一度もなかった。遊んでいるように見えて、陰では人一倍努力してきたのだ。
「毎日帰りが遅くて疲れているはずなのに、休みの日にまで勉強してたことを知ってるもの。そういうところも尊敬してた。だからどこへ行っても、あなたはあなたのやり方でどうにかできるわよ」
クロードは立ち上がってハンカチを受け取ると、鼻声で「ありがとう」と呟いた。
初めて仕事をして感じたことがある。自分ひとり生きていく生活費を稼ぐのも苦労するのに、もう一人の人生を背負うのは大変な覚悟がいる。もし子供が生まれたら、負担はさらに増えていく。そうなったら、どんなに仕事が嫌になっても働き続けなければならないし、簡単に転職ともいかなくなる。男が女以上に結婚に対して慎重になるのは当然だろう。
女は女で大変だけれど、男も男で大変なのだと思った。
「それじゃあ、お元気で」
踵を返すと、咄嗟に呼び止められた。
クロードはゆっくり立ち上がると、背広の袖で涙を拭いた。
「あ、あのさ、もし俺が戻ってきたら、また──」
「あー、それはないわ」
返事の内容とは正反対の、晴れやかな笑顔を向けた。これがクロードに見せる最後の表情だ。
「だよな」クロードは肩をすくめると、小さく笑った。
今度こそ本当に、その場を去った。振り返ることもしなかった。
来週はノエルとの約束がある。ジョセフが店を留守がちになるから、仕事も忙しくなる。
今度は人とちゃんと向き合おう。大切にされたいと願う前に、自分が人を大切にするんだ。そうやって、自分の幸せのかたちを、ゆっくり探していけばいい。
空を見上げると、今夜の星は一段と輝いているような気がした。
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