第3話 偽装婚約
目の前には公爵夫人の間男。気まずい空気のなか、私たちは無言のまま向き合っている。ジョセフの表情は微笑んでいるものの、時折視線を下げているのが〝退屈〟であることを物語っている。私は気まずさから、口をつけていない紅茶の水面をずっと見つめたままだ。
二度と会うことはないと思っていたのに、両親が持ちこんだ縁談の相手が不運にも彼で、何度か説得を試みたものの、聞く耳持たず。ついに見合いの日を迎えてしまったのだ。
相手の母親は早くに他界してしまったらしく、父親であるフランク・ウィルソン子爵のみが同席した。オイルできっちりと整えられた髪は、所々白髪はあるものの若々しい印象で、細身のスーツを着崩しているののにだらしなく見えないのが不思議でならない。会った瞬間の第一印象は〝やんちゃなおじさま〟だった。
しらばらくは親同士で談笑していたが、ウィルソン子爵は高そうな時計をチラリと見るなり、整った眉を八の字に下げて
「申し訳ないが、どうしてもはずせない仕事の予定がありまして、私はこれで席を外させて頂きます。慌ただしくてすみません」
「とんでもありません。急なお話でしたのに調整して頂いただけで充分ですわ」
「息子の予定は空けてありますので、ゆっくりされていってください」
「まあ、お気遣い感謝しますわ。娘も今日は一日中
ほほほ、と上品に笑う母から放たれる威圧を感じとっているのは、おそらく私だけだろう。その証拠に、隣では父が呑気に頷きながら同調している。〝婚約しなければ勘当〟というプレッシャーに冷や汗が吹き出る。
それに追い討ちをかけるがごとく、両親は「あとは若い二人で……」と言い残し退室してしまった。
場は、静けさに包まれた。チラリと相手の様子を伺う。
白波のような長髪を後ろで束ねていて、視線を動かすたび、はらりと揺れるおくれ毛が絶妙に艶っぽく、自分と同じ年齢だとは信じ難い。その色気の正体を探ろうと、敵を凝視する。胸元の開いたブラウスから、柄物のスカーフが謙虚に存在をアピールしていて、全体的にユニセックスな雰囲気を
──アリなんだ!?
そもそもスカーフは女性がするもの、という固定観念が崩されてしまった。それに対し、無地でグレーの映えないドレスを着ている自分が、急に貧乏臭く感じて恥ずかしくなった。私はいたたまれずに肩を竦める。
──逃げたい……。
今すぐこの場から。相手から話しかけてくる様子もなく、ひたすら沈黙が続く。
というか、なぜ私が気まずい想いをしなければならないのだろう。悪いことをしているのは相手のほうなのに。
──そうよ!! 私は堂々としてていいんだから!!
思い切って顔を上げると、バッチリ視線が交わった。堂々とした存在感に気圧されて、慌てて目を逸らす。
──えええええ!? なんでそんな威風堂々としていられるの!? 不倫してるくせに!!
浮ついているせいで善悪の区別がつかなくなってしまったのだろうか。世の中間違っている。
「言ってないんだな」
「──えっ!? な、なにを、ですか……?」
「とぼけるなよ、今更」
バレている。私は再び押し黙った。
紛れもなく、あの現場のことを言っている。
「あのことを言えば、この縁談だって断れただろうに」
「い、言えるわけないじゃないですか、あんなこと!!」
できるだけ声を抑えて訴えると、ジョセフは訝しげに眉を寄せた。
「何が欲しい? 金か?」
「はあ? 要りませんよ、お金なんて」
「まさか、本気で俺と婚姻したいのか?」
「だっ、誰が不倫してる奴なんかと!!」
「声がでかい!!」
しまった、と口を抑え、椅子にかけ直す。軽く咳払いをして気を取り直すと、再び声を抑えた。
「そ、そりゃあ結婚はしたいです。でも、浮気するような人とだけは絶っ対に嫌なんです!!」
「俺だって嫌だ。おまえみたいな余りもの」
「あ、あま、余りもの!? 人のこと言える!?」
「俺は結婚できないんじゃなくて、
──何言ってるんだろうこの人……。
もういっそのことバラしてやろうか。痛い目にあわないと、人間なかなか変われないと言うし。
しかし、不倫相手が大物なだけに、もしバレたらウィルソン家は会社だけでなく、血筋ごと潰されるんじゃなかろうか。つまり私は、ジョセフひとりではなく、ウィルソン家一族の命運を握っているわけである。他人の人生を軽い気持ちで左右するなんて、とてもできない。
「話が早くて良かった。お互いその気がないなら今回の話は無しってことでいいよな?」
「はい。──いや、ちょっと待って!!」
いったん同意をしたものの、慌てて前のめりに立ち上がった。そう、重要なことを忘れかけていた。
「この縁談がまとまらなかったら、今度こそ家を追い出されるかもしれないんです!!」
ジョセフはきょとんとして、首を傾げた。
「それ、俺に関係ある?」
「ひどっ!! 私の人生はどうなってもいいんですか!?」
「──うん、まあ興味ないから」
「はああああ!!!? こっちはあなたの秘密を黙っててあげたのに、そんなこと言う!?」
「
「はああ!? ああ、あーそうですか!! だったら言いふらしていいんですね!? モーリアック公爵の耳に入れば、人を雇って調べあげられて、証拠だってすぐに出てくるんだから!! そうなったらあなただけでなく、あなたの家族も親族もみーんな破滅ですよ!? ずええええんぶあなたのせいで!!」
怒りにまかせてまくし立てると、ジョセフの表情に、一瞬陰がさした。
「なんだ、脅してるつもりか? おまえにそんな度胸があるとは思えないけどな」
「じゃあいいのね? 本当に言いふらしてやるから!! 追い込まれた人間を甘く見るんじゃないわよ!! 私には後がないの!! こうなったらみんな道連れにしてから破滅してやるわ!!!!」
「うっわ……最低だな」
「別にいい。どうせみんなにもそう思われてるし……」
どん引きしているジョセフを、腕を組んで見下ろした。
辛い時にさえ、私の声に耳を傾けてくれなかったような人達に、良く見られたいなんて思わない。ならばとことん悪役のレッテルを利用してやろうではないか。
「別に、本当に結婚しろって言ってるんじゃない。……そう、少しの間でいいから婚約者のふりをして欲しいの!! とにかく、時間を稼げればそれでいい」
「時間を稼いでどうするんだ? 具体的にいつまで?」
「そ、それは……」
言葉につまる。追い出されるのを先延ばしにすることしか考えていなかった。その間にこっそり婚活に励むか、追い出されても生活していけるような、基盤を築かなければならない。とはいえ、具体的に何から始めたらいいかはまだわからない。考えあぐねた結果、一番想像しやすい方をとった。
「……ほ、本当の婚約者が見つかるまで?」
「そんなの一生無理じゃないか!!」
ジョセフは絶望的と言わんばかりの悲鳴をあげた。
「し、失礼すぎない!? ちゃんと見つかるもん!!」
「おまえは全っ然、全く、わかってない!!」
「な、何をよ?」
ジョセフは立ち上がり、私の横に回ると頭のてっぺんからつま先まで、まじまじと眺めた。そして出たのは、盛大な溜息。
──なぜ溜息!?
「いいか、今のお前じゃあ婚約どころか、誰ひとり言い寄ってこないぞ」
「そ、そんなことわかんないじゃない!!」
噛み付くように言い返すと、ジョセフはその辺に落ちている石ころでも見るような眼で私を見た。
「古臭い髪型、灰でも被ったみたいな地味なドレス。少しくらい肌を見せたらどうだ? その服は鎧の代わりか何かか? 防御率を上げて今から戦場にでも赴くのか?
ジョセフは大真面目な顔で敬礼をしてみせた。散々な言われように私はムッとする。
「こ、これは、お母様が……大人しい方がいいって……」
「それでも話が面白いならまだしも、喋ったところで全く興味もそそられない」
「そ、それは男の方の役目じゃない!!」
「でたでた。おまえみたいなタイプは、なんでも男に合わせればいいと思ってる。面白い話をしろと言われて、本当に面白い話が出来る奴なんてほんのひと握りだし、それだけ会話力のある男は、おまえみたいなつまんない女は選ばない」
「ひ、ひどっ……」
何か言い返さなければ、と口をパクパクしていると、両親が戻ってきた。なぜか、娘は上手くやれていると思い込んでいるらしく、上機嫌だ。
「──どう? そろそろ打ち解けたかしら?」
「はい。お嬢さんのことは、よーくわかりました」
そんなにも爽やかな笑顔ができたのか、というくらいの満面の笑みを貼り付けているが、その言葉には棘含まれている。完全に嫌味だ。だが、すっかり上機嫌のお母様には、それが作り笑いだとはわかるまい。
「そう!! 良かったわ!!」
「ですがこの話は──」
お母様の顔色が一気に曇りはじめた。
──ま、まずい!!
この際、背に腹はかえられない。どんなに最低なクズに成り下がってもいいから、阻止しなければならない。私は急いで両親達の背後へまわり、両手の人差し指をくっつけるジェスチャーをした。
──不倫!! バラされてもいいの!?
それを見たジョセフは、さりげなく嫌な顔をした。
──お願い!! このとおりだから!!
拝むように必死に眼で訴える。
ジョセフ少し考えるように俯いたあと、再び人の良さそうな笑みを貼り付けた。
「……もう少しだけ待って頂きたいのです」
「──あ、あら、なぜかしら?」
お母様の笑顔が引き攣っている。魔王と化す一歩手前の予兆だ。下手なことを言ったら、帰宅するまで待てずに癇癪を起こすだろう。背中に冷や汗が流れる。
「彼女は大変な目にあったばかりで、今が一番繊細な時期です。傷も癒えぬ間に、他の男との結婚を急かすのは気が引けます」
大変な目、というのは婚約破棄のことだろう。話していないのに知っているということは、おそらく噂が耳に入っていたのだろう。
お母様は大袈裟な咳払いをした。
「ま、まあ、お優しいのね。でも大丈夫よ。結婚して子を生むことこそ女の幸せ。家庭に入れば、傷はそのうち癒えるわ」
言いながら、黒いオーラを放っていることに、本人の自覚はなさそうだ。この圧に耐えられる者は、強者の勇者かバカしかいないだろう。
ジョセフは笑顔を崩さずに頷いた。
「ええ、おっしゃる通りです。だからこそ、万全の状態を期して、彼女を迎え入れたいのです」
「万全の状態?」
「ご存知のとおり、我が一族は商売の腕で繁栄させてきました。商売柄、〝始まり〟というものを重要視しています。新規店のオープンですら吉日を選ぶ。それくらい、スタートが肝心なのです」
「はあ……?」
「まあ、願掛けみたいなものですよ。すみません、血筋なのか、どうもそういうことには過敏でして。結婚ともなれば、なんの痼も残さず、みな晴れやかな気持ちで花嫁を迎え入れたい!!」
後半につれて熱がこもっていく力説に、珍しくお母様が押され気味だ。
「──と、いうことで、籍を入れるのはもう少しお待ち頂いても?」
「え、ええ……。ですが、いつまでお待ちしたらよろしいのかしら? 娘もいい歳です。誕生日が来たら適齢期も過ぎてしまうし、その前に貰って頂かないと、あんまりだわ」
ジョセフは言葉をつまらせた。私に結婚相手が見つかるまで、なんて言えるはずもない。かといって、本当に結婚相手が見つかる保証もない。
十代でお嫁に行くが当たり前の世の中で、未だに相手がいない私は随分と遅い方だ。今年の誕生日を迎えれば、格段に貰い手が減り、結婚が難しくなるのは周知の事実だ。もしそうなれば婚活するにも、候補は年配しかいなくなるだろう。そう考えると〝適齢期〟というパワーワードがいっそう不安を助長させた。
ジョセフが乾いた雑巾から水を絞り出すような声を出す。
「──そ、れはその……い、一年、くらい……?」
「い、一年!? バカにするのもいい加減に──」
「半年!! では、半年以内でどうでしょう?」
ついに地雷を踏んでしまった。それをいち早く察知したジョセフは、癇癪を起こしかけた母を
「そういえば十月は
ジョセフは大袈裟に言うが、その声からは熱意がすっかり抜けてしまっている。
天赦日とは、年間を通して極めて日数が少なく、入籍にはうってつけと言われている大吉日だ。
「それまでには、心の準備もできますよね?」
突然問いかけられて、全員の視線が私に集中した。この流れに乗るしかない。私はコクコクと頷いた。
「では、半年後に正式に〝婚約〟ということで──」
「婚約? あらあら、〝婚姻〟の間違いでしょう?」
「──そうでした……」
さり気なくはぐらかそうとしたジョセフだったが、無駄に終わった。うふふ、と
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